佐藤さんの論文 ― 2008-02-11
2008/02/11 當山日出夫
さきの2月9日で、「壬申調査から写真史へと」と書いた。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/02/09/2613470
このトラックバックを、この記事で言及した、佐藤守弘さんのブログに送ったところ、佐藤さんが次のような論文を書いている旨、御教示くださった。佐藤さんのブログに書いてあるのだが、ここに、転載・引用させていただく。
蒼猴軒日録
http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080208
「トポグラフィアとしての名所絵 ――江戸泥絵と都市の視覚文化」『美学芸術学』第14号、1999年4月、59-73
「都市とその表象 ――視覚文化としての江戸泥絵」『美学』202号、2000年 9月、37-48
都市・名所絵、というものを、写真史研究家の目でどのように見ているいるか、是非とも読んでみたい。(今、書きかけの論文があるので、それが終わってからになってしまいそうだが。)
このような論文、たしかに、今の論文検索エンジンでヒットさせることは可能であろうが、一方で、ブログなどによる相互の交流のなかで、教えてもらえると、論文について知ったときの、喜びが増す。そして、そのよろこびは、今後の研究へのエネルギーになっていく。
また、このようなケースであれば、疑問点などあった場合、直接、筆者にたずねることもできる。少なくとも、心理的な壁は低くなる。機械的な検索エンジンによるのではない、研究者間のつながりが徐々にでは形成されていくこと、これもまた、今後の、研究活動におけるネット利用の一つの方向であろう。
當山日出夫(とうやまひでお)
『列島創世記』 ― 2008-02-11
2008/02/10 當山日出夫
小学館の「日本の歴史」シリーズの第1巻である。出たのは昨年であるが、ようやく、今になって読めた。すでに第2巻が出ている。第2巻は、『日本の原像』として、著者は、平川南。このあたり、かなり意図的な編集であることがわかる。日本にとって、文字とは、そして、言語(日本語)とは……という問いかけが見える。
松木武彦.『列島創世記』(日本の歴史 1).小学館.2007
以下、あえて、批判的な視点から書いてみる。この本が、「認知考古学」という、きわめて斬新な視点で書かれていることは、十分に承知のうえで、「ことば」の視点から考えてみたいのである。
この著者であれば、かならず読んでいるはずであろう。『日本語の歴史』(亀井孝ほか、平凡社ライブラリー)を、知らないはずはない(と、思う。)そして、日本語学(あるいは、国語学)を専門とする私の目で、この『列島創世記』を読んで、気づいた点がひとつある。
それは、「日本語」ということば(用語)を使っていないことである。これは、おそらく意図的に使用を避けたと思う。「言葉」という用語も、きわめて限定的に使っている。使用例は、少ない。
可能な限り「ことば(言葉)」を使わないように書いたといっても、どうしても使わざるを得なかったとおぼしき箇所がある。
時には言葉の壁を越えて交渉を乗り切るための人材や(p.259)
そこの人びとと会話し(言葉は通じなかったかもしれないが)、交渉し(p.240)
気がついた範囲では、これぐらいであろうか。(その気になって再読すれば、もうちょっと見つかるかもしれないが。)
だが、その一方で、「文字(無文字)」ということには、徹底的にこだわっている。文字を持たない社会におけるコミュニケーションの様相が、この本の主眼点のひとつであることは、容易に読み取れる。
だが、そのことを
人口の増加に伴うコミュニケーションの複雑化などによって(p.241)
とだけで、すませてしまうのはどうであろうか。そのゆえの、巨大なモニュメントや、土器などの「凝り」であったりする。だが、その複雑なコミュニケーションにおける「ことは」の役割とはいったいどんなものであったのだろうか。
あえていうならば、「無文字」ということと「無言語」ということは、違う。まず、このことの概念を明確にした上で、無文字社会については、論じなければならない。あるいは、このことは、「認知考古学」では当たり前だから書いていないのであろうか。しかし、この小学館の日本の歴史シリーズは、一般向けの本である。
古墳時代以前の日本が「無文字」であったことは、よくわかる。であるとして、では、どのようにして、コミュニケーションしていたのか。人間と人間とのコミュニケーションの手段なくして、人間の社会はなりたたない。そこに、「ことば」は、どのような意味をもっていたのか。「ことば」に触れずに「無文字」であったことのみを強調しても、そこには空虚さのみが残る。
たしかに、「ことば」を「日本語」と規定してしまうことは難しい。また、「日本語」と規定してしまえば、そこに、「民族」の概念が入り込む。それは、安易に「日本人」にすり替わってしまう。このことは、わかる。だが、このことについて、強いて避けるならば、その避ける理由を説明すべきではなかろうか。少なくとも、全体のうち一つの章ぐらいは、「ことば」「日本語」「日本人」そして「無文字」、コミュニケーションと社会、これらの用語・概念をめぐる議論につかうべきであろう。わからなければ、わからないと、書けばよいのである。
認知考古学では、「ことば」のことは問題にしないのである、という方針であるならば、そのことは明記しておくべきではないか。かつて、言語学の世界においては、言語の起源は研究対象としない……と、されていた時代もあったのだから。
率直なところ、読後感として、著者の意欲は感じるが、しかし、学問的な空虚感も感じずにはいられない本である。これが、正直な感想である。別に、意図的に批判しているわけではない。「ことば」と「文字」に関心のある人間の読んだ率直な感想としてである。
あるいは、この問題は、つぎの第2巻にまわす、ということであるのだろうか。この小学館のシリーズには、つきあわざるをえないと思う。また、これは、日本史・考古学(認知考古学)の課題であると同時に、日本語学・言語学の課題でもあることを、確認しておきたい。
くりかえしになるが確認しておきたい。私は、この本で、「ことば」のことが等閑視されていることを批判しているのではない。なぜ、「認知考古学」においては「ことば」をあえて無視するのか、この点についての、積極的な理由説明が必要であると思うのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
季刊大林『アーカイブヴズ』 ― 2008-02-11
2008/02/11 當山日出夫
過日の、CH77研究会(情報処理学会・人文科学とコンピュータ研究会、東洋大学)については、その概要(私から見ての)は、記したごとくである。その小特集「アーカイブ」のとき、会場で回覧されたのが、
『アーカイヴズ』.季刊大林 No.50.大林組.2007年
である。大林組は言うまでも、大手ゼネコン。建築会社の広報誌ではあるが、宣伝のためのものではない。今はもう聞かなくなったことばだが、企業メセナの雑誌。
目次は以下のとおり、
グラビア/図書館にみるアーカイヴズ空間
創造するアーカイヴズ なぜわれわれは記憶を外在化するのか / 武邑光裕
デジタル・アーカイヴズのいま、未来 / 樋口範子
あの子は何でも欲しがります デジタル・アーカイヴズ / 浜野保樹
アーカイヴズ/メディア・テクノロジー 関連年表 / 遍:武邑光裕・岩倉淳
永遠なる叡知の結晶 古代アレクサンドリア図書館 / 周藤芳幸
アーカイヴズの原点 古代アレクサンドリア図書館の想定復元 /復元:大林組プロジェクトチーム 監修:周藤芳幸
シリーズ藤岡照信の「建築の原点」(1) ストックホルム市立図書館
「アーカイヴズ」の事典
全部で70ページほどの本。「季刊大林」でGoogleで検索をかけると、ダイレクトに出た。
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/index.html
ここから、注文のメールを送信して、所定の銀行に送金すると送ってくれる。1000円(送料込み)。
とにかく、来年度、デジタルアーカイブ論の授業を半期担当しないといけないので、その参考書さがしが目的で買ったというのが、本当のところ。巻末の、アーカイヴズ事典は、現時点での、アーカイブ関係の参考文献リストとしては、適切というべきであろうか。
アーカイブや図書館に興味のある方は、手にいれておいて損はないと思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
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