『論文の教室』を読む(3)2008-01-05

2008/01/05 當山日出夫

ここ2~3日で、次年度のシラバスのオンライン入力を、だいたい終えた。一部のこっているのが、「デジタルアーカイブ論」……これは、担当者変更という事態のせいで、まだ、方針がよくわからないでいるため。それにしても、半期をさらに半分にして、クォータ制というのは、どうも納得できない。全部で7回、そのうち「はじめに」と「おわりに」で、残りは、実質5回。5回で、なんかまとまった話しをしろというのでは、内容(コンテンツ)が小さくなってしまう。

石原千秋(早稲田大学)が、どこかの本で書いていたが……セメスタ制になって、一番こまるのが、夏休みがなくなること。夏休みが、ほんとの「休み」になってしまうこと。夏休みの間に宿題を課しておいて、その間に学生が成長するということがなくなってしまう。

セメスタ制でも、15回もあれば、毎年、同じようなネタで、同じような授業をやっているように見えるかもしれないが、授業をする側(教師)としても、その間に、なにがしか、考えるところがある。この歳になってしまえば、成長とはいわないまでも、変化、はある。それが、7回では、すでに用意した話題をつかいきって、終わりである。

ところで、『論文の教室』(戸田山和久)、アカデミック・ライティングの授業では、次年度も、この本をテキストに指定することにした。というよりも、これに代わる本がない。

「教科書」としてであるならば、ひつじ書房とか、くろしお出版、などから出ているのを知っている。しかし、正直にいって、使う気になれない。

はっきり言ってしまえば……文章を書く基本のところは解説した本があってよい。しかし、練習問題や課題は、自分が相手にしている学生に応じて、その勉強の領域や学習のレベルに対応して、教師自身が、作れなければならない。(とはいえ、それだけの、時間の余裕が無いのが、今の教師の実態であるのかもしれないのだが。)

『論文の教室』は、著者(戸田山)自身が、これは「教養小説」であると、書いている(「はじめに」、p.14)。教養小説としてみるならば、成長するのは、学生ばかりではない。教える側も、成長(すくなくとも、変化する)ものであろう。

少なくとも、私の場合であれば、学生に課す最終的な課題として、科学的な思考法の入門書・啓蒙書の類を、一つは選ぶようにしている。そのためには、自分でまず読まないといけない。(この意味では、なにがしか、自分の勉強にもなっていると感じる。)

當山日出夫(とうやまひでお)

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