新常用漢字:『青い山脈』2008-07-05

2008/07/05 當山日出夫

やはり読みなおしておきたいと思って、あらためて新しく買って読んだ。いうまでもなく、石坂洋次郎の残した傑作のひとつである。(なお、石坂洋次郎は、慶應義塾大学文学部国文科の出身である。しかし、あまり、そのことを意識したことはない。折口信夫の以前と以降で、大きく国文科の歴史も変わっている。)

文庫本(新潮文庫)の解説によれば、昭和22年の6月から10月に、朝日新聞に連載されたもの。これは、日本語の言語政策史でいうと、当用漢字表は、発表されているが、まだ、字体表は発表されていない時期になる。

また、年表で確認すると、当時の政府は、片山内閣。

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いまの総理大臣は、明治維新の志士、英雄型とはちがって、キリスト様が好きで、料理屋や芸者衆は大嫌いのようだし、(以下略)p.238

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とあるのに付合する。

さて、なぜ、この作品を読み直してみたかといえば、これは、あまりにも有名すぎる。「変(恋)」「脳(悩)」の文字のまちがい。メインの登場人物である、寺沢新子あての恋文を、国語・漢文の教師が、原文通りに読み上げる場面。

当用漢字字体表以前であるから、字体としては、「變」「戀」であったはずである。

この場面をふくめて、全体を読み直してみると、リテラシ史のうえから、いろんな疑問点や課題が見えてくる。

第一に、読める漢字と、書ける漢字の関係。

第二に、漢字と仮名の関係。小説では、「変すい」(←恋しい)と書いてあることになっている。漢字の間違いは敏感であるが、仮名表記のまちがい(この場合は、方言の反映、「し」→「す」)は、無視している(このことは、作者=石坂、が小説中で、作者が顔を出して述べている。いわゆる、『草子地』である。)

第三に、この手紙の誤字の問題を、「学力低下」として、登場人物たちがとらえていること。

第四に、国語・漢文の教師の発言として、「汚らわしい熟語」(※この場合は漢字と言い換えてもよいが)を、なるべく教えない方針でいると発言していること。※今度の「(新)常用漢字」でいえば、「俺」が該当するであろう。

以上が、「変・恋」についての、有名な場面から思い浮かぶことである。その他、読んで気づいたのは、最初に、ラブレター事件が発覚して直後に、生徒が黒板に書いた、要求(島崎先生へ)。これに対する、島崎先生の返答である。

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島崎先生へ

一、私共ノ愛校ノ精神ヲ侮辱シタコトヲ取リ消シテ下サイ

二、生徒ノ風紀問題ハ生徒ノ自治ニ委セテ下サイ

三、母校ノ伝統ヲ尊重シテ下サイ

(中略)

(島崎先生)「だれが黒板にこれを書いたかしれませんが、これだけの短い文章の中に字の間違いが四つもあります。」

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そして、最後に、この作品の背景として、作者(石坂洋次郎)は、どのような読者を想定していたのか、がある。登場人物のひとり「ガンちゃん」は、読書家である。常に本を読んでいる人間。ヘルマン・ヘッセの小説集、スピノザ『哲学大系』、カント『判断力批判』、世阿弥『花伝書』、エッケルマン『ゲエテとの対話』、夏目漱石『三四郎』、などである。(p.149)

これらの書名を見れば、いわゆる旧制高校的な教養主義であることが、すぐにわかる。

また、最後の方の場面で、なんのことわりもなく『桜の園』が登場する。これは、読者が、チェーホフの『桜の園』を読んでいることを、前提に書いてある。たぶん、今の大学生レベルでは、読んでいない方が普通であろう。

以上のことがらを、眺めただけで、今の「(新)常用漢字表」についての、各種の論点が、すでに、出そろっていることに、気づく。いままで、われわれは、何をしてきたのであろうか。

『青い山脈』は、戦後民主主義の理想をうたいあげた小説である。すくなくとも、この作品には、未来の日本の社会と人々のあり方が、描かれている。ただ、その理想像のなかには、日本語によるコミュニケーションや記録といった問題は、ふくまれていない。しかしながら、日本語をつかう人々の未来をかんがえること、その原点を確認するに、再読の価値がある。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記(2008/07/06)

安岡さんがコメントして下さっているが、朝日新聞において「変」「恋」であったよし。すると、草稿は別にして、

朝日新聞社版の初出(昭和22年)

昭和22年の新潮社の初版本

文庫本の初版本(昭和27年)と現在の改版本(平成4年)

これらを、くらべなければならないことになる。宿題が増えてしまった。

まずは、安岡さんのご指摘に感謝。

コメント

_ 安岡孝一 ― 2008-07-06 11時08分22秒

>当用漢字字体表以前であるから、字体としては、「變」「戀」であったはずである。

いいえ。朝日新聞の昭和22年8月11日号をチェックしてもらえばわかることですが、初出の時点で「変」と「恋」です。翌12日号には「脳」と「悩」も出てきますが、これもいわゆる新字です。というのも、『当用漢字表』の時点で「変」「恋」「脳」「悩」は既に新字になっていたので、朝日新聞はそれにしたがっているのです。もちろん、石坂洋次郎の草稿がどうだったかは、さらに調べてみる必要がありますけど。

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