『理系のための口頭発表術』 ― 2008-02-01
2008/02/01 當山日出夫
邦訳のタイトルは、『理系のための……』とある。講談社のブルーバックスであるから、意図的にそのようにしたのかといえば、そうではないようである。原著名は、『The Art of Oral Scietific Presentation』。また、原著者(ロバート・R・H・アンホルト)は、神経生物学・行動遺伝学が専門、と解説にはある。
ともあれ、アメリカでは、大人気の本であるらしいことが、訳者のまえがきからわかる。
昨日、買ってきて読んだが、またたくまに、傍線と付箋(ポストイット)だらけになってしまった。最初と最後に、私が傍線をほどこした箇所を引用しよう。
科学的な研究成果を発表するという技術というのは、いわゆる弁論術やディベート技術とは違うし、プレゼンテーションや視覚効果の単なるノウハウとも異なる。その本質は、混沌とした思考を、いかに整理し、知的興奮をかき立てる〈物語〉へと変貌させるか、という、論理的思考の鍛錬なのである。 「訳者まえがき」p.9
最も大事なアドバイスを覚えていてほしい。聴衆とコミュニケートすることと、自分の研究に注ぐ情熱を伝えることだ。 p.217
世の中にパワーポイントの使い方の解説書は、たくさんある。また、プレゼンテーションの入門・解説書も、たくさんある。それだけ、今の日本において、需要があるということなのであろう。
だが、実際に、学会発表となると、いろいろと、違和感を感じることが多い。私の場合は、日本語学関係の学会か、さもなくば、人文情報学関係になる。日本語学に限らないであろうが、人文学系の学会では、プレゼンテーションの巧拙は、問題視しない、要するに、中身が問題なのである……という雰囲気が強いように思える。いまだに、パワーポイントは「つかわない」のが当然、用意してきた原稿(配布のレジュメ)を、発表者が読み上げるだけ、というのが主流というスタイルの学会もある。
これはこれで、ひとつの研究発表の方式なのであると言ってしまえれば、それまでである。
だが、今後は、変わっていかざるをえないであろう。その方向性をきちんと見定めるうえにおいて、本書は、適切な指針を提示してくれている。
わかりやすく相手にものごとを伝える、これだけであれば、単なるテクニックにとどまる。本書から読み取るべきと私が感じたのは、「情熱」が必要であるということ。情熱が感じられない発表は、その内容のレベル如何にかかわらず、魅力がない。
このことは、なんとなくではあるが、これまでの、各種の学会などで感じてきたことである。
また、ささいなことかもしれないが、ワイヤレスマイクを、どこにつけるのがいいのか……ということは、これまで気がつかなかった。このようなちょっとした気配りが、発表全体の流れをスムーズにして、よりよい、コミュニケーションを形成することに寄与する。
ただ、コミュニケーションは、文化にかかわる。この本は、あくまでも、アメリカでの本、と思って読んだ方がいいだろう。聴衆の前での、身振りや服装など、日本にはまた日本なりの風習がある。このあたりをふくめて、どのような場面で自分が話しをするのか、そこを考えることが必要になる。
タイトルが『理系の……』とあるからといって、このような良書を理系の人たちにだけ独占させておくてはない。人文学系の人間にとっても、非常に有益な本であることは、いうまでもない。
『理系のための口頭発表術』(ブルーバックス).ロバート・R・H・アンホルト.鈴木炎/イイイン・サンディ・リー訳.講談社.2008
當山日出夫(とうやまひでお)
CH77東洋大学(5) ― 2008-02-01
2008/02/01 當山日出夫
牟田さんの発表をうけて、パネル討論になる。
「デジタルアーカイブとデジタル技術の未来を考える」(1)
発言は、牟田さんの他には、鈴木卓治さん(国立歴史民俗博物館)、五島敏芳さん(国文学研究資料館)。
参加者の感想はいろいろだろうが……「アーカイブ」と「デジタル」をどうつなぐかが、今後の重要な課題であると、私は考えた。
私の考えるところとしては、次のレベルを分けなければならないだろう。
1.そもそも「アーカイブ」とはなにか
2.それを「デジタル」化することの意味はなんであるのか
3.はじめから「デジタル」でしか存在しないもの、PDFのようなもの、これはどうすべきか
このような問題については、今後の課題ということになろう。私自身も、今後、考えていきたい。
ついで、上田勝彦さん(大阪電通大)による、
日本字筆跡の変動解析と筆跡個性に関する基礎的検討(第2報)
簡単にいえば、いわゆる「筆跡鑑定」についての工学的なアプローチということになる。文字や筆跡、あるいは、字体・字形・グリフ、ということがらについて、工学的な手法で考えると、こういうふうになるのかなあ……と、思いながらきいていた。
聞きながら思ったこと……昔、学生のころ、古文書学の講義で、現代の人間の書いたものであっても、その筆跡を見て、男性が書いたものか、女性が書いたものか、判断できなければならない……と、先生が言っていたのを思い出す。変動エントロピーによって、書き手の男女差を判別可能なものかどうか、質問してみようかと思っているうちに、時間となってしまった。
文字というものをコンピュータであつかう場合、さまざまな方向からの研究があるものだと、あらためて感じた次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
CH77東洋大学(6) ― 2008-02-02
2008/02/02 當山日出夫
池田証寿さんの
漢字字体研究のための日本古字書データベースの作成-観智院本『類聚名義 抄』を例に-
このタイトルで、まず、考えること。これが、他の学会(東洋の古典籍や言語 を専門にする)であれば、サブタイトルの方がメインになる。しかし、CH研 究会では、観智院本『類聚名義抄』、と言ってもすぐに分かる人は少ない。と いうよりも、すぐにわかる人間の方が、世の中全体で、圧倒的に少数であろう。
以前、『源氏物語』についてすこし書いたが、単に『源氏物語』というのと 『大島本源氏物語』というのとでは、まったく、見るレベルが違う。このあた りのことは、さきに書いた『理系のための口頭発表術』でも、言及してあった。 セミナーでは、聴衆が、どれほどの予備知識を持っているか、事前に把握し配 慮すべし、と。
この意味で、発表者の池田さんもかなり苦労していた様子がうかがえる。今に なってであるが、場合によっては、私の方から発言して、補足説明などしよう かと思いながら聞いていた。結局、その心配は、杞憂におわった。
だが、ここでの池田さんの始めたプロジェクトの意義が分かるのは、訓点語学 会に属するような、一部の人間だけだろうなあ……という気はする。それを、 どのように、わかりやすく説明するかが、今後の一番の課題だろう。
また、この池田さんの『名義抄』のプロジェクトが本当に有意義なものとなる ためには、その周辺の諸資料のデジタル化が、不可欠である。(この方向の議 論になると、学会内部での非常にデリケートな問題になってしまう。)
技術的には、そう高いハードルがあるという研究テーマではない。そして、こ の専門分野にとっては、きわめて貴重な仕事である。しかし……このような研 究分野における、研究資料のデジタル化と利用、ここに最大の問題点がある、 ということになる。
これは、私自身の専門分野にも直接かかわる領域であるので、ちょっと書きづ らいというのが本当のところである。
當山日出夫(とうやまひでお)
文書管理情報 ― 2008-02-03
2008/02/03 當山日出夫
適当な日本語訳がまだ定着していないので、私の場合、「文書管理情報」と称することにしている。あるいは、強いて、カタカナで書けば、レポートヘッダ、とでもいうべきか。
レポートを提出するとき、次のようなことがらを、まず、きちんと書け、というところからスタートする。
1.文書の種類 ※レポートなのか、ゼミの報告なのか、どういう種類の文書であるのか明記する。
2.日付(年月日) ※基本は、西暦4桁で年を書く。月日だけではだめ。かならず年から書く。提出日を書く。
3.科目名・曜日・時間・担当教員名
4.自分の所属(学部・学科・専攻など)
5.自分の名前(読み方も書く)
6.学籍番号(これが欠如しているものは、自動的に不可になる)
そして、
7.タイトル
以上の、7項目である。このうち、1の文書の種類と、7のタイトルとは、重複する場合があるが、ともかく、これらの情報が確実に読み取れるように、書いてある必要がある。
これらのことを書いてから、やっと「内容」がはじまる。ただ、これだけのことだが、しっかりと身につけさせるには、やはり、半年(1セメスタ)は必要である。
見た目には、きわめて形式的なことがらである。しかし、これを、一歩ふみこんで考えてみるならば、文書の構造とはどのようになっているのか、にかかわることになる。文書作成で「タイトル」なしのレポートを平然と提出する学生に、XMLによる文書の構造化……と言っても、底の抜けたバケツに水をそそぐようなものだろう。
それにしても、なんで、こういう基本的なことを解説したテキストが無いのだろう。紙にプリントした文書には、論理構造と物理構造がある、このことをまずしっかりと教える必要があある。
というようなことを考えて、「アカデミック・ライティング」などの授業を考えている。世の中には、やはり、似たようなことを考える人がいるものである。
ブログ:大学教員の日常・非日常 レポートの表紙
http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/51885545.html
ここの作者は、いわゆる理系の人であるが、文系・理系をとわず、学生が先生に提出物を出すときの、最低限のマナーというか、ルールは、どこかできちんと教えねばなるまい。
まあ、こんなことまで教えなければいけないのか、という気も、一方ではするのであるが。
當山日出夫(とうやまひでお)
自分の名前の読み方を書け ― 2008-02-04
2008/02/04 當山日出夫
なんだかんだとしているうちに、ARGの307号が出てしまったが、これについては明日以降に。
私が、学生に、レポートの書き方を教える、という場合に、「自分の名前の読み方を記しておきなさい」と、かならず言う。
第一に、教員にとって便利。たいてい、学籍名簿・履修者名簿などは、学生の読み方順にならんでいる。学籍番号の数字だけでは、探しにくいときでも、読み方が分かると、比較的簡単に見つかる。これは、出席の整理や、最終的に成績をつけるときに、非常に役立つ。
第二に、自分から名前の読み方をしめすのは、基本的マナーであろうと、思うから。紙に書いたものによるコミュニケーションでも、読み方の分からない名前があると、どうしても、気持ちの中にひっかかるものがある。
例えば、こういう。「もし、君が、卒業して、就職して、営業の仕事を担当するとなった場合、まず、気をつけなければならないのは、お客様には、かならず「さま」と敬称をつけること、そして、決して、名前を読みまちがえないこと、である。読み間違えたら、すぐに、謝る必要がある。」
また、「人間同士のコミュニケーションにおいて、名前を読み間違えた場合、間違えられた当人よりも、間違えて読んでしまった人の方が、気まずい思いをするものである。難読人名の人は、たいてい、間違えられることに慣れているから、さほど気にしないかもしれない。しかし、円滑に、コミュニケーションするためには、まず、自分から、自分の名前の読み方を、示す。そのうえで、相手の名前の読み方を確認する……どのようにお読みするのですか?……と、たずねることになる。これがいい。」
記入の方法は、いろいろ。これは、学生の自主的な判断にまかせる。ひらがなで( )の中にいれてもよいし、ローマ字で書いてもよい。ローマ字で書くときにも、いろんな方式があるが、自分ではこれで書くという方針を決めておいた方がよい。
人名の読み方について、韓国や中国の人になると、困惑する。「李」さん、「金」さんは、どう読むのが、「政治的に正しい」のか。これは、本人に確認するのが、一番。というより、これしか方法がない。
とことろで、私の名前「當山」であるが、難読人名の一種かもしれない。この名字は、沖縄ではありふれている。が、本土では、きわめてまれ。ただし、私の親類縁者に沖縄関係の人間はいない。
また、常用漢字になおして「当山」と書ける人も、数少ない。「澤・沢」ほどポピュラーではない。「当山」と書いてくる人は、漢字をよく知っている人に限られる。
當山日出夫(とうやまひでお)
ARG308 ― 2008-02-05
2008/02/05 當山日出夫
ARGの308号。メールのタイトルの方は、「307」になっている、単純ミスだろう。
まず興味深いのは、
◆私立大学図書館協会西洋古版本研究分科会
http://d.hatena.ne.jp/arg/20080203/1202042225
http://www.jaspul.org/e-kenkyu/early_p_book/
である。
立命館のGCOEのプロジェクトの一つとして、日本の近世の版本を版木から考えてみようというものがある。洋の東西・古今をとわず、書物や文字にかんするサイトは要チェックである。
リンク集を見ると、未知のサイトがいくつかある。これは、今後の参考になると思う。
それから、イベントカレンダーを見て、これはと思ったのが、
一橋大学機関リポジトリ・シンポジウム 「ウェブ時代と学術コミュニケーションのゆくえ-人文・社会科学系研究成果の情報発信の新しい可能性」
http://www.hit-u.ac.jp/function/outside/news/2008/0124.html
もうすでに用語としては古びてしまった感があるが、「WEB2.0」。この概念と、このシンポジウムは、直接むすびつくものではない。しかし、単に、インターネットで情報発信すればよい、という時代から、それを、「どのように」という側面から考えるのが、「WEB2.0」の発想と見るならば、このシンポジウムの企画は、核心をついている。
また、この「どのように」という視点からは、同じARG308で紹介の、
◆電気電子・情報関連5学会、日本の電気電子・情報関連卓越技術データベース
http://d.hatena.ne.jp/arg/20080203/1202042226
である。このように、専門家向け・入門向け、と分けてつくる、そして、それらが相互に行き来できるようになっている、これは、今後の、学術情報発信の一つのあり方について、考えるきっかけになる。
人文学系でも、各種の学術情報サイトがあるが、専門家向けのものは、その専門知識がないと使えない、一方、一般向けのものは、レベルを落として見栄えだけをねらってしまう、このような傾向が無いではない。専門的な内容が、専門家の利用にも役立ち、かつ、一般向けにもわかりやすく解説してある。これは、今後、考えていくべき課題であると思う。
青空文庫については、いろいろ考えてみたいが、別に。
當山日出夫(とうやまひでお)
『対論 言語学が輝いていた時代』 ― 2008-02-06
2008/02/06 當山日出夫
『対論 言語学が輝いていた時代』.鈴木孝夫・田中克彦.岩波書店.2008
新聞の広告で見て、すぐにオンラインで注文。さっそく読んだ。便利な世の中になったものであるが……机のまわりに本が積み重なっていく状況が、加速してしまった。
鈴木孝夫と田中克彦、著名な言語学者の対談である。それを、「対論」としたのは、岩波の編集者の慧眼というべきか。
この本については、いろいろな視点からものが言える。
一つには、私自身が、慶應義塾大学において、鈴木孝夫(以下、敬称略)におそわっている。また、面識のある、あるいは、きわめて身近な存在であった、言語学者も登場する。たとえば、井筒俊彦・亀井孝、など。
もう一つの視点は、純然たる、言語学研究の本としても読める。言語学は科学であるかどうか、という指摘は、素朴な問題点であるが、重要。近年、言語学は、急速に、認知科学、あるいは、コンピュータによる言語処理の分野に接近している。この流れのなかで、言語学とはなんであるのかを、再考するには、重要な契機を与えてくれる。
いろいろと言いたいことはあるが……私が、鈴木孝夫に、直接、教室で習ったのは、半年(今でいえば、1セメスタ)になる。日吉キャンパスの教養での、「言語」の講義。確か、後期から、海外に留学ということで、前期集中(週に2回)であった。しかし、この講義は、(私の記憶では)全部、出席している。
これに先だって、『ことばと文化』(岩波新書)が刊行されている。この本の著者である先生の講義に出られるのだと、うれしかったのを、今でも覚えている。
私が、鈴木孝夫から学んだものは何だろう……学問や研究というものは、自分で問題点をみつけて、自分で調べて、自分で考えるものである……という、当たり前のことである。だが、この当たり前のことが、実は、大学という学問の世界では、当たり前ではない。
私がコンピュータ(PC-9801)を使い始めて、まず、やった仕事は、JIS漢字について全部、辞書をひいて調べること。6349字について、辞書で確認した、最初期の人間の一人であろう。文学の研究にコンピュータなんか使ってはいけません、というような、先生がいた時代のころである。これは、現在では、JIS漢字論、コンピュータ漢字論として、一つの研究領域になっている。
最近、景観文字研究(非文献資料による文字研究)という領域にふみこんだのも、逆に、コンピュータに依存していない現代の文字を考える必要性を感じたからに他ならない。
別に、意図的に先駆的なことをやってきたつもりはないが、鈴木孝夫の影響をうけると、どうしてもそうなってしまう……と、いうことかもしれない。
ともあれ、この本は、現在、言語学について考えるとき、読むべき本のひとつであることはたしか。特に、チョムスキーとソシュールについて、核心をついた批判が展開されている。
その後、直接、鈴木孝夫の講義に出ることはなかったが、顔を覚えていたくださったのだろう。毎回、前の方の席で講義をきいていたから。三田のキャンパス内で、すれちがったりすると、軽く会釈してくださった。
鈴木孝夫から学んだものは、まだ、私の中に生きていると思う次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
宮廷のみやび『御堂関白記』 ― 2008-02-07
2008/02/07 當山日出夫
CH77研究会の翌日……朝、チェックアウトして、上野の東京国立博物館に行く。目的は、「宮廷のみやび」展。幾分の専門知識のある人間にとっては、京都の近衛家の陽明文庫の展覧会、と言われたほうがよく分かる。
朝一番に行ったのだが、すでにかなりの人がいた。どうやら、お目当ては、『御堂関白記』(自筆)のようである。私として、自筆本の『御堂関白記』に興味が無いわけではないが、展覧会全体をみわたして、重要だと思ったのは、その後世の写本の存在である。
陽明文庫(近衛家)に限らず、時雨亭文庫(冷泉家)についても言えることだと思うのだが、これらの「文庫」は、今でいえば、「アーカイブ」である。
この視点から見ると、その目的は、
第一に、実物を残すこと。したがって、『御堂関白記』や『明月記』などの自筆原本が、今に保存されている。
第二に、そのコピーを作って保存すること。例えば、『明月記』の旧来の活字本(3巻)は、自筆本に依拠したものではない。これは、資料(史料)としての価値をおとしめることではなく、むしろ逆に考えてみたい。なぜ、『日記』(公家の漢文日記)を、写本して残してきたのか。
この第二の意味において、陽明文庫は、アーカイブであると考える。また、藤原定家の仕事(王朝文学作品の校訂書写)も、アーカイブと言えるであろう。
これまで、このような視点からの考察はあまりなかったように思うが、私の不勉強なだけだろうか。より古い写本、あるいは、自筆本があれば、そこに研究者の目が集中してしまう。
だが、それと同時に、写本というような多大の労力をはらって、漢文日記を保全してきたのか、その価値観について考えてみることも必要だろう。この視点からは、なぜ、『御堂関白記』の自筆原本は残っているのに、『源氏物語』の原本は失われてしまっているのか……という問いかけに発展する。(ここで『源氏物語』については、原本と称して、自筆と書かなかったのは、理由がある。本当に、紫式部が、全部を、オリジナルな作品として、自筆で書いたかどうか、このところは、まだクリアされていないと思うから。)
ともあれ、アーカイブという視点から見たとき、ほとんどの観客が素通りしてしまっている、後世になってからの、『御堂関白記』写本の方に、私としては関心があったし、これは、一つの発見であったと感じる。
今年は、源氏物語1000年紀、京都文化博物館でも展覧会が予定されている。単純に、1000年をさかのぼるのではなく、その継承とアーカイブという視点から、いろいろと考えてみたいと思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
明治壬申調査 ― 2008-02-08
2008/02/08 當山日出夫
東京国立博物館、近衛家(陽明文庫)の展覧会を見て、図録を買って、本館の方にむかってくとき、興味深い展示に出会った。明治初期の壬申調査の記録である。
明治のはじめ、新政府は、日本国内の文化財について、総合的な調査を行っている。このこと自体は、近代日本における、文化財研究史の中に位置づけられることになる。
私が興味をもったのは、その明治初期における「写真」の利用である。
調べてみると、展示されていた写真帳についての記録が、インターネットで読める。
『旧江戸城寫眞帖』(東京国立博物館所蔵、一八七一年)について
第6 回写真研究会 1999.11.21
佐藤守弘 SATOW Morihiro, 2001
http://www.think-photo.net/archive/edojo.pdf
中につぎのような記述がある、(PFDよりコピー)
天下ノ勢昔時ト相反シ、城櫓塹溝ハ守攻ノ利易ニ関セサル者ノ如ク相成。追々 御取繕モ無益ニ屬シ候有之。因テ破壊ニ不相至内、寫眞ニテ其形況ヲ留置度奉 願候。是ハ後世ニ至リ、亦博覧ノ一種ニモ相成。制度ノ沿革、時勢ノ流移モ可 被相認儀ニ付キ、御許容被下度此段奉伺候。以上。
要するに、実物・現物が破損・劣化してしまう以前に、写真によって、その現在の有様を保存・記録しておくべきことの意義につてい述べている。
この「写真」を「コンピュータ」に置き換えれば、今、現在の我々が着目している、「デジタル・アーカイブ」にそのまま適用できる。
明治の初期、写真こそは、最先端の記録技術であった。だが、その写真記録も、現在では、「古写真」として、劣化からどう守るか、あるいは、デジタル技術による修復の対象となっている。
現在のデジタル技術が、将来、このようにならない、という保証はない。
また、それと同時に、文化財の保存という視点からは、「実物そのものを残す」ということと、「そのコピーを作って現状を記録して劣化にそなえる」という、二つの視点があったこと、このことを確認することになる。
簡単にいえば、150年ほどの間、人間は、さほど進歩していない(技術は変わったかもしれないが)、ということになる。いや、この展示を見る前に見た、近衛家(陽明文庫)との連続で考えるならば、ものを残すということはいったい人間にとってどういういとなみであるのか、いろいろ考えさせられることになった。
當山日出夫(とうやまひでお)
壬申調査から写真史へと ― 2008-02-09
2008/02/09 當山日出夫
昨日、東京国立博物館での、明治初期の壬申調査について、触れた。その時、見た展示の解説は、手帳に書き写しておいたのだが、もしかして、と思って、インターネットで検索してみると、引用のHPがヒットした。
で、さらに、このURLからたどっていくと、
think-photo.net
というHPがあることがわかった。写真についての、かなり専門的なサイトである。その専門性の方向は、視覚芸術。写真論・写真史である。
ところで、先に言及した、佐藤守弘さんの文章は、
写真誌関連年表
http://www.think-photo.net/archive.html
というところにおさめられている。タイトルをながめると、以下のとおりである。
報告:東京国立博物館所蔵幕末明治写 真コレクションについて
『旧江戸城寫眞帖』(東京国立博物館所蔵、一八七一年)について
観光・写 真・ピクチャレスク 横浜写真における自然景観表象をめぐって
「武江年表」
「ピクトリアリズム考 カリフォルニアと日本」(付録:ピクトリアリズム関連年表)
「眞ヲ寫ス ─フォトグラフィと写 真のあいだに」
とあり、明治初期における、写真についての貴重な研究であることがわかる。
佐藤守弘さんは、自身でもブログを開設している。(中に、論文の書き方のコーナーもある、これは、今後の参考にしよう)。
洛中蒼猴軒日録 本日の記載は、京都精華大学
http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080208
ところで、写真については、写真史・写真論の専門の方向からのアプローチもある。その一方で、「視覚」という点から見れば、浮世絵や、名所図絵、洛中洛外図、などもふくめて考えてみたい。
「写真」というものを視野に入れて考えることで、「絵画」によって何を表現しようとしていたのか、よりはっきりとすることだろうと思う。この意味では、来月の、
京都 vs. 江戸 描かれた京都と江戸を読み解く
オーガナイザー 松本郁代(立命館大学)・出光佐千子(出光美術館)
主催 立命館大学グローバルCOE日本文化デジタル・ヒューマニティー拠点 「洛中洛外図屏風の総合的アーカイブと都市風俗の変遷」プロジェクト
2008年3月1日(土)~2日(日)
立命館大学アート・リサーチセンター 多目的ルーム
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/
に期待してみたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
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