新常用漢字:国語と日本語と「葛」2008-06-01

2008/06/01 當山日出夫

新常用漢字について、さらに考える。

新常用漢字については、小形さんのブログ「もじのなまえ」に詳しい。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080526/p1

常用漢字について考えるとき、「国語」における漢字であるのか、「日本語」における漢字であるのか、本当は、このあたりから、きちんと議論しないといけない。

現実的には、言語の使用者として、「国語」としての日本語の範囲と、「日本語」の範囲は、ほぼ重なる。日本語を母語とする人は、その大部分が、日本という国のなかに居住しており、また、日本国以外では、日本語は、ほどんどつかわれない。さらに、日本国内では、日本語だけである。

なお、上記の表現は、PC(政治的な正しさ)ではない。日本国内にネイティブに存在する言語は、日本語の他に、アイヌ語と、琉球語がある。(このことは、承知のうえで書いている。)

ついでにいえば、日本語が日本国の公用語であるという法的な規定は、どこにもない。日本国憲法を日本語で書く、ということは、憲法それ自体の内部に記されてはいない。

新常用漢字は、公的に規定されるものである。現行の常用漢字は、内閣告示によっている。また、一般の日本語の表記にとっては、「目安」であるにしても、公用文は、常用漢字の規定をうける。だからこそ、日本の都道府県名が、完全に書けない、現在の常用漢字は不備があることになる。例えば、「熊(熊本)」「岡(岡山)」「栃(栃木)」などである。

この意味で、「葛」は、どうなるのか。東京都葛飾区では、「人」の「葛」。奈良県葛城市では、「ヒ」の「葛」である。

東京都葛飾区 区役所

「葛」を表記するときの「葛」の字の不思議

http://www.city.katsushika.lg.jp/aisatu/katsushikakunituite.html#katunoji

奈良県葛城市 市役所

市名の「葛」の字について

http://www.city.katsuragi.nara.jp/katsuragi/katsu.html

結論としては、葛飾区と、葛城市では、異なる文字(異体字)を使用している。そして、現状では、この対立の妥協点は、見いだせない。

それは、この「葛」が印刷標準字体(表外漢字)で、「葛(人)」になっていること。そして、「0208」と「0213:04」で違う。簡単には、旧XPと、新VISTAでは、二者択一で、いずれか一方しか見えない、ということである。

新常用漢字が、「日本語」の文字を規定するのであるならば、許容の範囲である。しかし、「国語」の文字を規定すると考えると、基本的な行政単位、都道府県、さらには、市区町村、の名称は、ただしく表記できないといけないだろう。市区町村の作成する、公用文は、常用漢字の適用外である、という規定を明言するな、それでよい。しかし、公用文になにがしかの影響力を持つものとして、制定するならば、「葛」は、どうするのか。

いっそのこと、常用漢字外、つまり、新常用漢字には入れない、にするのが、最も妥当な方法であろう。

はたして、都道府県名と、市区町村名で、漢字の使用レベルをわける、という合理的な説明が可能であろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』325号2008-06-02

2008/06/02 當山日出夫

ARGの325号について、いささか。

編集後記の、学会発表・プレゼンテーションについての、前号(324)の記述といい、今回の、それへのトラックバックの紹介といい、やはり、私なりに考えをまとめておかねばならないだろう。

ARG編集日誌

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080525/1211727053

また、次のブログの内容は参考になる。

かたつむりは電子図書館の夢をみるか、2008-05-26

http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20080526/1211820221

ところで、パワーポイントを使わない発表というのもある。特に、私の専門領域にかかわる日本語学・日本文学関係では、そうである。(といって、すべての、学会・研究会に出ているわけではないのだが。)

私の感ずるところ、やはり、まだ、コンピュータそのものに対する、一種の忌避的な感情があると、なんとなく感じる。せいぜい、発表のレジュメを、ワープロで作成するぐらいで、それ以上は、踏み込もうとしない。

これが、パワーポイントになると……かなりの違和感を抱いているようである。

先日の訓点語学会、7名の発表者のうち、まともにパワーポイントを自らつかったのは、1名だけ。(ほぼ、私と同年配の研究者)。

古典籍の研究であるならば、資料(たとえ、それが、影印複製本のスキャナ画像であっても)を、見ながら、話しをするというのが、基本であろう。そして、その技術的な壁は、限りなく低くなっている。スキャナは、安いのであれば、1万円程度、パワーポイントはパソコンを買ったとき、オフィスに一緒についてくる。複雑なアニメーションに凝らなくても、資料の画像を、一緒に発表会場で見ながら自分の話をする、という発想が必要であると、私は考える。

先日の、日本語学会での、漢字のシンポジウム。「漢字」という、まさに、人間が目で見て認識する文字である。そのシンポジウムで、パワーポイントを使って、視覚的に確認しながら、プレゼンテーションする、ということが、どれほど重要か、簡単にわかりそうなものである。(このシンポジウム、パワーポイントを使ったのは、安岡孝一さんだけ、であった。)

ついでに言うならば、新常用漢字の委員会、実際に資料画像(活字・手書き)、あるいは、旧XPと、新VISTAで表示の文字、これらを、パワーポイントで、プロジェクタで見ながら、審議しているのだろうか。字体・字形を議論するなら、絶対に必要である。それが出来ないようなら、少なくとも、この発想が理解できないなら、委員に名をつらねる資格そのものが、疑われよう。

もとにもどって、先日の、CH78(立命館)、個人的印象としては、プレゼンテーションに工夫があり、また、発表に意欲を感じたのは、最初の2件の発表(同志社の大学院生たち)。他には、吉村ミツさん、山田奨治さん、中村美奈子さん、小沢一雅さん、この人たちは、やはり、上手であると感じる。時間も、基本的に守っている。

とにかく、この発表の限られた時間内(20~30分程度)で、これだけは確実に伝えたい、という意識が明瞭である。これは、プレゼンテーションの巧拙以前の、意欲・気持ちの持ち方の問題として。

まず、この発表で自分は何を集まった人たちに伝えたいのか、これが自分自身で把握できていなようでは、プレゼンテーションのテクニック以前の問題である。

當山日出夫(とうやまひでお)

出版状況クロニクル2008-06-02

2008/06/02 當山日出夫

笠間書院のメールマガジンで知った。

笠間書院

http://kasamashoin.jp/

論創社という出版社のHP

論創社

http://www.ronso.co.jp/index.html

このHPのなかに、「出版状況クロニクル」という、コーナーがある。

出版状況クロニクル

http://www.ronso.co.jp/chronicle/chronicle.html

現在の出版業界の状況を簡潔にまとめたものである。これは、現在の出版業界のことを考えるうえで、非常に参考になる。図書館、出版、インターネットでの情報流通、これらは、ワンセットで考える必要がある。

なお、どういうルートであるか、わからないが、私のところに、

第15回 東京国際ブックフェア

の招待状が来ている。ARGオフ会(&シンポジウム)のついでに、立ち寄ってみようかと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

学術論文の投稿サイトができるそうだが2008-06-02

2008/06/02 當山日出夫

これも、笠間書院のメールマガジンによる。

笠間書院

http://kasamashoin.jp/

Linux Today

http://japan.internet.com/linuxtoday/20080516/5.html

My Open Archive

http://www.myopenarchive.org/

これは、学術論文の投稿サイト。さっそくここを見てみると、次の論文が投稿されている。

『電子図書館と「館」の希薄化-物理的な、あるいは電子的な』

著者は、min2-fly とある。

笠間書院は、日本語・日本文学関係では、著名な出版社であるが、多くの学術書出版がそうであるように、ほとんど、零細企業といってよい規模である。その笠間書院にとって、あるいは、研究者にとって、このような、論文投稿サイトの出現は、どのような意味があるだろうか。

考えるべきは、研究者の側が、ここに投稿された論文を、業績として評価するかどうか、かもしれない。かりに、査読つき論文であった場合っでも、その著作権は、基本的に著者にある。最近は、機関リポジトリとして、電子化される場合もある。しかし、電子化権を完全に譲渡したとは、いいきれないかもしれない。(このあたり、今後の議論であると思う。)

玉石混交の論文のかたまりになる可能性はあるが、論文というものを、「紙」や「図書館」から、解き放つこころみとして、今後の行く末に注目したい。

また、このようなサイトを紹介している笠間書院メールマガジンの見識も、評価されるべきであると考える。

さらに、これは、デジタル・ヒューマニティーズにとっても、考えねばならない課題である。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記

min2-fly

という著者名からすると、おそらく、

『かたつむりは電子図書館の夢をみるか』だろうとおもうが、

http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20080530/1212139135

専攻の壁・学科の壁・学会の壁2008-06-03

2008/06/03 當山日出夫

蒼猴軒日録での、コメントについて。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080528

ここで、美術・映像関係の学会が紹介されている。佐藤さんに感謝。

私自身は、大学は、文学部国文科で、日本語学(国語学)を勉強したから、主な、日本語学や日本文学関係の学会の事情は、なんとなく、経験的な知識としてある。

たとえば、日本語学会(旧・国語学会)、訓点語学会、方言研究会、近代語学会、計量国語学会、社会言語科学会、など。

あるいは、文学関係であれば、上代文学会、中古文学会、中世文学会、近世文学会などの時代別の、学会。上代でも、さらに、万葉学会、古事記学会、などがある。また、和歌、説話、仏教文学などの、諸学会。

デジタル&インターネットの時代になって、これらの学会の情報が横断的に分かるようになったか、というと、必ずしもそうではない。やはり、大学の中の学部の中の学科の中の、さらに、それぞれの研究分野の単位というものは、厳然として存在する。

ARGや、笠間書院メールマガジンは、すばらしいとは思う。しかし、それでも、文学関係と、映像・美術関係を、つなぐのは困難な状況かもしれない。

笠間書院

http://kasamashoin.jp/

文学研究でも、絵巻・奈良絵本など、絵画にかかわる資料をあつかう。また、写本の画像データも利用するようになってきている。私の専門である、文字研究では、文字の画像データ無しには、もはや研究できないとい言ってもよい。 近世文学研究では、本の挿絵や、浮世絵などは、必須の研究テーマである。

今後は、映像・画像関係の学会や研究会情報にも、目をくばらないといけない。

単に、技術的には、インターネットで横断的に……というのは簡単である。しかし、実際に、個々の研究者単位での研究テーマや、その対象を、つなぎあわせるのは、まだまだこれからかな、という印象ともつ。つまり、『デジタル・ヒューマニティーズ』は、まだまだ、これからであると、思う次第である。

実は、これは、今日のGCOE火曜セミナーでの発表(英語)を聞いていて、漠然と感じた印象。

http://www.ritsumei.jp/humanities/index_j.html

當山日出夫(とうやまひでお)

デジタルアーカイブできないもの「伝承」について考える2008-06-04

2008/06/04 當山日出夫

デジタルアーカイブ技術の授業、明日から、2Qがはじまる。最初は、授業の概要について。学生には、レポートで、ゲストスピーカ(3回)の先生の話しについて、「それを事実として要約せよ」とする。「意見は書くな!!」である。

心配なのは、「事実」と「意見」の違いが、分かっていてくれるかどうか。作文技術の授業ではないので、この点にあまり深入り余裕はない。『理科系の作文技術』(中公新書、木下是雄)などを、紹介する程度。

ところで、時間割と、ゲストスピーカの先生の都合で、1回は、私がはなさないといけないことなっている。

いっそのこと、デジタルアーカイブできないものとは、という方向で話しをする予定。

参考にする本は、

『芸能の〈伝承現場〉論』.大石泰夫.ひつじ書房.2007

『日本の「わざ」をデジタルで伝える』.渡部信一.大修館書店.2007

いたずらに、デジタル万能主義でもなく、また、デジタル忌避でもなく、現在の技術で何が可能かということ、そして、「伝承」という問題について、考えることにしたい。

「伝承」ということ、たまたま、慶應の文学部国文科で学んだ経緯があるので、柳田国男や、折口信夫、から、いまだに離れられないでいる。

當山日出夫(とうやまひでお)

デジタルアーカイブについてあれこれ2008-06-05

2008/06/05 當山日出夫

今のところ、私が手にしている、デジタルアーカイブの本は、

『デジタルアーカイブの構築と運用-ミュージアムから地域振興へ-』.笠羽晴夫.水曜社.2004

『デジタル・アーキビスト概論』.後藤忠彦(監修)/谷口知司(編著).日本文教出版.2006

このうち、前者『デジタルアーカイブの構築と運用』の母体となった、デジタルアーカイブ推進協議会は、今は無い。その一部は、

デジタルコンテンツ協会 DCAJ

http://www.dcaj.org/

にひきつがれている。これは、過去のARGの記事にある。

また、『デジタル・アーキビスト概論』の方は、岐阜女子大学によるもの。そして、この大学(岐阜女子大学)には、デジタルミュージアムがある。

岐阜女子大学デジタルミュージアム

http://dac.gijodai.ac.jp/

また、岐阜女子大学では、大学院修士課程に、平成20年(今年度)から、文化創造学研究科、を設置する。

ここでは、デジタル・アーキビストの資格をとれる、とのこと。さらにたどって、デジタル・アーキビストについては、次の機関がある。

特定非営利活動法人日本デジタル・アーキビスト資格認定機構

http://www.gakujoken.jp/nintei_kikou/

さて、これらのデジタルアーカイブの動きと、日本アーカイブズ学会などの動きは、今後、どうなっていくのだろうか。

このあたりの動きは、デジタル・ヒューマニティーズの観点から、注目していかなければならない。とにかく、デジタル・ヒューマニティーズは、デジタルアーカイブと無縁ではいられないのであるから。

このあたりの事情まで、1Qの「デジタルアーカイブ論」で触れられなかったのは、今から思えば、残念ではある。

當山日出夫(とうやまひでお)

みなさんゴメンナサイ2008-06-05

2008/06/05 當山日出夫

このブログを作っている、アサヒネットのシステムが変わったのか、あるいは、私の設定ミスなのか、これまでも、みなさんからいただいた、コメントやトラックバックが、未処理のままで、たくさん残っておりました。

最初の設定では、自動的に公開、にしていたので、気づくのが遅れました。

先ほど、SPAMを除いて、公開の処理をしました。

ブログの設定をみなおして、今後、このようなことの無いようにいたします。

ひたすら、陳謝。

うっかりSPAMの処理をしてしまったものがあったら、さらに、ゴメンナサイ。

當山日出夫(とうやまひでお)

『デカルトの密室』2008-06-06

2008/06/06 當山日出夫

実は、昨日、買ったばかりで、読み始めの状態。明日の午前中は授業(=文章能力検定試験の監督)。午後からは、学会(アート・ドキュメンテーション学会)。暇をみつけて、読むことにしよう。

まだ、冒頭を読んだばかりである。そこで、やはりこの本は読んでおくべきとの印象を持った。いきなり『HAL』が登場する。『HAL』は、いうまでもなく、『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータ。小説よりも、映画の方が有名だろう。人類の祖先と思われる人(あるいは生き物)が、「道具」としての骨を、空中に投げあげる。その白い骨が、次のシーンでは、未来の、宇宙船に変わる。

道具としての骨、単にモノをたたき割るだけ、それの進化した究極の姿が、『HAL』というコンピュータなのかもしれない。(なにせ、映画を実際に見たのは、学生のころなので、すこし、あやしいところもあるが。)

『HAL』は、もはや「かたち」を持っていない。コンピュータとしての電子回路だけの存在といってよい。アンドロイドさえもない。『鉄腕アトム』や、『8マン』、ではない(これらのマンガの主人公も、ある意味で、人工知能といえるのだが。)

逆に、人間の『脳』だけを追求したマンガもある。石森章太郎(発表当時の名称で)の『サイボーグ009』である。最初からか読んでいくと、人間の形を持っているのは、009まで。それ以降の、ナンバーのサイボーグたちは、人間の形を与えられていない。また、最後(どの話しのというのはあるが)の、流星で終わるシーン。ここで、悪の本体として登場するのは、単なる『脳』でしかない。(なお、このマンガ、最初『少年キング』に連載であったのが、途中から『少年マガジン』に変わったのを、リアルタイムで、読んで知っている。)

『2001年宇宙の旅』と『サイボーグ009』は、意識とは、知能とは、人間とは、について、対極的な描き方をしていると、いえるだろう。

さて、絶不調状態のXPマシンが回復したようなので、仕事にもどる。このメッセージは、別の机のVISTAで書いている。

『デカルトの密室』(新潮文庫).瀬名秀明.新潮社.2008(オリジナルは、2005)

當山日出夫(とうやまひでお)

『疑似科学入門』:疑似科学と科学は明瞭に区別可能か2008-06-06

2008/06/06 當山日出夫

私が、以前、このブログで『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)に言及したところ、コメントをいただいている。

それほど、じっくりと読んだというわけではない。しかし、現時点で、私の考えを記しておきたい。

Chromeplated Rat

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/

「疑似科学入門」のレビューを書かない

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-05-21/trackback

科学そのものから話しははずれる。私自身は、文字の研究者(のつもりでいる)。文字について、「正しい文字」「間違っている文字」を定義できるだろうか……一見すると、簡単そうなことだが、意外と、難しい。

「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)

「科学」と「疑似科学」(疑似科学にもいろいろあるが)については、このような、相互に逆方向にしか、定義できないものであると、思う。

池内了の本については、いろいろコメントされている。それは、上記のブログ記事のコメント、トラックバックをたどると、よくわかる。これ以上、私が、付け加えることもないだろう。

大前提として、「正しい科学」というものがある……ということを、暗黙のうちに設定してしまうことの危うさ、これは、言い換えるならば、科学の方法論への自覚の欠如と言ってよいかもしれない。

疑似科学を、科学の対象とすることによって、科学とは何であるかが、より分かるようになる……このような論の方向が望ましいと、考える。さて、この本、学生に読ませるとすると、どう使うべきか。

『疑似科学入門』を読んで、科学と疑似科学の違いが分かるか、これによって、科学とは何であるか理解できるか、そのように書けているかどうか、を、レポートせよ、というような方向があるかもしれない。が、まあ、これは、学生のレベルにもよるので、思案ものではある。

當山日出夫(とうやまひでお)