『ひとりでは生きられないのも芸のうち』2008-02-10

2008/02/10 當山日出夫

内田樹の本である。そのブログも、たまに見たりしているのだが(ここは、正直に告白しておこう……)、本として出ると買ってしまう。

内田樹の書いたものに、はっきりいって、そう共感するということではない。ただ、記憶に残っている範囲で、非常に印象的なフレーズがある。

数年前、いわゆる靖国問題をめぐって、高橋哲哉が話題になったとき、朝日新聞に寄稿した文章。

政治について語る人たちは自分と異なる政治的意見については、「どうしてそれが間違っているか」を論証することには熱心だが、「どうして私はその人と同じように考えることができないのか」という自問には興味を示さない。   『態度が悪くてすみません』.p.220

これは、特に政治について語るときのことではないであろう。ただ、このような問いかけが、特に靖国神社問題のようなケースには、それなりに、有効性をもつ論法であることは、分かる。だからといって、特殊な場合についてのみにおいて、考えるべきことでもない。

したがって、なぜ、私はこの問題について、内田樹のように考えることができないのだろう……という、逆方向からの、読者からの問いかけを常にひきうける覚悟が必要になる。(この程度のことは、十分に承知のことと思う。そのブログをたまに見る限りであるが。)

自分の考えることを一方的に主張することには、ブログやHPというツールはきわめて便利である。だが、それに反対する意見があった場合、じっくりとそれに耳を傾けるには、適していない。

ここで考えておかなければならないと思うのは、唯一の「知」のあり方を、絶対視する方向もあれば、多様な解釈を併存させる方向もある、ということである。私の浅薄な理解でいえば、自然科学の世界であれば、公理・定理・法則、という「基盤」のうえにその「知」は構成されている。だが、人文学の世界においては、それほど単純ではない。極論すれば、研究者の数だけ「基盤」がある。

そして、その「知」は、異なっている基盤を総合的に俯瞰するところに、自らを位置づけられたとき、ようやく、その片鱗をつかみうるものであるのかもしれない。きわめて流動的・可変的である。

なお、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』で、私が印象に残った箇所を引用しておこう。

「自分が手に入れたいもの」は、それをまず他人に贈与することでしか手に入れることができない。贈与したものに、その贈与品は別のところから別のかたちをとって戻ってくる。自分の所持品を退蔵するものには誰も何も贈らない。p.32

残念ながら、若い人がその最初の就業機会において、適性にぴたりと合致し、それゆえ潜在的才能を遺憾なく発揮でき、結果的にクリエイティヴな成果を上げ、久しきにわたって潤沢な年収をもたらすような仕事に出会う確率は限りなく低い。 p.97

これから研究者を目指す若い人たちにとって、上述の言説はどのようにうけとめられるであろうか……

内田樹.『ひとりでは生きられないのも芸のうち』.文藝春秋.2008

内田樹.『態度が悪くてすみません-内なる「他者」との出会い-』.角川書店.2006

當山日出夫(とうやまひでお)