『デカルトの密室』2008-06-06

2008/06/06 當山日出夫

実は、昨日、買ったばかりで、読み始めの状態。明日の午前中は授業(=文章能力検定試験の監督)。午後からは、学会(アート・ドキュメンテーション学会)。暇をみつけて、読むことにしよう。

まだ、冒頭を読んだばかりである。そこで、やはりこの本は読んでおくべきとの印象を持った。いきなり『HAL』が登場する。『HAL』は、いうまでもなく、『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータ。小説よりも、映画の方が有名だろう。人類の祖先と思われる人(あるいは生き物)が、「道具」としての骨を、空中に投げあげる。その白い骨が、次のシーンでは、未来の、宇宙船に変わる。

道具としての骨、単にモノをたたき割るだけ、それの進化した究極の姿が、『HAL』というコンピュータなのかもしれない。(なにせ、映画を実際に見たのは、学生のころなので、すこし、あやしいところもあるが。)

『HAL』は、もはや「かたち」を持っていない。コンピュータとしての電子回路だけの存在といってよい。アンドロイドさえもない。『鉄腕アトム』や、『8マン』、ではない(これらのマンガの主人公も、ある意味で、人工知能といえるのだが。)

逆に、人間の『脳』だけを追求したマンガもある。石森章太郎(発表当時の名称で)の『サイボーグ009』である。最初からか読んでいくと、人間の形を持っているのは、009まで。それ以降の、ナンバーのサイボーグたちは、人間の形を与えられていない。また、最後(どの話しのというのはあるが)の、流星で終わるシーン。ここで、悪の本体として登場するのは、単なる『脳』でしかない。(なお、このマンガ、最初『少年キング』に連載であったのが、途中から『少年マガジン』に変わったのを、リアルタイムで、読んで知っている。)

『2001年宇宙の旅』と『サイボーグ009』は、意識とは、知能とは、人間とは、について、対極的な描き方をしていると、いえるだろう。

さて、絶不調状態のXPマシンが回復したようなので、仕事にもどる。このメッセージは、別の机のVISTAで書いている。

『デカルトの密室』(新潮文庫).瀬名秀明.新潮社.2008(オリジナルは、2005)

當山日出夫(とうやまひでお)

『疑似科学入門』:疑似科学と科学は明瞭に区別可能か2008-06-06

2008/06/06 當山日出夫

私が、以前、このブログで『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)に言及したところ、コメントをいただいている。

それほど、じっくりと読んだというわけではない。しかし、現時点で、私の考えを記しておきたい。

Chromeplated Rat

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/

「疑似科学入門」のレビューを書かない

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-05-21/trackback

科学そのものから話しははずれる。私自身は、文字の研究者(のつもりでいる)。文字について、「正しい文字」「間違っている文字」を定義できるだろうか……一見すると、簡単そうなことだが、意外と、難しい。

「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)

「科学」と「疑似科学」(疑似科学にもいろいろあるが)については、このような、相互に逆方向にしか、定義できないものであると、思う。

池内了の本については、いろいろコメントされている。それは、上記のブログ記事のコメント、トラックバックをたどると、よくわかる。これ以上、私が、付け加えることもないだろう。

大前提として、「正しい科学」というものがある……ということを、暗黙のうちに設定してしまうことの危うさ、これは、言い換えるならば、科学の方法論への自覚の欠如と言ってよいかもしれない。

疑似科学を、科学の対象とすることによって、科学とは何であるかが、より分かるようになる……このような論の方向が望ましいと、考える。さて、この本、学生に読ませるとすると、どう使うべきか。

『疑似科学入門』を読んで、科学と疑似科学の違いが分かるか、これによって、科学とは何であるか理解できるか、そのように書けているかどうか、を、レポートせよ、というような方向があるかもしれない。が、まあ、これは、学生のレベルにもよるので、思案ものではある。

當山日出夫(とうやまひでお)