ARG3092008-02-13

2008/02/13 當山日出夫

まず興味をひくのが、京都大学学術出版会による研究書データの公開、である。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080210/1202609769

まず、一般的には、学術情報の流通という点からは歓迎すべきことである。ユーザの側からすれば、このような事業の推進は、望ましい。

しかし、その一方で、出版は、決して無償の慈善事業ではない、会社・企業としての営利事業でもある、という面を、軽視してはならない。

たとえば最近の事例でいえば、草思社。1月に民事再生法の適用となっている。

http://www.soshisha.com/

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/09/news089.html

昨年、私が買った本では、『人類の足跡10万年史』(スティーヴン・オッペンハイマー 著 /仲村明子 訳)など、いい本を、たくさん出している。

別に、インターネットが出版社をつぶしたというつもりはない。草思社の例は、また特殊な事情があってのことかもしれない。だが、普通の出版社にしてみれば、書籍情報(その内容)の電子化というのは、きわめて、難しい面をふくんでいる。

『大書源』(二玄社)であるが、その内容は、DVDで、最初から付属でついてくる。大部な全3巻は、ほとんど必要ない。索引篇と、パソコンにインストールした、DVDデータがあれば、それで十分である。

これは、英断、であったと思う。この本の場合、おそらく、DVDをつけても、つけなくても、実売部数にそう変化はないであろう。だが、DVDがあった方が、読者としては格段に便利であるし、このクラスの本になれば、やはり「実物=書物」の方も手元においておきたくなる。また、個人ではなく、図書館であれば、「実物=書物」の方を、本棚におかざるをえない。

しかし、『日本語指示体系の歴史』(李長波.京都大学学術出版会.2002年)になると、個人的には微妙なところである。実際に書店で目にしたとき、買っておくべきかどうか、迷った記憶がある(結局、買わずにおいたのだが。)

ところで、ひつじ書房の松本功さんが出した『ルネッサンス・パブリッシャー宣言』(ひつじ書房.1999)のことも、忘れがたい。学術的な専門書を出している出版社の多くは、従業員数名程度の零細企業である。専門的な本は、実際の販売部数は、数十から、せいぜい、数百という範囲。自分の会社で出した本が、容易に、コピーされる、あるいは、最近であればPDF化される、ということは、企業としての存亡にかかわる。

ひつじ書房

http://www.hituzi.co.jp/

ルネッサンス・パブリッシャー宣言

http://www.hituzi.co.jp/hituzi/runepub.html

ひつじ書房の社長のブログ(茗荷バレーで働く社長の日記)

http://d.hatena.ne.jp/myougadani/20080111

京都大学学術出版会などは、「つぶれる心配がない」と言ってしまうと、批判が過ぎるであろうか。しかし、将来にわたって、良質な学術書の出版が継続的におこなわれるためには、その電子化と流通については、出版社・書店の経営の安定をふくめた、総合的な視点にたったきちんとした議論が必要であると思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

本文とは何か(書記言語のこと)2008-02-13

2008/02/13 當山日出夫

もろさんのブログで、「ふり仮名」「ふり漢字」のことが話題になっている。当該のブログにコメントとして書いてもいいのだが、長くなるので、私の方に書いて、トラックバックを送っておくことにする。

もろ式:読書日記 ふり漢字/ふり英字/ふり〓

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080212/1202826410

私の記憶をさかのぼれば、この話題は、JIS漢字論、あるいは、デジタルテキスト論の当初からあった。特に、近世文学を専門にしている研究者の場合、ルビ(ふりがな)の方が、本文である、というテキストをあつかうことになる。(この当時は、テキスト・データベースという呼称が普通であったように思うが。)

「ふりがな」の方が本文であり、「本行」の漢字の方が、補助的な役割であるというテキストについて、どのような、タグづけが有効であるのか。(むかしは、XMLやHTMLではなく、TEIの利用であったが。)

ルビ(ふりがな)とは、単に、難しい漢字のよみかたを示すものではない。書記言語は、音声言語を文字化したのものではない。このあたり、日本語における漢字と仮名(ひらがな・カタカナ)をふくめた、総合的な議論になる。ルビだけの問題ではない。

ただ、個人的な印象として、「ふり漢字」という現象が、現代日本語においても観察されるということは、その背景として、日本おける漢文訓読・訓点という視点からも、考えてみる必要があるように思う。

現時点で、論点を整理すると、大きく二つの方向で考えることができようか。

本文が唯一、直線的(シーケンシャル)なものとして存在しており、それに部分的に、付属として、「ふり仮名」「ふり漢字」がある。言語については、音声言語を優先的に考える考え方。

書記言語は、2次元空間(巻子本では、紙背をふくめると3次元になる)における、その物理的配置や、文字の書体・字体・大きさ、などをふくめて、総合的になりたつ。書記言語コミュニケーション論、である。「視覚」という視点から見た書記言語を考えるべきであろう。

ただし、私の場合、書記言語のなかに、点字をふくめておきたい。点字も日本語の文字である、という立場をとっているので。

當山日出夫(とうやまひでお)