人文情報学シンポジウム(1)2008-04-04

2008/04/04 當山日出夫

ようやく3月22日の、人文情報学シンポジウム、である。

会場は、京都市国際交流会館。ねんのため、事前に、HPで交通アクセスを確認しようとすると……スペイン語のHPがある。日本語・英語・中国語(簡体字)・朝鮮語(ハングル)、そして、スペイン語、である。

ところが現地に行ってみると、どこにも、スペイン語で書いたとおぼしい看板や道案内が見あたらない。案内板まで、そのときどきの多言語に対応して、書き換えるのは、コスト的に無理なのだろう。あるいは、HPを作るセクションと、会館の運営管理のセクションが別々で、うまく連携がとれていないだけのことなのか。

最初の発表は、「キャラクターの憂鬱」(守岡知彦)。「キャラクター」といっても文字の方の話しではない。メインは、コスプレと、その写真の話し。まことに混沌とした話題なのであるが、「キャラクター」とは何であるか、を考えようとするとき、「文字」と「コスプレ」は、どこかで結びつく。あるいは、通底するものがある(やや用語が古めかしいが。)

ところで、話しのかなりの部分が写真にかかわることであった。「写真」は「真」を「写」してなどいない。フィルム写真であっても、フィルムの種類・レンズ・現像・プリント、それぞれに工夫をこらすことによって、いかような写真でも作れる。ましてや、現在の、デジタルカメラとフォトレタッチ機能においては、さらにそれにCG機能を加えれば、なんでもあり、であるとさえ言える。

だが、その一方で、写真は、やはり、リアリズムの側面を持っている。単純素朴ではあるが、厳然たるリアリズム、として。

個人的に考えることであるが、このあたりの議論を深めていくと、文字と言語、写真におけるリアリズム、これらを包括する議論を考えることが可能かもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

コメント

_ もろしげき ― 2008-04-04 14時36分38秒

おお、さすが。写真は今度、機会を見つけて議論したいと思っているところです。守岡さんの発表の中で、東浩紀氏の議論を引きながら、漢字の「不透明性」について述べていましたが、写真は「透明」か、言語は「透明」か、歴史叙述は「透明」か、考古の遺物は「透明」か…みたいなリアリズムあるいは現前性をめぐる問題系ですね。またいろいろご教示ください。

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