新常用漢字:『かなづかい入門』 ― 2008-07-02
2008/07/02 當山日出夫
白石良夫.『かなづかい入門』(平凡社新書).平凡社.2008
これほど、簡潔に「かなづかい」ということを説明した本を、他に知らない。たしかに、日本語の表記・書記にかかわる専門書の類は、かなり出版されている。その多くは、日本語の歴史(それも、かなり古い時代)についてのものが多い。
近年、明治以降の言語研究のひとつとして「かなづかい」が、学会発表のテーマになったりしている。しかし、これも、やはり、専門の研究者向けである。 『かなづかい入門』についていえば、まさに、(新)常用漢字が議論されようとしている中で、この本が出たことの意義は大きい。
(新)常用漢字がどうなるにせよ、より広い範囲で考えるならば、それは、すくなくとも現代の、さらには、未来の「日本語の表記」を考えることにつながる。だが、「日本語の表記」という意識なしに、「この字がはいる/はいらない」「この字はいれるべきか」のレベルの議論が横行しているのが、実際ではあるかもしれない。
考えてみればすぐにわかる。漢字だけで日本語を書いているわけではない。ひらがな・カタカナ、それに、ローマ字、各種の記号類、それらを総合して、日本語の表記がなりたっている。
この本で対象としている、「現代仮名遣」と「歴史的仮名遣」を、「常用漢字(新字体)」と、「旧漢字(正字体)」の用語に、おきかえて読んでみると、面白い。というより、私は、そのように読んでしまったのであるが。
「歴史的仮名遣」が一種の虚構の存在であるならば、同様に、旧字体(正字体)も、虚構でしかない。このことが分からずに、いたずらに、「旧字・旧仮名遣」にこだわる人が多いのは、どうしてであろうか。
ともあれ、(新)常用漢字を考えるとき、必読の一冊であることは確かである。
當山日出夫(とうやまひでお)
『甘粕正彦 乱心の曠野』 ― 2008-07-04
2008/07/04 當山日出夫
佐野眞一は、緻密なノンフィクション作家である。が、その緻密な文章を読んでいて、ふと、いままで見過ごしてきた、何かに気づかされることがある。
例えば、大宅壮一ノンフィクション賞の『旅する巨人』、これは、宮本常一の評伝である。だが、一方で、「日本民俗学」という学知の成立について、あらためて考えさせられる本であった。
また、そう言われてみれば、すぐにわかることであるが、『忘れられた日本人』所収の「土佐源氏」……この文章の「虚構」は、ナルホドと思ってしまうのだが、指摘されるまで、気づかなかった。それほど、宮本常一の語り口のうまさなのであろうが。たぶん、この「語る」という行為、そして、その文章化への反省なくして、「日本民俗学」の超克はありえないだろう。(このことは、柳田国男・折口信夫を、おもいうかべて記している。)
ところで、『甘粕正彦 乱心の曠野』。最初に出たとき買おうと思って、なんとなく買いそびれていて、このたび、ようやく読んだ次第。
この本で印象的なのは、二つの点。(この場合、いわゆる、大杉栄殺害の件は別にしておく。)
甘粕が理事長をつとめた「満映」という会社があったということ。そして、その人脈につらなる映画関係者が、戦後、東映に集まり、その一つの結実が、いわゆる「東映ヤクザ映画」にかかわっているということ。映画はかなり見たが、映画史には疎い私にとっては、これは、一つの新たな歴史を勉強したことになる。なお、このことは、買っただけで本棚においてあった、『『仁義なき戦い』を作った男たち-深作欽二と笠原和夫-』を、取り出してきてみると、これに関する記述がある。甘粕正彦への記載もある。(ただ、この本では、甘粕正彦が、大杉栄を殺害したとして、記載してある。)
そして、もう一つは、上記の発展した論点として、「満州国」というものの存在について、考える必要性を強く感じたこと。満州国の理想「五族協和」「王道楽土」とは、いったい何だったのだろう。
甘粕正彦は、満映の理事長にしてすぐに、大規模な人事改革を行い、「日本人」と「中国人」の賃金格差の是正を行っている。(ただ、これが、「中国人」の側から見てどうであったかは、別の問題であるが。)
なお、著者(佐野眞一)こう記している。
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満州から伸びた巨大な影は、国内に影を落としているだけではない。(中略)甘粕という比類なき個性が、闇のなかから照射したかすから光を頼りに描いた日本とアジアの近現代をめぐる陰影の物語である。(p.23)
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日本の映画史のなかで、甘粕正彦という人物が、客観的に位置づけられるようになるには、今後、一世代は必要であろうと、おもう。
佐野眞一.『甘粕正彦 乱心の曠野』.新潮社.2008
山根貞男・米原尚志.『『仁義なき戦い』をつくった男たち-深作欽二と笠原和夫-』.日本放送出版協会.2005
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:『青い山脈』 ― 2008-07-05
2008/07/05 當山日出夫
やはり読みなおしておきたいと思って、あらためて新しく買って読んだ。いうまでもなく、石坂洋次郎の残した傑作のひとつである。(なお、石坂洋次郎は、慶應義塾大学文学部国文科の出身である。しかし、あまり、そのことを意識したことはない。折口信夫の以前と以降で、大きく国文科の歴史も変わっている。)
文庫本(新潮文庫)の解説によれば、昭和22年の6月から10月に、朝日新聞に連載されたもの。これは、日本語の言語政策史でいうと、当用漢字表は、発表されているが、まだ、字体表は発表されていない時期になる。
また、年表で確認すると、当時の政府は、片山内閣。
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いまの総理大臣は、明治維新の志士、英雄型とはちがって、キリスト様が好きで、料理屋や芸者衆は大嫌いのようだし、(以下略)p.238
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とあるのに付合する。
さて、なぜ、この作品を読み直してみたかといえば、これは、あまりにも有名すぎる。「変(恋)」「脳(悩)」の文字のまちがい。メインの登場人物である、寺沢新子あての恋文を、国語・漢文の教師が、原文通りに読み上げる場面。
当用漢字字体表以前であるから、字体としては、「變」「戀」であったはずである。
この場面をふくめて、全体を読み直してみると、リテラシ史のうえから、いろんな疑問点や課題が見えてくる。
第一に、読める漢字と、書ける漢字の関係。
第二に、漢字と仮名の関係。小説では、「変すい」(←恋しい)と書いてあることになっている。漢字の間違いは敏感であるが、仮名表記のまちがい(この場合は、方言の反映、「し」→「す」)は、無視している(このことは、作者=石坂、が小説中で、作者が顔を出して述べている。いわゆる、『草子地』である。)
第三に、この手紙の誤字の問題を、「学力低下」として、登場人物たちがとらえていること。
第四に、国語・漢文の教師の発言として、「汚らわしい熟語」(※この場合は漢字と言い換えてもよいが)を、なるべく教えない方針でいると発言していること。※今度の「(新)常用漢字」でいえば、「俺」が該当するであろう。
以上が、「変・恋」についての、有名な場面から思い浮かぶことである。その他、読んで気づいたのは、最初に、ラブレター事件が発覚して直後に、生徒が黒板に書いた、要求(島崎先生へ)。これに対する、島崎先生の返答である。
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島崎先生へ
一、私共ノ愛校ノ精神ヲ侮辱シタコトヲ取リ消シテ下サイ
二、生徒ノ風紀問題ハ生徒ノ自治ニ委セテ下サイ
三、母校ノ伝統ヲ尊重シテ下サイ
(中略)
(島崎先生)「だれが黒板にこれを書いたかしれませんが、これだけの短い文章の中に字の間違いが四つもあります。」
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そして、最後に、この作品の背景として、作者(石坂洋次郎)は、どのような読者を想定していたのか、がある。登場人物のひとり「ガンちゃん」は、読書家である。常に本を読んでいる人間。ヘルマン・ヘッセの小説集、スピノザ『哲学大系』、カント『判断力批判』、世阿弥『花伝書』、エッケルマン『ゲエテとの対話』、夏目漱石『三四郎』、などである。(p.149)
これらの書名を見れば、いわゆる旧制高校的な教養主義であることが、すぐにわかる。
また、最後の方の場面で、なんのことわりもなく『桜の園』が登場する。これは、読者が、チェーホフの『桜の園』を読んでいることを、前提に書いてある。たぶん、今の大学生レベルでは、読んでいない方が普通であろう。
以上のことがらを、眺めただけで、今の「(新)常用漢字表」についての、各種の論点が、すでに、出そろっていることに、気づく。いままで、われわれは、何をしてきたのであろうか。
『青い山脈』は、戦後民主主義の理想をうたいあげた小説である。すくなくとも、この作品には、未来の日本の社会と人々のあり方が、描かれている。ただ、その理想像のなかには、日本語によるコミュニケーションや記録といった問題は、ふくまれていない。しかしながら、日本語をつかう人々の未来をかんがえること、その原点を確認するに、再読の価値がある。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記(2008/07/06)
安岡さんがコメントして下さっているが、朝日新聞において「変」「恋」であったよし。すると、草稿は別にして、
朝日新聞社版の初出(昭和22年)
昭和22年の新潮社の初版本
文庫本の初版本(昭和27年)と現在の改版本(平成4年)
これらを、くらべなければならないことになる。宿題が増えてしまった。
まずは、安岡さんのご指摘に感謝。
『青い山脈』(2) ― 2008-07-06
2008/07/06 當山日出夫
『青い山脈』を読みなおして思うことのつづき。
なぜ、「変しい」(=恋しい)「脳ましい」(=悩ましい)であるのか、という点。別に、単に学生の偽ラブレター事件だけを話題にするのであるならば、かな表記で「こいしい」「なやましい」であっても十分なはず。
「恋しい」を「こいしい」(あるいは「こひしい」)と書いたのでは、ラブレターにならないのであろうか。そんなことはない。
また、あえてこの偽ラブレターに誤字を使用する必然性も、小説を書く立場からすれば無い。ただ、小説全体に、ある種のユーモアを与える効果があることは確かである。石坂洋次郎の小説にとって、このユーモアの要素は、非常に大事。
だが、昨日も書いたことだが、島崎先生は、生徒が黒板に書いた文字の誤字を指摘している。
ここにある価値観は、やはり、
《漢字を知っている=知識がある=正しい判断能力がある》
という構図になる、と私は読む。これはこれで、ひとつの価値観ではあると思う。
以下、ここで私なりに思うことは……いま、我々が本当に問題にしなければならないのは、「漢字の読み書きが正確にできる」ことの無条件の価値観への反省である。むしろ考えるべきは、「日本語を書くときにどのように漢字をつかうべきか」、であると考える。そして、そのなかには、「かなづかい」や「おくりがな」の問題も、当然、ふくまれる。
また、石坂洋次郎自身が、書いている。「変すい」の仮名の部分「すい」について、会議では誰も問題にしなかった、と。このあたりは、小説家としての石坂洋次郎のうまさである。メタレベルの作者の目がある。「かなづかい」のあやまりを無視して、漢字の書き方が間違っていることだけをあげつらっている、登場人物たちを、さめた眼で見ている。ここでしめされた、石坂洋次郎のメタレベルの作者の目こそ、いま、必要なのであると、思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:『遠い「山びこ」』 ― 2008-07-06
2008/07/06 當山日出夫
漢字のことを考えながら、新しい研究書を読むよりも、何故か、古い本に手がいってしまう。
佐野眞一.『遠い「山びこ」-無着成恭と教え子たちの四十年-』(新潮文庫).新潮社.2005.(オリジナルは、1992.文藝春秋)
さらにさかのぼって、オリジナルの『山びこ学校』にも言及すべきであろうが、まずは、この本から。
この本に記載のある記述が、どうしても心に残っている。
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自分の名前を漢字で書けない子供が五人もいる。(p.22)
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無着成恭が、山元中学に赴任したのが、昭和23年。戦後まもなくの日本人のリテラシについては、いわゆるGHQ調査が、あまりにも有名である。このことについては、実際に調査に従事した金田一春彦先生から、授業中に、雑談として、様子をきいた経験がある。自分の名前だけは書けた、おばあさんの話しである。同じ話を教室で聞いた、私と同年配の日本語研究者は多いと思う。
昭和23年の、東北の貧しい山村の子供たちの、リテラシは、実際どうであったのだろうか。たしかに、『山びこ学校』は、すばらしい作文集である。だが、その結果だけを見るのではなく、それ以前の、子供たちのおかれた状態を知っておくべきである。
ここで、思うことは、これが、「旧字・旧仮名」で実現できたであろうか、ということ。無着成恭は、表音仮名遣い主義者であった。また、重要なことは、無着成恭は、社会科の教員であったこと。『山びこ学校』は、国語教育の産物ではない、ことである。
自分たちのおかれた生活の状況を、自分のことばで表現すること、このことと、戦後の国語改革、あるいは、民主化への様々な動きは、無縁ではない。流れとしては、戦前からの、生活綴方ともつながるかもしれない。しかし、戦後の「国語教育」のなかでは、おそらく『山びこ学校』は、成立しえなかったであろう。「社会科」という新しくできた科目があったからこそ実現できた。(ただ、それだけではなく、奇跡的な様々な要因があったことは、佐野眞一が指摘している。)
「漢字」や「仮名遣い」について論じるとき、学校教育において、「国語」という科目のなかだけで考えるのではなく、「社会」という科目(さらには、「理科」という科目)のなかで、観察し、考え、表現する、という発想からも、考えねばならないと、思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ARG』330号 ― 2008-07-07
2008/07/07 當山日出夫
ARGの330号について、すこし。
http://d.hatena.ne.jp/arg/20080707/1215362362
まず、学習院大学東洋文化研究所のサイト。中身の量的な面では、さほどではないと思う。しかし、その作り方は、非常に良い。特に、イベント情報など見ても、現代における東洋学の問題を、はばひろくあつかっている。できれば、これに関係して、各種の東洋学関係のリンク集が充実してくれると、のぞましい。
学習院大学東洋文化研究所
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/index.html
これに対照的なのは、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の韓国書データベース。リンクをたどって、ブラウザで見てみて、どうにも使いようがわからない。専門家が使えればよい、というだけならそれでもいいのであるが、もう少しどうになならないものかと思ってしまう。
国会図書館の近代デジタルライブラリでも、分類検索が可能になっているのだから、せめて、どのような種類の本が、どれぐらい入っているのか、ざっと全体像を見られるようにして欲しいと思う。
韓国書データベース
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/krbook/
ところで、(別に、学習院や早稲田の批判をする意図はない)、そのコンテンツを、ユーザがきちんと使えるかどうか、という視点への配慮が必要と思う。これは、どのサイトについても言えること。
第一に、最低限の教育・研究目的であれば、フェアユースの範囲を明確にしておいてほしい。手続きが必要な場合は、その、手続き方法まで記してあるのが望ましい。
次に、これと関連してであるが、インターネット上の学術情報の「書誌」の記載方法である。これは、ARG330号で、『オンライン情報の学術利用-文献探索入門』(西岡達裕)でも、言及してあること。
第3者が、インターネットで、同じデータを確実に見て確認できること、これを保証するのが、インターネットの学術利用の基本になければならないと考える。コンテンツの公開と、それについての書誌の記載、これは、ワンセットで考えるべきことである。
学術情報を、大学などの組織として発信・公開する以上は、その利用規程が、まず、明確に定まっていないといけない。
ブラウザで見だけなら自由。
HPに掲載等の画像を利用するのは、どうであるか。
同じものが、書籍の形で出版されている場合、典拠を明示したうえで、正当に「引用」することが可能であるはず。ネットで公開のものは、ダメ、では、コンテンツの利活用において整合性を欠く。
當山日出夫(とうやまひでお)
『古書通例』 ― 2008-07-08
2008/07/08 當山日出夫
東洋文庫(平凡社)の新刊。もはや、目録をつくったりというようなことはしないであろう。しかし、出ると、つい買ってしまう。
私が学んだのは「書誌学」。(阿部隆一による)。同じような学問でも、人と流儀によって名称がちがう。この本では、「目録学」。
個人的な思い出になる。慶應文学部での、図書館情報学科に設置の科目であったと記憶する。図書館情報学科だけ、キャンパスの中で、別のところにかたまってあったので、普段は行かない教室に行ったと覚えている。
「七略」「漢書芸文志」「隋書経籍志」からはじまって、「四庫分類」へとつづいていった。書籍の目録学は、すべての学問の基本であり、それは、読むものである……いまどきの、OPACの時代からみれば、まさに、時代錯誤のような考え方かもしれない。
しかしながら、書物のオンライン検索が可能になった、このような時代であるからこそ、学問の初志・初心、とでもいうべきものを、忘れたくはない。通読する時間の余裕はないかもしれないが、そばにおいておきたい本である。
とはいいながら、「劉向(りゅうきょう)」と、わざわざフリガナがふってあるのは、親切というべきか、余計なお節介というべきか。今の時代としては、やはり、フリガナが必要であろう、とは思うが。
『古書通例-中国文献学入門-』(東洋文庫).余嘉錫/古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹(訳).平凡社.2008
當山日出夫(とうやまひでお)
追記(2008/07/09)
誤変換を訂正
阿部隆一、隋書経籍志、でした。
国語研コーパスのモニター公開 ― 2008-07-09
2008/07/09 當山日出夫
言語学のMLで知ったので、私自身は、さっそく申込書を書いて、用意した。 明日の朝にでも、ポストに投函の予定。
国立国語研究所のコーパス、現時点でも、オンラインの試験公開版がある。そ れに加えて、著作権処理のすんだものについて、ディスクで配布し、研究目的 で試用してもらおうというもの。
国語研のサイトは、
http://www2.kokken.go.jp/kotonoha/
これが、現代の漢字研究にどのようにいかせるか。まあ、ためして見るほかな い。下手すると、これで、遊んでいるだけで夏休みが終わってしまう可能性が ある。今のところ、論文・研究発表の準備など、2~3ぐらい予定しているの だが。
ただ、漢字についていうと、私自身は、漢字制限論の立場にいる。漢字にたよ らない日本語、を考えたい。このことは、追って、『漢字の未来 新版』 (野村雅昭.三元社.2008)に即して、書いていくつもり。
それから、さしあたってしないといけないのが、ARGカフェの準備。名刺を 多めに持っていくつもり。人脈が財産である、これは、お互いにいえること。 書斎にこもった孤高の研究者であることには、もはや、後戻りできない。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ウェブは菩薩である』 ― 2008-07-10
2008/07/10 當山日出夫
ARGで紹介されていた本。学校での休憩時間をつかって、読み終わった。
ARGでの指摘のように、サブタイトル「メタデータが世界を変える」の方が、この本の内容を的確にあらわしている。メタデータによる、複合的な分類・検索、それから、ソーシャル・ブックマークの解説が、眼目であろう。
そのうえで、(つまり、読む価値があると判断したうえで)あえて、辛口に印象を述べると、
ひとつは、巻末の参考文献にあげてある、『「みんなの意見」は案外正しい』は、その条件に、つぎの4つのことを前提としている、「意見の多様性」「独立性」「分散性」「集約性」。このうちで、最も重要なのは、「独立性」だと思う。この「独立性」を保てる文化的風土が必要である。そうでなければ、「集合知」ではなく、「衆愚」になりかねない。
いいかえれば、人から批判されようが、自分の意見は意見として述べる。この「独立性」について、さらにつっこんだ議論が欲しい。
それから、日本でも、(あるいは、世界でも)、インターネットに接続可能な環境が、完全に整備されてはいない現状がある。すくなくとも、日本国内でも、人口過疎の山間僻地にまで、ブロードバンドをあまねく行き渡らせるには、膨大な投資がかかる。
このような過疎地域に住む人にとってこそ、インターネットは必要なのかもしれない。逆にいえば、無くても困らない都会ほど、濃密なネット基盤がある。このような現実をどう考えるか。
以上、あえて批判的なことを述べたが、ごく身近にありながら、その仕組みがいま一つよくわからない(私だけかもしれないが)、ソーシャル・ブックマークの将来性についての、考察は読むに値する。
深見嘉明.『ウェブは菩薩である-メタデータが世界を変える-』.NTT出版.2008
當山日出夫(とうやまひでお)
追記(2008/07/13)
この本について、もろさんも書いておいでなので、トラックバックを送信しておく。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080711/p1
まあ、ウェブについて、楽観的すぎる点も感じないではない。メタデータやオントロジーのついて語る、入門としては、学生にすすめてもいいかなと思う。
『へちま亭のあきない』 ― 2008-07-11
2008/07/11 當山日出夫
買うのだけは、出たときに買ってあった。短い文章(各1ページ)なので、ちょっとした暇があるときに、読み進めている。ちょっとづつしか読まないから、ようやく半分ほど。
そのなかで、次のことばが目にとまった、
サウンドバイト(SOUNDBITE)
日付を見ると、2005年の9月。
私もこのことばを知ったのは、2005年である。出典(?)は、『戦争広告代理店』(高木徹、講談社文庫)。今、インターネットでしらべると、この本の文庫本が、2005年の刊行。単行本の方は、2002年。(さきほど、家の中をさがしたが、見つからなかった。読んだのは文庫本の方である。どこかにあるはずだが、現時点では、行方不明。)
サウンドバイト……TVなどで、取材するとき、話し手の、ことばの単位。ひとこと、ふたこと、あるいは、数秒内で、的確に、言いたいことを言い切っているかどうか、という視点。これが短いほど、TVなどで、取材・編集がやりやすい。逆に言えば、TVなどで発言が放映されたとき、短い時間で、言うべきことが伝えられる。
この視点で、TV番組など見ると、なかなか面白いのだが……自分で、実行するとなると、むずかしい。講義などでは、つぎからつぎへと、余談に流れてしまうのが日常的。
だが、明日の、ARGカフェでは、このサウンドバイトを、極力短くしよう。パワーポイントの一つの画面では、一つのことだけを、伝えるようにしよう。そして、時間厳守(5分以内)でやろう。(と、思ってはいる。)
90分の講義のパワポは、30分ほどあれば十分につくれる。しかし、5分のパワポは、30分では無理。発想から考えると、5時間は、かかってしまった。
島戸一臣.『へちま亭のあきない』.朝日クリエ.2008
當山日出夫(とうやまひでお)
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