DDCH2008-03-13

2008/03/13 當山日出夫

第2回 文化遺産のデジタルドキュメンテーションと利活用に関するワークショップ(DDCH)

Digital Documentation of Cultural Heritage

http://www.chikatsu-lab.g.dendai.ac.jp/arida/The1stWorkshopDDCH/2008_2ndDDCH_announcement.html

いろんなブログなどで紹介されているが、たぶん、上記のものが「本家」=動体計測研究会、とおぼしいので、ここに記しておくことにする。

2008年の3月8・9日の、二日間にわたって、奈良文化財研究所(ここも、いろいろと正式名称がかわるので、ややこしい、通称「奈文研」)で開催された。私は、事情があって、1日目の方しか参加できなかったが、その感想を少し述べておきたい。1日目のプログラムは以下のとおり。


工芸的記録と工業的記録 宮原 健吾(京都市埋蔵文化財研究所)

発掘調査報告書とデジタル化 森本 和男(千葉県教育振興財団)

遺跡の場所性を探求すること-考古学研究における歴史空間の計測 山口 欧志(中央大学)

無形文化財のデジタル保存・解析・利活用 八村 広三郎(立命館大学)

4次元 GIS としてのバーチャル京都の構築 矢野 桂司(立命館大学)

失敗から学んだ計測 田子 寿文(アイテック)


まず、宮原さんの発表。デジタル画像で、いかに正確に色彩を記録するかという観点からは、私自身が、以前に、発表したことがある。昨年の、京大での「東洋学へのコンピュータ利用」セミナー。したがって、論点としている内容は私の考えていることと、かなり重なる。異なるのは、宮原さんの立場が、写真撮影の現場から考えていること。私は、それ(画像デジタルアーカイブ)の利用者の視点から考えている。

デジタル画像をいかに正確に、かつ、安定して、記録し保存するか、という観点で、その仕事の現場の人間がどのように考えているかを知るうえでは、非常に勉強になる。銀塩フィルムからデジタル画像への移行は、根本的な質的な変革をともなうものであることがよく理解できる。

また、「デジタル・アーカイブ」は、いわゆる和製英語であって、日本以外では通用しない。「デジタル・ドキュメンテーション」の方が適切、という指摘は重要であろう。私は、「和製英語」が悪いとは思わない。問題なのは、それで何を意味しているか、ということ。ただ、デジタルの資料を残せばよいというのではなく、その記録・保存・管理、そして、その客観性の保障という観点までふくむものとしては、「デジタル・アーカイブ」よりも「デジタル・ドキュメンテーション」の用語の方がふさわしいだろう。

次に、森本さんの発表。考古学の分野で遺跡の発掘はおこなわれる。そして、その報告書が作成される。では、その報告書は、どれほど作られ、どこがどれほど保存しているのか……という、きわめて基本的であり、重要な問題の指摘であった。日本考古学協会でも、もはや、物理的にすべての報告書を収集・保存することは不可能である、らしい。となれば、PDFのようなデジタル化資料として残すしかない。新しい考古学の研究分野で、GISなどの最新技術が使われるようになっている一方で、過去の発掘報告書の保存と管理がおろそかにされている、という現状は、ある意味で非常に重要である。

ただ、発表の範囲が考古学の発掘報告書の範囲内にとどまっていて、デジタル化した文書資料の保存と利用の問題、さらには、公文書館・図書館との関係などには、深く話しが及ばなかったのは、少し残念な気がする。しかし、限られた時間内での、貴重な問題点の指摘であった。

考古学の発掘で「遺跡」として保存されるのは、ごく一部にすぎない。たいていは、道路建設などにともなうもの。道路ができれば破壊される。つまり、報告書の形でしか、日本の考古学遺跡は、資料として残っていない。「報告書=遺跡」なのである。報告書の保存と活用、デジタル化の問題、この点について、今後、考古学を専門とする人たちの考えていることを、いろいろと聞いてみたいと思った。

當山日出夫(とうやまひでお)

DDCH(2)2008-03-13

2008/03/13 當山日出夫

DDCHの続きである。考えてみると、この「DDCH」というネーミングは、実に良い。Digital Documentation of Cultural Heritage  、これは、まさに、デジタル・ヒューマニティーズ、あるいは、人文情報学、にぴったり重なる。「ドキュメンテーション」という視点から考えてみることの重要性を強く感じる。

遺跡の場所性を探求すること-考古学研究における歴史空間の計測 山口 欧志(中央大学)

これは、沖縄のある島にある遺跡調査を主な事例として、どのような機材で、どれぐらいの人間で、どれぐらいの日数で、調査・記録したのか。その結果、どのような研究成果が得られたのか……考古学を専門としない、私のような人間にとっては、貴重な発表であった。

この種の、いろんな分野の研究者が集まる研究会のおもしろさは、ここにある。自分の専門分野のことであれば、論文を読めばわかる。口頭発表をきいても、むしろ、その欠点の方に目がいってしまう。まあ、このようなことは、どの分野であれ、研究者としてはやむをないと思う。だからこそ、時には、自分の考え方をリフレッシュする意味で、異なる分野の人の発表を聞くことは、非常に重要であり、勉強になる。口頭発表の方が、その分野固有のものの考え方が、よく分かるからである。

この意味では、最後の発表、

失敗から学んだ計測 田子 寿文(アイテック)

は、実に面白かった。大学や各研究機関、地方自治体などが、あつかっている3D計測画像。別に3Dに限らず、単なる、デジタル画像でも同じであろうが、実際に、その作成作業をしているのは、民間の業者、である。大型計算機の世界から仕事をしている人は、よく「パンチ屋さん」という表現をすることがあるが、要するに、データ入力の業者である。

デジタル化資料についての研究会では、主に、研究者の視点から語られることが大部分であった。だが、実際に、そのデータを作成しているのは、研究者自身ではなく、その発注を受けた業者。

この発表は、その現場で仕事をする業者の視点から見た、3D画像作成の種々の問題点の指摘として、非常に興味深いものがあった。特に、地方自治体などで使用しているコンピュータは、古いものが多い。(まあ、これも、そこにおいて、契約業者との年限の関係がからんでのことであろう。) しかし、データを作る側は、最新のコンピュータを使っている。したがって、現段階での最高の解像度のデータを作って納品しても、それを見ることができない。そこで、データをまびいて粗いものにしてしまう。

コンピュータの機能は、どんどん向上していく。この点から考えれば、今は無理でも、数年後には、高精細の画像データから新しい研究ができるかもしれない。たいてい、文化財の計測や撮影は、そうたびたび行えるものではない。この意味では、その時点で、最高のものをきちんとした形で後世に残す、という発想が重要ではないか、と思った次第である。

ところで、申し訳ないが、八村さん、矢野さんの、発表についてのコメントは省略。日常的に、立命館GCOEのプロジェクトで、しょっちゅう話しをきいているので、私個人としては、はっきり言って、まったく新鮮ではない。たまたま、私が、そうであるだけで、他の参加者の方々にとっては、興味深い内容であったようである。

研究会の1日目が終わって、会場で、懇親会。私は、考古学者と一緒に酒を飲むほど無謀ではないので(?)、一次会だけで帰った。自動車で行ったから、飲んだのは、お茶だけ。

當山日出夫(とうやまひでお)

ロンドン憲章2008-03-14

2008/03/14 當山日出夫

DDCH(Digital Documentation of Cultural Heritage)

第2回 文化遺産のデジタルドキュメンテーションと利活用に関するワークショップ (2008年3月8~9日 奈良文化財研究所)

この2日目(9日)は、あいにく出席できなかったので、予稿集を読むことにする。発表のほとんどは、考古学遺跡・遺物の3D計測について論じている。

個々の発表(論文)は、それぞれに非常に面白い。そして、共通することは、3D計測とその結果の保存について、なにがしかの問題提起をしていることである。

ここで個人的感想を言うならば、3D画像が「デジタルアーカイブ」として残ったとしても、はたして、それを後世の人間は、どのように評価するだろうか、あるいは、使うだろうか、ということ。これには、いろんな点で課題がある。例えば、以下のような問題点である。

特定のアプリケーションに依存した場合、利用できくなる可能性がある。データの長期保存と利用が大きな課題のひとつである。

遺跡・遺物を3D計測するとして、その遺跡・遺物から何を読み取りたいと思っておこなうのか。その研究目的、研究者の意識のもちようによって、どのように計測するか、また、それをどのように利用するか(3D画像の作成)も違ってくる。

このような意味において、このワークショップを企画した門林理恵子さんの

デジタル文化遺産情報の標準化動向-イギリスの事例-

が、非常に興味深い。ここでは、「ロンドン憲章」(The London Charter)の紹介がある。論文から一部引用すると、

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ロンドン憲章は、知的完全性、信頼性、透明性、ドキュメンテーション、標準、持続性、アクセスという点から、文化遺産の研究およびコミュニケーションにおける3次元可視化の利用の目的と原則を定義することを目的としたものであり、(以下略)

ロンドン憲章で特徴的なことは、透明性とParadataという2つの概念である。 (中略) Paradataとは造語であり、研究の末に3次元可視化に至るまでに生み出された知的財産を指す。これは、現在、3次元可視化の方法や成果物の理解や評価に必要な情報の多くが失われていることを意識した用語なのである。

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この指摘は重要である。特に3D可視化が、3Dデジタルアーカイブとして使われようとしている現在、どのようにして、そのデータが作られたかのプロセスを記録しておくことが、必要である。これは、別に、3D画像に限らない、通常の画像データであっても、あるいは、テキストデータであっても同様である。このあたりの議論が、日本では、まだまだ不足している、と感じる。

このロンドン憲章、日本語訳版もある。Google で検索する場合、「ロンドン憲章」ではなく、原語の「The London Charter」で検索した方がいい。原文に付随して、日本語訳版(PDF、HTML)が出る。

3D画像のみならず、いわゆる「デジタルアーカイブ」に興味関心のある人には必読といえよう。

當山日出夫(とうやまひでお)

WORDで何を教えるのか2008-03-14

2008/03/14 當山日出夫

ブログ「大学教員の日常・非日常」で、「いつかGoogleを教える日」が興味深い。

http://app.blog.livedoor.jp/yahata127/tb.cgi/51930190

大学での情報処理教育といっても、所詮は、「高校で学べなかった人のための、WordとExcelとPowerPoint教室」である、とする。

これには、同感。だが、一方で、大学で、WORDを教えるとするとき、それは、単なる、ちまたのパソコン教室ではないのだヨ、ということは、強調している。教えたいのは、WORDの操作法ではなく、アカデミックな文書の書き方と、そのための道具としてのWORDの使い方である……ということを、かなりくどく何度も言う。

この意味では幸いなことにというべきか、大学のコンピュータが07年度からXPになった(それまでは2000)。で、導入してある、オフィスのシステムが、2003版。一方、当然ながら、普通のパソコンショップで、コンピュータを買えば、2007版になる(OSは、言うまでもなく、VISTA)。

文書ファイルの互換性が一応あるとはいうものの、これほど、使い勝手が違うと、まったく別物と言った方がいい。だから、授業のはじめにこういう、

「大学の教室にある2003版は、既に古い。今の最新版は2007。だが、それも、君たちが卒業する頃には、古くなっているだろう。がんばって、ワープロの操作法を覚えても、それは、数年で、ゴミになる。ゴミを頭のなかにたくわえておくのは無駄である。本当に理解すべきは、文書の作成とはどういうことかである。これは、ワープロが変わっても、紙の文書というものがあるかぎり、共通の財産として残る。」

たとえば、文献リストの書き方、脚注のつけかた、本文での引用・言及のしかた、これらが構造として、きちんとまとまっている必要がある。

この意味では文書作成(紙であれPDFであれ)の道具として、WORDを教えることができる。03版と07版が、世の中で共存している、ここ数年の間は、ということになる。

當山日出夫(とうやまひでお)

声のアーカイブ2008-03-15

2008/03/15 當山日出夫

第4回ポピュラーカルチャー研究会 その声は誰の声? 〈声〉の現在とポピュラーカルチャー

この研究会、行きたかったが、いろいろと用事があって行けなかった。もろさんが、ブログに感想を書いておいでなので、読む。

もろ式:読書日記

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080315/1205513387

日本語研究などという分野にいると、言語=音声言語=コミュニケーション、という枠組みで考えてしまう。私のように、文字や表記を専門にする立場にいても、えてしてそうなる。

言語研究の分野で、「手話」や「非言語コミュニケーション」が注目されるようになったのは、比較的最近のことといってよいであろう。少なくとも、私が、学生のころまで、「手話」は、言語研究の対象ではなかった。

このような問題は他にもあって、日本語の文字・表記研究において、「点字」が本格的に論じられている、という段階にはない。0213を開発の段階でも、点字は入らなかった。

だが、私自身としては、点字もふくめて、日本語を書くための文字であると認識している。6ビットの言語学、である。(通常、日本で使っている点字は、6点の点字なので。)

ところで、今、デジタルアーカイブ論の授業の準備をあれこれと考えている。デジタルアーカイブというよりも、デジタル・ドキュメンテーション、と言った方がよいかとも思うが、現在の日本での一般の言い方にしたがっておく。

音声・文字・身体動作・画像(静止画像・動画像・3D)、さまざまなデジタルアーカイブがある。だが、それぞれについて、どうも独立して論じられているように思えてくる。普通は、身体動作や風景といったものは、音もともなっている。歩けば足音がする、風景は目で見るものだが、同時に音も聞いている。もし、本当に無音であれば、その無音であることを感じ取っている。

デジタルアーカイブを考えるとき、総合して人間が感じ取っているものを、音声・画像・文字、などに分解することになる。現時点での技術としては、それはやむを得ないとは思うが、デジタルアーカイブしたとき、何を排除しているか、という視点だけは、失いたくないと思う。

人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)が「人間の学」であろうとするならば、総合的な身体的な感性という点が最終的な課題になるのかもしれない、と考える。

声はアーカイブ可能であろうか。ただ、録音記録があるからといって、そこで思考を停止してはいけない。逆説的にいえば、沈黙によってこそ伝えられる何かがあるはずである。

當山日出夫(とうやまひで)

国立新美術館2008-03-16

2008/03/16 當山日出夫

人間文化研究機構のフォーラム、午前中、時間が空いているので、六本木かいわいの美術館めぐり……といっても、行けたのは、国立新美術館だけ。

特に何を見たいというわけではない。見たかったのは、その美術館における、全体のコンセプトというか、作品の見せ方、というようなこと。それから、最近、関心を持っている、多言語景観のあり方がどうであるか。

今の日本で、公的な多言語の基本は、表記(文字)でいえば、日本語の他に、英語・朝鮮語(ハングル)・中国語(簡体字)、が標準である。国立新美術館の場合、基本的に、日本語+絵(ピクトグラム)+英語、という方針らしいことがわかった。

美術館であるから、その内部の案内の表記や表示も、それなりに工夫がしてあることはわかる。消化器が各所においてあるが、赤い消化器の本体が見えないように、前面に、小さなついたてのようなものがおいてある。可能な限り、消化器の存在を隠して設置してあるという印象を持つ。

また、日本語以外の言語としては、英語だけ、というのも最近の施設にしてはめずらしい。あまりにたくさんの言語(文字)を並べるのは、美術館の雰囲気をそこなう、ということかもしれない。あるいは、すべての言語を平等にということに徹するならば、アラビア語やロシア語、さらには、中国語(繁体字)なども必要になる。ならば、いっそのこと、絵(ピクトグラム)だけにしてしまおう、ということが。その場合でも、最低限、英語の表記だけはつけておく。

美術館や博物館に行って、展示品よりも、案内や看板の文字を見てまわるというのも、たぶん変な観客にちがいない。一応、係の人に聞いて、写真撮影してかまわないエリアを確認したうえで、写真を撮ってきた。

その他、気づいたこと……展示室の壁が白い。作品の保全のため、照明を暗くしてある。そして、展示作品にだけ、天井からライトをあててその作品だけを照らす。このときに使われている光は、色温度が低い。だが、壁の白さの影響で、展示作品を照らしているライトのことが、あまり気にならない。

美術館などに行ってよく思うことは、この作品を、自然な太陽光のもとで見たらどんなだろう、ということ。デジタルカメラなど使っていると、照明の色温度ということが、心のかたすみにひっかかるようになっている。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』314号2008-03-17

2008/03/17 當山日出夫

プランゲ文庫……名前だけは、一応、知ってはいたが、その実態や内容については、まったく不案内である。これは、私だけではなく、たいていの人がそうだろうと思う。

また、デジタル・ヒューマニティーズというようなことに関わっていると、ともかく全文をデジタル化してしまえ、テキスト化が無理なら、画像データとしてでも……という方向に、どうしても話しが向いてしまう。

この意味において、ARG314号の、

「『占領期雑誌資料大系』(岩波書店)の刊行にあたって」 山本武利

は、読みごたえがある。というよりも、資料のデジタル化ということを言う人は、是非とも読んでおくべきだと思う。

かりに最終的に、プランゲ文庫全体のデジタル化、ということになったとしても、書籍としての『占領期雑誌資料大系』は価値を持つ。いや、そのように編纂していることが分かる。

このプロジェクトは、大きく二つの意義があると思う。

第一に、占領期の日本を総合的にとらえようという視点である。たとえば、

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そこには生活難ばかりか用紙難、印刷難をも克服するほどのエネルギーがみなぎっていた。いわば仙花紙とガリ版を使ったブログの時代であった。

(中略)

しかし長い戦前の検閲に耐えてきた書き手や編集者はしたたかに検閲に対応し、それを乗り越えようとした。単に検閲という出版統制が布かれていたという実情のみをもって、この時期の言論の自由が封殺されていたと臆断すべきではないだろう。つまり権力と表現者のせめぎあいがこの雑誌資料に集約されていると見るべきである。

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などの記述は、時代の様相とメディアのあり方を総合的に考える視点を提供してくれる。

第二に、前述したように、デジタル化資料と、紙メディア(書籍)の位置づけである。

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だが実際の本文は玉石混淆さながらだ。その中から各ジャンルの動向を鋭く反映させた記事を選別する作業に時間を費やし、仲間同士で率直にその資料価値の判断を行った。そうした作業を経て、占領期雑誌の全体像をある程度把握したとの確信を得るに到った。

(中略)

やはり活字メディアとして復原した方が安くて読み易い。また書籍を手掛かりにシソーラス研究を前進させ、より使いやすいデータベースを完成させることができる。『占領期雑誌資料大系』はデジタルの助けを借りながらも、デジタルを助けるアナログメディアである。

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デジタルメディアは決して万能ではない。とにかく資料をデジタル化しなければいけない、という脅迫感のようなものにせめたてられていると言ってもよいかもしれない。ここは、視点を変えてみたくなる。

だた、上記のように、はっきりと明言できることは、オリジナルの膨大な資料を自分の目で読んでいるからかこそ言えること。このことを忘れてはいけない。

『ARG』314号は、資料のデジタル化至上主義に対して、一度たちどまって考えてみることの必要性を教えてくれる。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』314号:研究会で何が語られたか知りたい2008-03-17

2008/03/17 當山日出夫

ここで、あえて苦言を呈するが、立命館GCOE(日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点)では、毎週火曜日に開催の火曜セミナーについては、専用のブログで、その経過を報告し、また、その場に参加できなかった人、発言できなかった人が、後から議論を発展できるように……という方針でいる。だが、実際は、な~んとなく、とどこおってしまっている感じ……

と、このように記すのは、ARG314で紹介、また、ブログ版でも紹介の

東京大学大学院情報学環ベネッセ先端教育技術学講座(BEAT)による公開研究会「BEAT Seminar」

があるからだ。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080316/1205643799

実際に、東大のベネッセの講座にアクセスしてみると、実に詳細に、研究会の様子が記録されている。

BEAT Seminar

http://www.beatiii.jp/seminar/

たしかにこれだけのHPのコンテンツを整理するのは、人間の手間暇がかかる。しかし、研究会を開催するとき、そこで話しをするだけ、話しを聞くだけではなく、そこでの内容を整理して公開し共有すること、この次のステップに非常に大きな意味があると思う。

このようなコンテンツを作るのは大変な手間だが、研究会の成果を、飛躍的に向上させることができる。つまり、コンテンツ作成者=開催者・発表者、にとって、より大きな意義がある。つまり、勉強になる。

このようなことは、私のような者でも、自分の出た研究会については、可能な限り自分の理解したことを整理して、このブログで書いている、その経験から分かる。話しっぱなし、聞きっぱなしでは、もったいない。せっかく時間を使って、研究会に出たり、話しを聞いたりしたのなら、そこで得た知見から、さらなる高みへとのぼることができる、そうすべきであろう。それには、時間がかかることもあるが、むしろ、意識の持ち方の問題かもしれない。

東大のベネッセ講座で出来ていることが、他の研究機関や学会などで出来ないはずはない。あるいは、東大のベネッセ講座が、このことを、実践的にやって見せてくれているということなのかもしれない。ただ手間暇の問題ではなく、意識の問題として、とらえるかどうかだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記

『女は何を欲望するか?』(内田樹、角川書店)が、まだ読み終わらない。それに、『日本の愛国心』(佐伯啓思、NTT出版)や、『写真空間』(1)(青弓社)なども、つんだまま。

「観光する写真家」を読む2008-03-18

「観光する写真家」を読む 2008/03/18 當山日出夫

蒼猴軒日録で紹介されていた『写真空間』(1)特集:「写真家」とは誰か、を手にする。まず、その中で、「観光する写真家」(佐藤守弘)について、いささか。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080311

始めに断っておくと、私は、写真については、いわゆる「ハイ・アマチュア」と言っていいかなと思う。マニュアル機(フィルムカメラ)としては、ニコンF2・F3と持っているし、デジタルで使用しているのは、オリンパスE-3。

また、昔、高校生のころであるが、角川文庫で出ていた『都名所図絵』をガイドブックにして、京都の街を写してあるいた。(そのころ、使っていたのは、ミノルタSR-T101。)

従って、京都の街の江戸時代からの連続性、また、それを、視覚的にどうとらえるかということについて……今になってみれば、このような問題設定になるが、その当時はそんなこと考えずに写真を、撮っていた。(まだ、写真雑誌として、『カメラ毎日』があった時代のころである。)

そして、今、京都の文化にかかわることがらを、デジタルでどうとりあつかうか……GIS、デジタルアーカイブ、モーションキャプチャ……など、かかわりを持つようになっている。

このような経験・視点から読むと、「観光する写真家」は、非常に面白い。私のこの視点からは、次の指摘が最も重要であると感じる。近代社会が「観光」というものを視覚的に生み出したということを指摘したうえで、佐藤さんは、以下のように記している。

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では、なぜ京都という都市がノスタルジックな場所として表象されたのだろうか。(p.49)

京都という都市は、近代国家成立時に、日本の独自性という神話を支えるトポグラフィカルな装置として構想されたものといえよう。ただ、構築されたものは構築されたとたん、その起源は忘却されるのがつねである。京都と過去を結びつけた近代国民国家のイデオロギーもまた目に見えないものになってしまう。(p.50)

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京都の文化を、デジタル・ヒューマニティーズ研究の対象として選んだとき、そこに何を表象として見ているのか……いったいどれほどの人が、この点について自覚的であろうだろうか。都市としての連続性があり、また、資料が豊富に存在する、ただ、これだけで「京都」である、ということではないはずである。

京町家の移り変わりをGISやCD・VRで、示すことはできる。時代的には、江戸時代のおわりごろぐらいまでは、さかのぼれるだろう(建築史には詳しくないので、細かいことは分からないのだが)。では、京町家に何を表象として見てとるのか。

おそらくリアルなものとしては、江戸時代(近世・封建社会)における、庶民の暮らし、ということになるのかもしれない。この意味では、『逝きし世の面影』(渡辺京二)に、どこかでつながるかもしれない。いや、これらを、総合的に見る視座の確保こそが課題であろう。

佐藤さんが指摘している、京都を研究対象とすること自体がはらんでいる暗黙の(あるいは、封印された)イデオロギー……これについて、考えていかなければならないと思う次第である。

『写真空間 1』.青弓社編集部(編).青弓社.2008

『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー).渡辺京二.平凡社.2005.(この本のオリジナルは、1998年.葦書房)

當山日出夫(とうやまひでお)

『さらば長き眠り』2008-03-18

2008/03/18 當山日出夫

原尞の作品、『愚か者死すべし』を早川書房が文庫化した。となると、どうしても読んでしまう。そうすると、最初にもどって、『そして夜は甦る』『私が殺した少女』『天使たちの探偵』『さらば長き眠り』と、順番に再読することになる。文庫本が出るたびにこれを繰り返す。別に文庫本が出なくても読み返すのだが。

ま、ともあれ、やっと『さらば長き眠り』(文庫本)まで、読み終えた。

個人的には、ハードボイルドよりも、ピーター・ロビンソンとか、エリザベス・ジョージ、などの作品が好きなのだが……ミステリ中毒といっても、やはり好きな作品にはかたよりがある。

個人的偏見として断定しよう……「本格」を論じるなら、仁木悦子、をまず読まねばならない、と。そして、仁木悦子のもう一つの個人的な側面についても……学校教育を受けていないこと、車いすでの生活、かがり火の会のこと、など。そのうえで、仁木兄妹シリーズと、三影潤シリーズ、のこと。

で、原尞にもどれば、やはり、これだけの作品になると、時間の流れを感じる。『そして夜は甦る』では、10円硬貨で電話がかけられないこと(テレフォンカード)に不満あった、探偵(沢崎)が、『愚か者死すべし』では、携帯電話をつかうようになっている。このような、風俗的な部分で時の変化を感じはするものの、作品そのものに古さを感じることはない。このあたりが、ハードボイルドとしての本質なのであろう。

ついでに、ミステリについて言えば、今、検索をしてみたら、名著『ミステリーの社会学』(高橋哲雄、中公新書)が、本屋さんで買えなくなっている。ミステリについて論じるとき、まず読まねばならない本である。毎年、12月になって、「このミス」に狂奔する日本の出版業界の見識の浅薄さを感じずにはいられない。本当に『ミステリーの社会学』(高橋哲雄)への需要が無いのか、中央公論新社が無理解なだけなのか。

當山日出夫(とうやまひでお)