『東郷茂徳』2008-04-01

2008/04/01 當山日出夫

朝日新聞社から刊行の、『萩原延寿集』の第4巻である。『陸奥宗光』を読むのに手間取っている間に、出たので、先に読むことにした。

東郷茂徳、今の時代のことばで言えば、東京裁判のA級戦犯の一人、ということになる。絞首刑にはならず、禁固刑。ただし、その刑期の途中で病死。

映画『東京裁判』も、映画館で見ているし、また、東京裁判関係の本も、いくつかは読んでいる。だが、そのなかで、印象の薄い人物であった。しかし、この本を読んで、東京裁判について、改めて考え直してみたい気になった。

ルーズベルトは知っていた、日本の暗号は、アメリカに解読されていた……というのは、現時点では、周知のことといってよいであろう。このことについて、『東郷茂徳』は、重要な点を指摘している。暗号解読された、日本外務省ので電報は、はたして「正確」であったかどうか。「ハル・ノート」にいたるまでの日本国内の、戦争回避の方策について、アメリカは、どれほど正しい情報を得ていたのか。実は、正しく把握していたとは言い難く、電報解読にあたっての誤訳もあった。(この点、インドのパル判事は、指摘している。)

現時点で、東京裁判について、どれほどの研究があるのかは、門外漢でよく知らない。講談社現代新書『東京裁判』は、買ってはあるが、まだ見ていない。

ただ、かりに東京裁判を肯定的にうけとめる立場をとるにせよ、その裁判のプロセスが、正当なものであったかどうかは、再検証の必要がある。毎年、8月になって、A級戦犯の靖国神社合祀がどうのこうのというのとは別に、「歴史」として、東京裁判を見ることのできる時代に、ようやくなりつつある、そのように思えてならない。

ところで、東郷茂徳は、朝鮮から日本にわたった人々の末裔。秀吉の文禄慶長の役のときにまでさかのぼる。明治になるまで、その祖国の風習を残し、名字も、もとは、朴茂徳。このことを、韓国の人々はどう思うであろうか。

また、一方で、東郷茂徳が、日本の朝鮮の植民地化について、どう考えていたか、『東郷茂徳』からはうかがい知ることができない。ただ、ひたすら日本の国益を重視する外務官僚としての姿が描かれる。萩原は、このところについては、あえて触れないように書いたのかもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

東洋学へのコンピュータ利用(3)2008-04-01

2008/04/01 當山日出夫

京大での「東洋学へのコンピュータ利用」について、再開。

甲骨文字処理にまつわるエトセトラ 守岡知彦

昨年の「じんもんこん2007」(京大会館)の発表の続き……と思って聞いた。そういえば、この発表のときの、司会(座長)は、私の担当であった。このとき、京大会館に設置のプロジェクタと、守岡さんのマックが、うまく接続できなくて、かなり時間のロスがあったのを覚えている。しかし、今回は、見事に、すぐにつながった。

ところで、今回の「東洋学へのコンピュータ利用」は、新しい京都大学人文科学研究所で開催された。まだ、年度内で、最後の内装工事中という状態。しかし、コンピュータ関係のシステムは、トラブル無く動いた。

パワポ用のスクリーンは、用意してあったが、安岡さんの発案によるものか、部屋の壁そのものをスクリーンとして利用することになった。真っ白の壁ではないので、色彩の点で難点がないではない。しかし、それを言い出すのならば、使用するプロジェクタの性能から問題にしなけばならない。結果的には、部屋の壁をスクリーンがわりに使うというのは、非常によいアイデアであったと思う。

それはさておき、守岡さんの発表は、甲骨文字データベース構築の問題からスタートする。そうすると、そのことによって、いろんな課題が見えてくる。

甲骨文字をデータベース化しようとしたとき、文字の単位をどう認定するか、という基本的であるが、困難な問題がある。一般に、甲骨文字は、漢字の原初形態と考えられている。つまり、現在の漢字の先祖である。だが、だからといって、現代の漢字と連続的につながっているか……と、あらためて考えてみると、ひとすじなわではいかない。

現代の漢字(その代表が『康煕字典』であろう)から、あるいは、さかのぼっても、『説文解字』をとおして、認定された「単位」で「文字」を、認識することになる。ここで、「言語(ことば)」の視点をもちこむならば、甲骨文字を使用した人々と、現代の中国の人々(とりあえず、いわゆる「中国語」としておく)で、同じといえるだろうか。

ここで問題になるのは、第一に、音声言語として通じるかどうか(これは、おそらく通じないだろう)。あるいは、そもそも、甲骨文字は、いかなる音声言語に、どのように対応するものなのか。第二に、その文字を使用する目的は、現代の漢字と、甲骨文字とでは、大きく環境がことなる。現代に通じる、伝達と記録のための文字という視点で見るならば、秦~漢の時代まで下るだろう。

守岡さんの発表は、甲骨文字という限定的なものについてであったが、その射程とするところは、「ことば」と「文字」についての、本質的な議論へと発展していくことになる。

當山日出夫(とうやまひでお)

東洋学へのコンピュータ利用(4)2008-04-02

2008/04/02 當山日出夫

人文科学のためのデジタルアーカイブにおけるコンテンツのサイクル 永崎研宣

個人的に理解した範囲では、人文学における各種学術情報の蓄積と相互利用・相互参照、また、そのデータの真正性の確保、ということがらについての、かなりメタなレベルの議論である。そのなかで、具体的な事例として、永崎さんがかかわっておいでの、大正新修大蔵経がとりあげられていた。

今後の人文学研究とコンピュータがどのような方向にすすむのか、軽々に判断することはできない。外側からの枠組み(学部・学科・学会などの構成)は、徐々にであろうが、壊れていくだろう。だが、その先に、何が見えているのかは、まだ、判然としない。

しかし、永崎さんの関係している仏教学であっても、私の関与するところの日本語の歴史的研究分野であっても、ひととおり、一次資料(オリジナルの文献・写本など)が、読めるようになるには、少なくとも数年の集中的トレーニングを必要とする。この意味では、研究室単位での、師弟関係は、そう簡単に壊れることはない。あるいは、学問の継承のためには、不可欠であるともいえる。

その一方で、コンピュータの利用は、専門外の分野の文献(一次資料)へのアクセスを容易にする。よく言えば、「学際的研究」が促進される。

人文学におけるコンテンツは、誰のためのものなのか……狭義にその分野の専門家のためのものなのか、あるいは、その周辺の研究者をもふくめて考えるのか、このあたりが、今後の課題として重要ではないかと思った。

漢字字形管理環境GlyphWiki 上地宏一

GlyphWikiについては、これまでに、何度か発表を聞いている。インターネット上で、自由に文字をデザインして、それを、共有するシステムと、理解している。

このシステムの価値は十分に認める。たとえば、『今昔物語集』(岩波の旧古典大系版)などでは、既存の活字では表記できないので、その組版においてかなり苦労があった。このシステムをつかえば、論文での引用などにおいて、かなり重宝するに違いない。

だが、その一方で、現実に必要な文字は、どれほどか……という立場もある。実際の近代の活版印刷で、使用されていた文字(キャラクター・セット)は、どれほどであったかという、発想である。これで、ほとんどの人は、特に不満は無かった。この実態。

個人的に興味があるのは、このGlyphWikiのシステムで、どれほどの「異体字」が生み出されるのか、逆に見れば、どのような文字が、「包摂」されることになるのか……実際の運用のプロセスにおいて、このあたりの事情が、現実の文字使用に即して明らかになると、面白い。

當山日出夫(とうやまひでお)

東洋学へのコンピュータ利用(5)2008-04-03

2008/04/03 當山日出夫

とりあえず最後まで発表が終わって、ほっとする。なお、最後のセッションは、私が司会をすることになった。ほぼ、定刻に終了。その後は、例によって、「懇親会に行く人!」と、手を挙げて、人数を数えて、目的の店にむかって歩く。お店は、去年と同じ。

来年は、3月27日(金)。いつのまにか慣習として、3月の最後の金曜日ということになっている。来年は、20回記念になる。どういう企画を考えるかは、今後の相談ということになるだろう。

今回のセミナーでは、最初の安岡さんの発表「神と榊」についてのものが印象深い。この発表は、非常に精緻なものなのであるが……個人的には、「文字の正しさとはいったい何であるのか」ということが、どうしても気になってしかたがない。

歴史的には、『説文解字』あたり、あるいは、秦の始皇帝あたりから、考えねばならない。その一方、直近の問題としては、新しい常用漢字の現代日本語における位置づけの問題だろう。いまさら印刷標準字体に文句を言ってもしかたがない。しかし、正しい(あるいは標準)の文字を、ある種の権威のもとに制定すること自体が、当該の言語(日本語)にとって、どのような意味があるのか。

また、その示し方の問題もある。いわゆる「許容3部首」については、両方を並記して字体表に掲げるべきものである……と、私は、考える。でなければ、「許容」といいながら、暗黙のうちに、片方の選択(いわゆる旧字体)を強いることにつながる。現実にそうなってしまっている。0213:04、において。

それから、永崎研宣さんの発表は、きわめて面白かった。今回の発表(論集)でも触れているが、永崎さんは、『デジタルアーカイブの弁証法』『人文科学のためのデジタル・アーカイブにおけるステイクホールダー』などの、発表(論文)がある。これらは、私も、直接、発表を聞いている。

人文学研究の中で、特に仏教学における仏典デジタルアーカイブの仕事にたづさわりながらも、同時に、コンピュータの利用が、人文学にどのように影響を与えるのか、人文学の研究方法がどう変わっていくのか、本質的な議論を展開してきている。ただ、研究にコンピュータをつかえば……というのではなく、さらに、その先を見通している。

デジタル・ヒューマニティーズの今後を考えるうえで、今回の「東洋学へのコンピュータ利用」は、非常に有益な研究会であったと、思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『人は見た目が9割』2008-04-03

2008/04/03 當山日出夫

基本的に、ベストセラー、の類には手を出さないことにしているが、ちょっと落ち着いたところで買って読んでみる。

Amazonなどのコメントでは、きわめて、評判が悪い。そうなると、天の邪鬼な人間としては、かえって、評価してみたくなる。

まず、何故、この本が売れたのだろうか。確かに、タイトルの良さ、はあるだろう。だが、タイトルだけで本が売れるものではない。この本を買った多数の読者は、何をもとめていたのか。

おそらく、それは、円滑な対人コミュニケーションとは……ということであろうと思う。全体として、非言語コミュニケーション入門の軽いエッセイ集、として読めば、いいのだと思う。全体を、非言語コミュニケーション論の学術的な本、としてうけとってしまうと、(私であっても)酷評したくなる。もちろん、マンガ論として読めば、レベル以下としか言いようがない。だが、ざっと通読した印象は、さほど悪くはない。

かたくるしい「文章読本」や「礼儀作法」から、少し距離をおいて、かるく読める本として、ちょうど時代に要請にこたえた本である、というところであろうか。

ところで、「人は見た目が9割」という。では、残りの1割は、何であるのか。「見た目」ではない「言語」によるコミュニケーションであっても、9割と1割がある。

音声言語では、その「声」や「話し方」によって、伝わる内容は違う。また、書記言語(文書)であっても、用紙の選択や、文字サイズ・フォント、全体のレイアウトによって、「それらしく」見える。

アカデミック・ライティングという名称で、学生に、論文の書き方の初歩を教えている。その冒頭で、まず、こう言う……アカデミック・ライティングというのは、論文を、それらしい体裁で書くことである、と。つまり、論文も「見た目」なのである。

その「見た目」の内容のなかには、参考文献の書き方・引用の仕方・注の付け方、などがふくまれる。「見た目」といっても、それを考えると、「文書」(文章ではない)の構造、が見えてくる。

當山日出夫(とうやまひでお)

人文情報学シンポジウム(1)2008-04-04

2008/04/04 當山日出夫

ようやく3月22日の、人文情報学シンポジウム、である。

会場は、京都市国際交流会館。ねんのため、事前に、HPで交通アクセスを確認しようとすると……スペイン語のHPがある。日本語・英語・中国語(簡体字)・朝鮮語(ハングル)、そして、スペイン語、である。

ところが現地に行ってみると、どこにも、スペイン語で書いたとおぼしい看板や道案内が見あたらない。案内板まで、そのときどきの多言語に対応して、書き換えるのは、コスト的に無理なのだろう。あるいは、HPを作るセクションと、会館の運営管理のセクションが別々で、うまく連携がとれていないだけのことなのか。

最初の発表は、「キャラクターの憂鬱」(守岡知彦)。「キャラクター」といっても文字の方の話しではない。メインは、コスプレと、その写真の話し。まことに混沌とした話題なのであるが、「キャラクター」とは何であるか、を考えようとするとき、「文字」と「コスプレ」は、どこかで結びつく。あるいは、通底するものがある(やや用語が古めかしいが。)

ところで、話しのかなりの部分が写真にかかわることであった。「写真」は「真」を「写」してなどいない。フィルム写真であっても、フィルムの種類・レンズ・現像・プリント、それぞれに工夫をこらすことによって、いかような写真でも作れる。ましてや、現在の、デジタルカメラとフォトレタッチ機能においては、さらにそれにCG機能を加えれば、なんでもあり、であるとさえ言える。

だが、その一方で、写真は、やはり、リアリズムの側面を持っている。単純素朴ではあるが、厳然たるリアリズム、として。

個人的に考えることであるが、このあたりの議論を深めていくと、文字と言語、写真におけるリアリズム、これらを包括する議論を考えることが可能かもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

人文情報学シンポジウム(2)2008-04-06

2008/04/06 當山日出夫

歴史記述における情報概念について 白須裕之

いつもながら、白須さんの発表はすごいと思う。だが、はじめて、このての発表に接する、人文学系の研究者は「???」であるだろう。

そのレジュメの「はじめに」で、まずこう記している。

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人文情報学という分野のためになされた先人の努力の結果、人文系のデータベースやデジタルアーカイヴ等の種々な成果が提出されてきた昨今であるが、人文情報学の基礎を問い直す試みは、その端緒に就いたばかりではないだろうか?

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歴史とは何か、というこれまで数多くの歴史学研究者のみならず、人文学研究者のとりくんできた課題について、論理学でとりくもうとしている。おそらく、実際の史料に基づいて研究をすすめている歴史学研究者には、この発想自体が、うけいれがたいものかもしれない。史料を解読して、帰納的に解釈を導き出すものである……大部分の歴史学研究者は、こう考えているだろう。

しかし、白須さんは、これに対して、大胆に、歴史とは何かを、定性的情報理論によって、「言語」「システム」「モデル」によって、考えようとしている。

史料・資料のなかに埋もれて、こつこつと……という研究もおおいに結構なのであるが、一方で、白須さんの発表のような、「論理」で考えてみるという方向も必要である。ただ、コンピュータをつかっていれば、それで、人文情報学である、デジタル・ヒューマニティーズである、というものではない。

残念ながら、今の日本の状況は、白須さんのような人材を優遇するにいたっていない。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』317号2008-04-07

2008/04/07 當山日出夫

新学期が始まってしまうと、ARGにコメントを書くのも、ややつらくなってくる。が、忘れないうちに、すこしだけ。

渋沢財団の仕事は、デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)の「かがみ」となるだろう。

渋沢栄一、私にとっては、むしろ、渋沢敬三の名前の方がなじみがふかい。「アチックミュージアム」であり、宮本常一への援助などである。この視点からは、実業史研究情報センター、といいながら、単なる「実業=商工業」に終わっていない、視野の広さがすばらしい。

「絵引き」……『日本常民生活絵引き』の復刊版が出たとき、さっそく購入した。大学で国文学専攻といっても、折口信夫の民俗学的な方向にそった勉強であったので、この本は、是非とも手元に欲しかった。

渋沢栄一についての研究にも、「絵引き」の発想が取り入れられることは、非常に良いことだと思っている。これまで、絵画資料に基づいた歴史研究は、一部には、先駆的なこころみがあり、今でも、そのこころみは継続しているが、本格的に、歴史史料として、多くの研究者が利用するようにはなっていない。

デジタルの時代になって、実は、「絵引き」は、簡単に作れるようになった。技術的には、かなり容易になってきているといえよう。だが、それが実現しないのは、もとの資料画像(絵巻など)の、使用の権利の問題がたちふさがるからである。デジタルになって、むしろ、かえって後退してしてしまった印象さえある。

だが、今回の、渋沢財団の企画として、「絵引き」の発想がとりいれられ、その魅力が、世の中にひろまるとすると、「絵引き」に対する、社会の認識も変わってくるかもしれない。

渋沢財団のこころみは、その射程は、これまでに考えられてきた、「デジタルアーカイブ」や「データベース」、インターネットによる情報発信、これらのすべてを、包括し、再考をうながすところに、達している。

デジタルアーカイブの倫理の問題といい、絵引きの応用事例といい、渋沢財団の仕事は、デジタルで文化事象を考えようとしている人間にとって、最先端の存在であるといってよい。今後、ここの仕事から、学ぶべきものが多くあると、期待を表明しておきたい。表面の文字だけをみて、実業史とだけ思ってはいけない。文化史であり、社会の歴史、人々の歴史、にひろがっていくものである。コンピュータ、インターネットによる、歴史学・文化論への、新たなる再チャレンジであると評価していいと思う。

それから、今回のARGで紹介の奈文研の「木簡ひろば」の、「Mokkanshop」については、これから折りをみて、ためしてみたいと思っている。「HNG(漢字字体規範データベース)」との併用によって、古代の典籍・文書類の解読、あるいは、文字(漢字)の歴史研究にどのように、つかえるのか、文字研究者の立場から、考えてみたい。(残念ながら、今、その時間の余裕がないが。)

當山日出夫(とうやまひでお)

人文情報学シンポジウム(3)2008-04-10

2008/04/10 當山日出夫

ARGの次号が出るまでに、人文情報学シンポジウムの、私的な記録を終わらせないといけない。人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)を考える、一つのキーワードになるのが、「デジタルアーカイブ」であると思う。あるいは、「デジタルドキュメンテーション」と言った方がいいか。

午前中の、守岡さん・白須さんの発表が終わって、昼食。さて、誰とどこに行こうか……というとき、

会場は、昼休みは、鍵をかけて閉めてしまう。であるならば、部屋の鍵を持っている人と一緒にいるのが、最も、賢明な判断であろう。

と、考えた。鍵を持っていたのは、師さん。で、結局は、数名でつれだって、かなり歩いて、永観堂の近くのうどん屋さん(カレーうどんで有名)に、行くことになった。カレーうどんを注文したのは、行った人のうち半分ほど。私は、「きざみ」。

簡単に言えば、きつねうどんの油揚げを、大きな1~2枚の状態ではなく、細かくきざんで短冊状にしたものを言う。あまり確かな記憶はないが、東京では、使わない用語であるはず。

というような昼食の後、午後からは、まず、

「正字」における束縛の諸相 小形克宏

この発表の概要は、小形さんのブログがらHPにリンクしてある。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080325/p1

この発表については、私もいいたいことはたくさんあるのだが、残念ながら、まとまって考える時間がない。あらためて、後ほど。

今週から、「デジタルアーカイブ論」の授業を担当することになったので、こちらの方の準備がたいへん。今日が、初日。

ところで、今の学生に、知っているインターネットのデジタルアーカイブにはどんなものがありますか、と聞いてみて、(コミュニケーション・ペーパーで回答)、青空文庫やユーチューブ、というのが多かったのは、やはり世代の差か、という気がする。

「デジタルアーカイブ」とは……という問いかけは、実は、「人文情報学」とは、という問いかけに通じると思う。ここしばらく、「デジタルアーカイブ」について考えながら、人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)について、考えいくことにしたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

ブックストッパー2008-04-11

2008/04/11 當山日出夫

たまたまであるが、Amazonのサイトを見てみつけた。ブックストッパー。キーワードを「ブックストッパー」で設定して検索すると、すぐにみつかる。

ところで、これを買うのは、2回目。

かなり以前になるが、(20年以上になるだろう)、たしか学生のころに買ったのを、今でも、使っている。新しいのを買ってみると、すこしデザインが変わっているが、基本的には同じ。

大型のクリップに、その片方におもりがついていて、本を開いた状態で、机の上においておける……ただ、これだけのものだが、非常に重宝して使ってきた。

現在、パソコンをおいてある机が、XP用と、VISTA用、二つに分かれてしまったので、いちいち、とりに行くのが面倒なので、追加で購入。

考えてみれば、昔、ブックストッパーを買ったときは、まだ、パソコンなど 無かった時代だと思う。原稿用紙と万年筆の時代であっても、本を机の上にひらいたままおいておき、書き写す(=キーボードから入力する)という、操作に違いがあるわけなはい。

おそらく人間が、紙の本を読み、手で(万年筆であれ、キーボードであれ)文字を書く(入力する)ということを、つづけていくかぎり、この商品の価値は存続するだろう。

それから、これ以外に意外と重宝するのが、書見台。昔ながらの木製のものを今でも使っている。それから、LUXO社製の、コンピュータ用のもの。今、検索してみると、照明器具ではあるが、書見台(書類ホールダー)は、無くなっている。数年前に、通信販売で買って、これも非常に効率的で便利。

照明の方は、LUXO+バイオライト、の製品を読書用に使っている。

ちなみに、使用のキーボードは、東プレ社製。ディスプレイは、ナナオ社製。

コンピュータで仕事をする、文章を書くととき、コンピュータそのものよりも、周辺の、機器や、こまごまとした道具類が、仕事の能率をあげる、あるいは、仕事を楽にする。

當山日出夫(とうやまひでお)