歴史の節目2008-07-12

2008/07/12 當山日出夫

さて、今日のARGカフェにこれから出かける。近鉄や新幹線の事故でもないかぎり、無事にまにあう(はず、である。)

たった一つのメールマガジンが始まって、10年。それを、どのような人が読んできたのか、今、どんな人が読んでいるのか……自分で体感するだけでも、今回の、ARGカフェの価値はある。

CH(じんもんこん)、デジタル・ヒューマニティーズ、人文情報学、今が大きな転換点であると、将来になって認識することになるかもしれない。個人レベルでの情報発信と交流(メールマガジンであり、ブログであり)が、多くの人々を動かすようになってきた。

これは、今から20~30年前、大型計算機や初期のパソコン時代では、考えられなかったこと。(理念のレベルでは、パソコン通信にその萌芽ともいうべきものはあったかもしれないが。)

これから、その歴史の節目の現場にたちあうことになる。

當山日出夫(とうやまひでお)

ARGカフェ:リアルの信頼性とネットコミュニティ2008-07-13

2008/07/13 當山日出夫

ARGカフェに行ってきた。

最初、岡本さんの話しがあって、ライトニングトーク。ここでは、私も話しをした。そして、全体的な質疑。

ARGカフェ(第1回)

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080712/1215795396

これまで、いろんな学会・研究会など(自分の専門である日本語学の学会や、コンピュータ関係の学会)に参加してきた。だが、これほど充実した内容のものははじめてである。たしかに、すばらしい研究発表や講演などには多く接してきた。しかし、その研究会や質疑をふくめて、全体の内容の凝縮されたあつみ、という点では、ARGカフェは、すばらしい。

この背景にあるのは、すでに、ARGというネット空間での信頼感が、参加者相互にあってのことと思う。肩書きなど関係ない。ただ、ARGの読者であり、当日、秋葉原まで行ってみようという気持ちを持っており、また、話しをしてみようという意志のある人……この一種の信頼感のようなものが、ARGカフェを成功させた最大の要因であろう。

懇親会でもいろいろと話しをした。学術的に専門性が高くなると、その分野の専門家は、リアルの世界で、既知のあいだがらである。すでに、学会や研究会で知っており、論文や本も読んでいる。それにささえられているからこそ、ネットでの発言(かなり専門的な)も、許容される。簡単に言えば、このようなことを理解できる人間は、この分野ではこれぐらいの人たち、という現実での評価のようなものがある。だからこそ、ある程度、研究のコアにふれるような話題でも語れる。(すくなくとも、私は、そう思っている。)

デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)といった場合、これからは、研究者個人での、相互の、コミュニケーションが重要な役割ははたす。ブログであり、メールマガジンであり、メーリングリスト、である。

オープンな、専門家同士の、双方向コミュニケーション、とでもいえばいいであろうか。いいかえれば、その専門家外の、第三者が、見ようと思えば見られる、である。

このようなリアルでの信頼感と、ネットでのコミュニティの形成、この両者を総合しないと、デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)の未来を、語ることはできないであろう……と、思いをあらたにした次第である。

岡本さん、どうもありがとうございました。今後ともよろしくおねがいします。

當山日出夫(とうやまひでお)

ARGカフェ:専門性とはいったい何だろう2008-07-14

2008/07/14 當山日出夫

さっそく、ARGのブログ版に、多くの人が感想を書いている。岡本さんも、指摘のとおり、

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インターネットにおける学術情報に対する評価の仕組み

だと思う。ここのところを変えないと、インターネットによる個人の学術情報発信(敢えて過激な言い方をすると)研究者の中でも「好事家」、或いは一般人の中でも「自称専門家」の枠を出るものにはならないのではないだろうか?

Traveling LIBRARIAN -旅する図書館屋

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080714/1215969390

http://d.hatena.ne.jp/yashimaru/20080713/p3

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である。

情報発信しない研究者もいる。それは、それでかまわないと思う。しかし、だからといって、情報発信している研究者が、単なる「好事家」と見られる時代は、終わりにしないといけない。いや、一部、そうなりつつあるとは思う。

ただ、それが、査読つき論文のような形式的な「業績評価」とは、また違ったかたちでの、役にたつかたたかないかの「評価」である、ということだと思う。

私の専門分野とは全然ちがうが、私の知る限り、日本において、昆虫の標本採集などは、完全にアマチュア(市民的専門家、アカデミズムに所属していない)の分野である。

私が発表の中で言及した、小形克宏さんは、フリーの立場でいる。しかし、そのブログ「もじのなまえ」は、おそらく、将来になってから、今の日本の漢字研究をするときの、最重要な資料になるにちがいない。

「自分しか書けないものを書く」、そして、その内容・質が、アカデミズムと市民的専門家の壁を超えていく原動力になるにちがいない。それこそが、真の意味での、「専門性」というものであると考える。

當山日出夫(とうやまひでお)

『インターネットは民主主義の敵か』2008-07-14

2008/07/14 當山日出夫

この本、出たときに買って、そのまま書棚のなかにおいてあった。最近、再び目にしたのは、先日のARGカフェでの、パワポの画面。ブログ「図書館情報学を学ぶ」で、とりあげられていた。

図書館情報学を学ぶ

http://d.hatena.ne.jp/kunimiya/20080712/p1

この本それ自体についての、紹介は、上記のブログで適切になされている。私は、これまで、「みんなこの本を読んだうえで、インターネットについて論じているにちがいない」と、勝手に思い込んでいた。だが、そうでもないらしい、ということを、この頃、感じるようになった。

さきにとりあげた、『ウェブは菩薩である』についても、評価は、わかれるかもしれない。

『インターネットは民主主義の敵か』を、読んでいることを、前提にして、そのうえで、やはり、インターネットでの情報検索(メタデータやソーシャルブックマーク)、パーソナライズについて、その利点と将来を論じる。

いや、そうではなく、『インターネット……』を知らなくて、インターネットについて、論じているだけ。

さあ、みなさん、いったいどっちなんでしょうか。

さらにこの問題は、『「みんなの意見」は案外正しい』で提示の条件のうち、「独立性」を、どう考えるかにも波及する。

それから、最近、あまり話題にならなくなった本であるが、

『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書).森健.光文社.2006

も重要である。インターネットのなかで、自由に、自分の好きな情報を検索しているようでいながら、実は、「見えざる神の手」であやつられているだけのかもしれない……このような、自戒を、常に自らのうちに持っておくべきであろう。

これから、インターネットやコンピュータについて批判的な立場から書かれた本についても、順次、書いていきたい。(この類は、本屋さんで見付けると、なるべく買うようにしているので。)

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:俺2008-07-16

2008/07/16 當山日出夫

小形さんの「もじのなまえ」の最新号で、直近の、漢字小委員会の様子がだいたいわかる。

もじのなまえ

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080715/p1

今度の(新)常用漢字表で、もっとも問題になっている(?)、「俺」について、笹原さん(早稲田)から、正しく書けない学生がいるので教えるべきだ、の趣旨の発言があったよし。

別に「俺」が手書きで書けなくても、人間、生きていくうえで支障はないだろう。しかし、ことばとしての「おれ/オレ/俺」は、必要である。(本人が使わない=理解語彙であるか、使う=使用語彙であるか、は別にして。)

ところで、「俺」という字が書けない学生は、何をどう間違えているのだろう。日常的に接する文字では、似た字体の漢字としては、「庵」が思い浮かぶ(蕎麦屋の名称などでよく目にする。)

以前、京都の学生を対象に、「祇園」をどう書くかを、質問票で試したことがある。そのときのメインの課題は、「しめすへん」を「ネ」で書くか「示」で書くかであった。しかし、実際に回収して見てみると、旁の方を「氏」ではなく、「斤」に書いている学生が、少なからずいた。

たぶん、祇園=八坂神社=いのる=祈、というような連想の結果かもしれない。

だが、京都に住んだり通ったしていれば、「祇園」は、きわめて接触頻度の高い文字である。ちょうど、今日(16日)が宵山、明日(17日)が山鉾巡行、である。別に祇園祭のシーズンに限らず、日常的な京都市バスの行き先表示などで、多く使用されている。

接触頻度が高いからといって、正しく書けるとは限らない、このような事例になるであろう。

そもそも、(新)常用漢字表の適用の範囲が、公文書限定であれば、「俺」はいらない(であろう)。しかし、新聞などの表記にまで影響があるとするならば、必要になる。少なくとも、最近の世相からは、そう感じざるをえない。

「俺」が必要かどうかは、(新)常用漢字表の適用範囲と、ワンセットで考えなければならない。

そして、考えなければならないのは、通常の人間の記憶の範囲で、「書ける」漢字は、そう多くない。常用漢字をきめても、それ以外の漢字を記憶しなければならないとなると、記憶の容量の点から、常用漢字から排除してしまう字がでてくる。このあたりのことは、次に。

それよりも、ワークショップのパワポの準備をしないと。

また、ARGカフェの感想も書きたいが、後ほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:俺ではなく箸が問題2008-07-16

2008/07/16 當山日出夫

小熊さん、コメントありがとうございます。実際の生活で、「俺」を手書きで書く必要性というのは、どんな場面だろう……とは、思ってしまいます。まさか、ラブレターということはないでしょうが。

しかし、問題は、「俺」が入ったことではなく、「箸」が生き残ったこと。この字については、5月の日本語学会のシンポジウムで、安岡さんが、事例に出した字。

これを、実装フォントのレベルで解決するなら、さほど、問題は、おこらない。しかし、文字の規格に影響するとなると(JIS規格票の改訂)、世界の中での日本語の漢字を、どうかんがえているんだろう、委員会の人たちは、と思ってしまう。

シンポジウムの会場、いや、壇上にいたはずなのですが、何を聞いて理解したのか。

ともあれ、今週末、7月19日(土)、花園大学にて、1時30より、

ワークショップ:「文字-(新)常用漢字を問う-」

http://kura.hanazono.ac.jp/kanji/20080719.html

を、開催。すでに、安岡さんからは、きわめて大部な発表資料を送信してもらってある。(7メガもあるPDF)。この資料をもらいに来るだけでも、このワークショップの価値がある。タダです。(いや、他のみなさんの発表にも期待しています。)

それから、やはり興味深いのは、朝日新聞が、ネット版で、コード化して掲載したこと。5月の素案レベルのときは、画像データだった。字体はこれから決めるということで、強いて、画像にする必要性がないと判断したのだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:箸は簡易慣用字体になるのか2008-07-17

2008/07/17 當山日出夫

小形さんのおっしゃるとおり、「箸」が、現行の印刷標準字体のままで入るなら、問題は、さほどおこりません。

第一に、(新)常用漢字の内部での、字体(部分字体)の整合性をどうするか。

第二に、ユニコードへの対応をどうするか。

これらは、矛盾する場合があります。このとき、未来の日本語の漢字のありかたとして、ユニコードへの対応を優先する判断が、できるかどうか。これは、漢字小委員会のみならず、法務省の人名漢字をふくめてですが……このとことの自覚がはっきりあるかどうか。

このあたり、安岡さんにたっぷり話してもらって、それは、近いうちに本にしたいと考えています(出版社とは、話しは済んでいますので。)委員会で、笹原さんたちが論を述べるための資料、あるいは、(新)常用漢字について、みんなが考える材料を、こんどのWSで提供できたら、と考えています。

(新)常用漢字表のための、簡易慣用字体、というものを設定することになるのか、それとも、印刷標準字体のままで、いれるのか。論点は、このあたりでしょうね。

當山日出夫(とうやまひでお)

グーグルで1位だがどうしよう2008-07-17

2008/07/17 當山日出夫

今の時点で、グーグルで検索「新常用漢字」では、19日のWSが、第1位にヒットする。これまでは、1ページ目のなかほどだったように思うが。

http://kura.hanazono.ac.jp/kanji/20080719.html

さあ、どうしよう……という、ところ。ただ、関心があるだけなのか、ついでだから、(しかも、タダだし)、行って見ようという人が増えるのか。

今日、京都は、祇園祭り(山鉾巡行)。新聞(朝日)は、「示氏」で書いている。小形さんのコメントにもあるように、簡易慣用字体、を認定したとしても、実際には、表側に出ている字体の方に、強制力があるとしか思えない。

「しめすへん」は、許容3部首であり、「ネ」「示」どちらを書こうとかまわないはずなのだが、実際には、二者択一的な判断をしてしまう。そして、実際の手書き文字では、「ネ」で書く方が自然なのだが、印刷字体となると、別の価値判断になる。

ともあれ、私の話(ほんの導入だけ)のパワポと、CH79研究会(金沢文庫)のパワポと、今日ぐらいから作らないといけない。先ほど、最後のデジタルアーカイブの授業から帰った。まずは、紅茶を一杯のんで、というところ。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:簡易慣用字体2008-07-18

2008/07/18 當山日出夫

このあたり事情は、明日のWSで、安岡さん、それから、小形さんの、発表によって、詳しく説明があるはずである。

http://kura.hanazono.ac.jp/kanji/20080719.html

安岡孝一 (新)常用漢字と人名用漢字と文字コード

小形克宏 (新)常用漢字は本当に必要か

とにかく、ややこしいのは、

・常用漢字(新字体がふくまれる)

・印刷標準字体(常用漢字外の漢字、約1000字について、基本的には康煕字典体=いわゆる旧字体で印刷、というもの。)

・JIS漢字(XPの「0208」までの第1・2水準、Vistaの「0213:04」では、第3・4水準までふくむ。)「0213」は「04」の改訂で、印刷標準字体に対応することになった。

・ユニコード(漢字については、主に、CJKの統合漢字と互換漢字の関係)

・人名漢字(これは、法務省の管轄)

これらの整合性をどうとるか、ということ。ディスプレイで見える字、活字(?)による印刷の字、これらと、手書きの字は、違うのである、という認識が、現代日本社会一般にひろがっていれば、あまり、問題はない。しかし、そうなっていない、いいかえると、杓子定規に、漢字の一点一画まで同じでないと気がすまない、という風潮になっていること。これが、社会の側の最大の問題。

そのうえで、さらにややこしいのは、「印刷標準字体」において、「許容3部首」(しょくへん・しめすへん・しんにゅう)が、設定されていること。また、「簡易慣用字体」が設定されていること。

祇園の「祇」の字(XPとVISTAで見え方が違うが)、「ネ氏」であっても、「示氏」であっても、どちらでもいいですよ、ということ。また、「鴎」についても、「区鳥」でも「區鳥」でも、どっちでもかまいません、ということ。

なお、他のブログなどを見ると、「常用漢字」は公文書用という発想がかなりひろまっているようである。確かに、公文書は、常用漢字と現代仮名遣いで書く。だが、実際の、行政文書は、常用漢字だけでは、機能しない。

逆に、(新)常用漢字になることによって、余計に混乱する字もある。「葛」である。東京都葛飾区と、奈良県葛城市は、絶対に妥協できない。

このあたりのことは、たぶん、

高田智和 常用漢字と「行政用文字」

で、話してもらえると思っている。

いよいよ、明日である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』2008-07-18

2008/07/18 當山日出夫

この前、ARGカフェで東京に行くとき、京都駅で買ってしまった本。他にバッグの中には、本は用意してあるのだが、ちょっとした時間があると、つい本屋さんに、たちよってしまう。

たまたま目について、手にとったのが、タイトルの本。

この本は、一般の文章術・文章読本・作文技術の本ではない。広告コピーの書き方の指南書とでもいうべきものである。その「はじめに」にまず、こうある。

『文章は書くものではない 読んでもらうものである』

そして、第四部「発想の方法」には、こうある。

『人と同じことを思い 人と違うことを考えよ』

東京駅につくまでの間、読みながら、時折、ページを閉じて、考え込むことしばしであった。この本に書いてあることは、論文やレポートのみならず、パワーポイントでのプレゼンテーションにも、あてはまる。学会発表でも、まず、このような発想が根底に必要ではないのか。いままで、自分は、何をしてきたのだろう……いろいろと、考えてしまった。

たとえば、次のような指摘、

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いい文章ほど書くのは簡単ではありません。難儀なことに、書くこと以上に難しいことがありまして、それは読んでもらうことです。(p.15)

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学会発表などでは、この発表が理解できないやつはバカである、というスタンスをとることも可能である。しかし、もう、そういう時代ではないだろう。より多くの人に、自分の研究内容を分かってもらう(=読んでもらう)、こういう視点にたたなければならない、と痛切に思う。

だからといって、急に、自分のスタイルが変わるわけではない。だが、可能な限り、「読んでもらう」「聞いてもらう」という方向に、自ら変わっていければと、思う。(さて、明日は、どうなるだろう。)

鈴木康之.『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』(日経ビジネス人文庫).日本経済新聞.2008

當山日出夫(とうやまひでお)