文献リストはむずかしい(1)2007-12-01

先日、授業で、久々に怒ってしまった。基本的に、「他の学生に迷惑をかける行為でない限りはしからない」という、きわめて寛大な方針でいるのだが、そうはいかないこともある。

今、教えているのは、文献リストの書き方。

ごく基本的な解説をする。練習として、A4の用紙に、裏表で、8冊の本の表紙と奥付の画像を掲載したプリントを用意しておく。別紙掲載の本について、文献リストを作成しなさい、をその日の課題とする。

まず、基本的な説明。記載項目・並べる順番・区切り記号・『書名』にするかどうか、について教える。

つぎに、こまかなことがらにうつる。雑誌や論文集の場合など。

そして、コンピュータを使ったソート(並べ替え)を説明する。これは、Excelのワークシートから、Word文書の文字列への変換ができないといけない。その時に、タブや、置換機能について知っている必要がある。

まあ、おおむねこのような順で教えることにしている。今日の課題の提出という段階になって、見てみれば、前回、欠席した学生のものはすぐにわかる。

たかだか文献リストであるが・・・授業のとき、学生には、まずこういう・・・学生が書いたレポートや論文を見て、中身をまったく見なくても、文献リストを見れば、評価できる。どんな本がならんでいるか、と同時に、どのように書いてあるか、きちんとしたルールを知っているかどうか、文献リストを見れば、学生の勉強のレベルはわかってしまうのである、と。

欠席したことについては、怒ったりはしない。それぞれ、学生にも事情があるだろうから。(単に、最終の評価の時に、出席点に影響するだけである。)

ただ、休んだ学生への配慮として、授業のレジュメ類は、すべて、大学の授業支援システム(コースツール、WEBーCT)に、PDFでおいてある。これは、欠席した場合には、見ておいてくれないと困る。

そうでないと、どこが問題であるのか、逐一、再説明しないといけなくなる。

60名ほどの学生のその日の提出課題を時間内(90分)で見るには、一人にそう時間をかけてはいられない。

とはいえ、コースツール(WEBーCT)は、はっきりいって使いやすいものではない。ほかの先生は、あまり利用していないようである。しかし、授業のレジュメのPDF版の配布・閲覧という程度には、そう難しくもない。

基本的には、学生の、コンピュータ・リテラシの問題なのかもしれない。教える側としては、どのレベルでつきあえばいいのかとなると、きわめて難しい問題がある。

休んだ場合には、WEB-CTで、PDFのレジュメを見ておきなさい・・・このことで、怒ってしまうというのは、我ながら情けない気分になる。

なお、これは、「アカデミック・ライティング」ではなく、「情報処理入門」の授業でのこと。

携帯メールへの転送は困る2007-12-01

今年度、後期の授業「アカデミック・ライティング」でのこと。

この授業は、1セメスターで、何回か課題を与えて、それをTA(大学院博士課程)が、添削して・・・という形態をとっている。添削は、Word文書ファイルのコメント機能をつかう。したがって、学生とのメールのやりとりは、確実にできないといけない。課題文書の提出・返却は、メールの添付ファイルになる。

ある学生が困った顔で、こう言った・・・大学のメールを携帯の方に転送するようにしてあって、添付ファイルが、受信できない。

大学生の携帯メールの件については、師(もろ)さんが、以前のブログで、いろいろと問題点を指摘している。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20070513/1178991639

この箇所は、(他のところにくらべて)異常に(?)多数のコメントや、トラックバックが、ついている。たぶん、多くの人が、同じような問題をかかえている・・・ということがよくわかる。

とりあえず、私の考えを記すと、

1. 携帯メールが、ここまで普及してしまった以上、使うな、とは言えない。通常のパソコンでの電子メールとの使い分け、を教えなければいけない。

2. 問題のひとつは、携帯メールだと、コンテンツが小さくなる、つまり、小さな画面で用件をすませてしまう。したがって、パソコンのディスプレイ全体をつかって、長い文章をきちんと書くということが、できなくなってしまう。

3. 私は、特に文章がうまいとは自分で思っているわけではない。しかし、わかりやすい文書(文章ではなく)の構成は、こころがけている。どれぐらいの分量の文章なら、ひとかたまりのことが言えるか、どこで改行(あるいは、1行空き)にすると、読みやすくなるか。このようなことは、パソコンのディスプレイを見て文章を書いたり読んだりしていれば、自ずと身につく。しかし、小さい携帯の画面で、ひとことふたこと短いメッセージでは、習得できない。

つまり、携帯メールでは、文章トレーニングにならない、ということである。用件を、一言で伝える練習にはなるかもしれない。しかし、論文やレポートの文章で、要求される文章は、そういうものではない。

なお、「アカデミック・ライティング」の授業では、課題提出は、大学の学生のアカウントから送信、という条件を設定してある。@以下が、「ritsumei.ac.jp」であることが、学生としての身分証明なのである、という。そして、担当のTAには、大学のアカウント以外からのものは、無視してよし、と指示してある。これ以外にも、メールのタイトルの付け方など、こまかな指定もある。これに従わないものは、受理しない方針を、はっきりと学生につたえておく。

今のところ、今年(後期)は、上記の携帯メールへの転送の件以外では、さほどトラブルなしにきている。

デジタル・ヒューマニティーズ(071205)版木の研究から何が見えるか2007-12-05

立命館GCOEの昨日(2007-12-04)の火曜セミナーの発表は、『版木語る』(永井一彰・奈良大学教授)の話し。今、奈良大学には、7000点以上の、版木が集まっている。

版木とは、主に江戸時代、木版による製版印刷がおこなわれていたときの、印刷のための「版」の「板」。

版木の歴史的変遷など、既に印刷された「書物」からでは得られない、近世の出版の事情が分かって、非常に有益な研究会であった。

が、問題は、これから。これを、どのように、デジタル・アーカイブするか、そして、それを、どのように、近世の出版文化史研究に役立てるか、ということ。さらには、デジタル・ヒューマニティーズとして、どのような成果を得ることが可能か。

実物を、手でさわって、人間の眼で見て・・・という研究も大事。

その一方で、デジタルならではの研究領域を、さぐる。まずは、版木の画像デジタル・アーカイブ、これも、単に正面からの画像だけではなく(これは、単に、まっくら)、多方面からの照明をつかった、文字の読めるものでなければならない。

さらには、高精細の3Dスキャン、だろう。「彫り」の痕跡から、版木を作っていく、文字を彫る、絵を彫る、そのプロセスが解明できるとよい。

私の基本的専門領域は「文字」にかかわることである。紙に書かれた、印刷された文字、だけではなく、「版木」というモノから文字を考える視点に、今後、期待したい。

デジタル・ヒューマニティーズ(071205)目録を読む2007-12-05

GCOE火曜セミナーでの永井先生の講演・・・その、冒頭で、このような趣旨のことを、おっしゃった。

芭蕉という人がいる。きわめて傑出した作者である。だが、芭蕉だけを見ていたのでは、わからないことがある。近世には、その他に、数多くの俳諧師がいた。その数多くの俳諧師の頂点に、芭蕉がいる。まず、全体の様相を把握しておかなければならない。

(講演者の永井先生の専門が、近世の俳諧、特に、蕪村、であることを、ARCの赤間先生が、最初に紹介したことをうけてのことと、思う。)

この講演、話題の中心は、あくまでも「板木」についてのものであったので、この冒頭の発言は、近世の出版文化の全体像を把握するためには、という意味での前置きであったのだろう。

デジタル・アーカイブについて考えるならば・・・

全体像が見えないと困る。画像デジタル・アーカイブ、といっても、キーワードで検索しないと何も出てこない、では、こまってしまう。また、そのキーワードも、表記の問題がある。

冊子・書物の画集などであれば、パラパラとページをめくれば、いや、それ以前に、その本の、物理的な大きさで、どの程度の画像(絵)が、収録されているか、わかる。

板木研究は、既存の研究領域の区分では、書誌学にかかわる。東洋学(中国学)では、目録学ともいう。学問の基本として、まず、この知識が必須。まず、四庫分類が、頭の中に入っていないといけない。

学生のとき、先生(太田次男先生)から、授業中におそわったこと。たしか、学部の2年か3年のときの、漢文学の講義であったと記憶する。

『内閣文庫の目録(和書・漢籍)を、読みなさい。』

内閣文庫目録は、日本における書誌学の泰斗・長沢規矩也の手になるもの。

いま、各種学術資料のデジタル・アーカイブ、図書・論文のオンライン検索が当然になった時代・・・本のかたちをした目録を読む、このようなことを、学生に指導することは、不可能だろう。逆に、いかに、インターネットで学術情報を探すか、検索テクニックを教えなければならない。

目録を読む・・・これは、われわれが、デジタルの世界で、失ってしまった「学知」の継承のあり方の一つであろう。

本の値段2007-12-05

本というものは、どれほど読まれたのだろうか?

正直に言って、大学で国文学専攻、ということでありながら、よく知らないのである。

現在の専門である、文字、という視点からとらえなおせば、リテラシ、ということになる。しかし、ただ、字が読めるということと、本が買える、ということは、また、別である。本の価格は、どれほどの社会的意味があるのか。

こんなことを、轟亭さんのブログを、読みながら考えた。

轟亭の小人閑居日記 http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/12/05/2472565/tb

昨日は、立命館で、板木の研究会。近世、板木は、徹底的に再利用したとのこと。いわゆる「もったいない」のリサイクルではなく、板木の板(木材)のコストの問題ということになるのだろうか。

必要になったので、新しく買った『学問のすゝめ』(福澤諭吉)、岩波文庫は、560円。

最初、『学問のすゝめ』が、刊行された当時、どれほどの価格で、それは、社会的にどのような意味の値段だったのだろうか。

インターネットによる、無料、を前提とした学知の構築のなかで・・・考えてみたくなった。

岡崎調査2007-12-07

明日から、一泊で、岡崎(愛知県)に行ってくる。国立国語研究所の第3次岡崎調査の、予備調査。私がかかわるのは、景観文字の領域。

持って行くものは、ようやく準備が終わったところ。

必要なのは、カメラ(デジタルカメラ)とGPSレシーバ。それと地図。地図は、必要と思われる地域だけを、デジタル地図で、プリントアウト。ねんのため、愛知県の地図も、昨日の京都からの帰りに買っておいた。(やっと昨日になってから、というべきか。)

天気予報では、雨ではなさそうなので安心する。雨が降っていましたので、といって、何も調査しないで帰るわけにはいかない。

持って行くカメラは、新しい、オリンパスE-3。防塵防滴構造、多少の雨ぐらいは、大丈夫。ただ、これまで使っていた、E-1にくらべて、ひとまわり重くなっているのが、気になる。しかし、オートフォーカスの使い勝手は非常にいい。暗くてもピントがあうし、手ぶれ補正機能も、かなりのもののよう。

看板などの文字は、暗いからといって、正面からフラッシュ撮影ができない。今は年で、一番、早く日が暮れるころだが、大丈夫だろう。

デジタル・ヒューマニティーズについて、いろいろ考えるが・・・読まなければいけない本ばかりが積み上がっていく。また、同時に、考えるだけでなく、自分の研究として実践していかなければならない。

ともあれ、ナビが無事に、宿泊先のホテルまで誘導してくれることに、期待する。

岡崎のこと2007-12-09

岡崎に一泊の調査は、無事に(?)終了。

文字・言語研究のことは、また別にして、カメラのことを少々。

写した写真(500枚ほど)を先ほど、ざっと眺めてみた。だいたい操作手順は、覚えておいたつもりだが、意外とミスが多い。

AEロック機能の、設定・解除の操作でミスが多い。道路標識などは、空をバックに完全に逆光で撮影するから、中央部のピンポイントか、中央部重点測光にきりかえないといけない。あるいは、画面から、空をはずした状態で、AEロックする。

また、ピンポイントのハイライト・シャドー機能が、新しくついていることを、忘れていた。つまり、全体が黒くつぶれてしまったり、白くとんでしまったり、がいくつかあった。

手ぶれは、さほど多くはなかった。ボディ内蔵の手ぶれ補正機能は、かなりつかえる。今回は、まっすぐ立っていられないほどの強風(つめたい風)の中での撮影がおおかった。それでも、どうにか見られる。

むかしのマニュアルのカメラに慣れた人間にとっては、今のデジタルカメラは、とまどうことばかり。どのボタンをおせば、どのように撮影モードが変わるのか、体に覚え込ませるには、もう少し時間がかかりそうである。

ともあれ、今日は、早く休んで、明日の朝から、仕事の再開である。「じんもこん2007」のパワポを完成させないといけない。あれこれと、書類(次年度の)を書かないといけない。

岡崎の印象などは、追って整理することにする。

デジタル・ヒューマニティーズ(071212)今後のゆくえが心配だ2007-12-12

ある意味では、内輪の話しになるのだが、しかし、これについては、どうしても触れておきたい。立命館GCOEは、毎週、火曜日に「火曜セミナー」を開催している。今は、主に、RAやPDという立場の人たちが、中心になって、自分の研究テーマを発表している。

火曜セミナーは、誰でも参加自由であるし、また、そこでの発表・質疑応答の様子は、すべて、ビデオに記録されている。これは、いずれ、公開される予定である。したがって、完全に、内部の内輪の話し、というものではない。公開の情報についての、私の意見である。したがって、ここ(私のブログ)に書いてもいいだろう。このように判断した上で書く。

昨日(2007-12-11)での発表のこと。

「地図情報のカタログサイトの開発-Web上の地図カタログ-」

と題して、RAの発表があった。内容については、WEBにどのようなデジタル地図があるか、そして、それを使ったGISの応用的な事例をしめしたもの。

ここまでは、いい。質疑応答になって、誰も発言しないので、私は、このように質問してみた、

発表は、すでに、GISに関する情報が確定したものとして、あつかっている。しかし、人文学系の研究者にとっては、GISそのものが、メタ情報なのである。あるモノやコトに、いつ・どこで、を確定していく、あるいは、解釈が、研究者によって揺れることもある。このことについて、どう考えておいでなのか?

こたえは、次のようなものであった。

自分が対象としているのは、一般の利用者であって、人文学研究者ではない。

この発言を聞いた瞬間、激怒するというよりも、唖然としてしまった・・・「GCOE:日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」のRAという立場でありながら、そして、そのプログラムの一環であるセミナーの発表の場において、上記のような発言が平然と語られることは、このGCOEのプロジェクトの根幹にかかわる重要なことではないだろうか。

問題は、このような発言を平然とする、という発表者の意識。そして、その発言について、さらに何もコメントしない、会場の他の人々。

デジタル・ヒューマニティーズを考えるとき、今後、もっとも有望視されているのが、各種人文学研究情報を、GIS(時空間情報)の視点から、見直してみることである。人文学の相互の研究領域を横断するものとして、GISの発想と技術は、中核的な役割をになう。

ただ、自分の専攻である、地理学で論文を書いて学位がとれればいい、と思っているだけ・・・このようなメンバーが、RAとしているということ自体、教育を重視するGCOEとしては、きわめて問題であると、思う。これは、そのRA個人の問題だけではなく、指導する、教員の側にも、考えるべき点があるだろう・・・私は、このように思った次第である。

デジタル・ヒューマニティーズ(071214)じんもんこん1日目終了2007-12-14

京大会館で13~14日かけての、シンポジウム「じんもんこん」(人文科学とコンピュータ)、第1日目は、無事に終わった。

朝一番で(自分の)発表。それから、午後は、ひとつのセッションの座長(司会)。質疑応答で議論が紛糾することもなく、また、誰からも質問がない、という状態は避けられた。

1件だけトラブルというべきは・・・発表者の一人が、マックを使用というこどだったのだが、それが、うまくプロジェクタとつながらない。数分間、ロスしてしまった。

2会場で並行して行っているので、時間は厳守。だが、後の発表者の人たちでどうにか調整ができたので、終了時間は、まもることができた。

あとの心配は、どれほど立命館GCOEの大学院生たちがきてくれていたか、ということ。あまり、会場(京大会館)のなかを見て回るという時間の余裕がなかったので、これが、よくわからない。(2~3人は、顔をみかけたが。)

とにかく、違った分野の研究発表に、直接、接するということは、非常に知的な刺激になる(その方法論や考え方への賛否は別にして)。そして、それを、今度は、自分の研究にどうとりこんでいくか。

今後に期待することにしよう。

デジタル・ヒューマニティーズ(071214)じんもんこん2日目も無事終了2007-12-14

「じんもんこん2007」の二日目も、無事に終わった。

今回の特集は、GIS。したがって、これに関連する発表は、連続して集めてある。それ以外が、他で、まとめられている状態・・・という、プログラム。

本来が、文献・言語をあつかっている人間である以上、どうしても聞いておきたい発表がある。そうなると、肝心のGIS関係の発表は、まったく聞けないまま、ということになってしまった。

ポスター発表でも、興味深いものがいくつかあった。やはり、演壇とフロアという関係での質疑応答とは違って、ある意味で、ホンネの部分にかかわる話しができたりする。

このような研究会に出席するのを続けていると、どうしても、それなりの人脈ができる。最初は、「いったい、この人は何を考えているんだろう」と、思った人とでも、何回か、発表を聞いたり、懇親会で話しをしたりすることを積み重ねていくと、理解できるようになる。

CH(じんもんこん)で、長く活動してきた人は、それなりのものをもっている。学ぶべき点が多いことに、いまさらながら気づく。

極論すれば・・・まだ、コンピュータに「ゆめ」をもとめている・・・そんな人間のあつまりなのかもしれない。「ゆめ」を語るエネルギーを、保ちつづけていきたいものである。