新常用漢字:未来への責任2008-06-19

2008/06/19 當山日出夫

これは、小形さんのブログ「もじのなまえ」にコメントで書いたことであるが、私の方でも、これに関連して再確認しておきたい。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080616/p1

委員会は委員会としての見解や立場があるだろう。また、それとは別に、一般社会での、反応もある。第一次案(といえるかどうか問題であるが)から、先日発表の第二次案、これらの、報道(新聞など)をみると、どうも、「未来」対する責任というものが欠如しているように、思えてならない。

たしかに、今の日本語は、「われわれ」のものであろう。しかし、それだけではない。

第一に、日本語を必要とする、日本語を母語としない人たちがいる。端的に言ってしまえば、いわゆる「外国人労働者」である。その人たちの日本語学習・教育において、常用漢字は、どのような意味をもつであろうか。

これは、日本語教育の分野(現在では、国際交流基金がになっている)に、まかせればよい。そこに、独自で、日本語教育用の、漢字集合を考えるにまかせる、ということであれば、それでいいかもしれない。(だが、これは、日本の言語政策として、無責任なようにも思える。)

さらには、現在の国際社会とインターネットで、常用漢字が、ユニコードにおいて、どのような意味を持っているのか、考えているだろうか。国際間のコミュニケーション、情報の共有・流通の点から、ないがしろに出来る問題ではない。日本の国家の言語政策として、まず、論点にすべきである。

第二に、将来の日本語において、今の「われわれ」の文字(漢字)を、同じように見える状態で保存・継承できるだろうか。これは、「アーカイブ」の発想になる。

常用漢字の改訂が、JIS漢字コードに影響し、コンピュータで見える文字が変わる。これは、すでに、「78JIS」から「83JIS」にかけて。また、いまでは、「0213:04」への移行において、今まさに「われわれ」が経験して、苦い思いをしていることではないであろうか。だから、絶対に変えるなというつもりはない。変えるなら、それだけの、覚悟と責任感を持ってほしい、ということである。

「アーカイブ」の観点から考えて、少なくとも数十年後までは、同じ見え方(字体・字形)を、なんらかの手段で、保証する必要がある。数十年先、20世紀末から21世紀初頭にかけての日本語が、どのように、コンピュータで見えていたのか、これを、すくなくとも補助的な資料として、後世に残すべきである。

かつて、日本語は、当用漢字・現代仮名づかい、という変化を経験している。その是非はともかくしても、当用漢字・現代仮名づかいの時点においては、日本語をつかう人々のリテラシの向上、未来の日本への期待・希望、というものがあったように、私は認識している。日本語の未来、未来の日本の国の姿、があったであろう。

現在、常用漢字改訂を議論するなかに、日本語の未来、未来の日本、が見えてくるだろうか。このイメージは、画一的に強制すべきものでは、決してない。だが、このような発想(未来)が根底に必要である、と私は思うのである。

なお、先月の日本語学会でのシンポジウム、日本語の未来を本当に考えていたのは、野村雅昭さんだけであったように思う。その著書『漢字の未来』(筑摩書房、1988)が、新版として復刊になっている。この本については、あらためて書いてみたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

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