『素晴らしき日本語の世界』2008-09-16

2008/09/16 當山日出夫

このての本がでれば、とりあえず買っておく、ということにしているので、買った本。

ざっと一読しての印象は、あいかわらずだなあ、ということ。さしずめ、文藝春秋版『文章読本』、とでも言っておけばいいか。と、シニカルな立場でばかりで見るわけにもいかないと思うので、感想をすこし。

「日本語」といいながら、扱われているのは、おおむね、文章として残っている日本語。表記された日本語、である。ここで、あえて、批判的に述べれば、書かれなかった日本語、音声言語としての日本語、これはどう考えればよいのか。あるいは、この種の「日本語」関係の本の企画において、書かれた日本語の文章がメインの対象になってしまうのか。これは、単なる、暗黙の了解と言ってしまえばそれまでだが、この感覚には、根深いものがあると感ずる。

日本語=書く

すぐれた日本語の文章の書き手=すぐれた人物

という図式が、暗黙のうちに形成されてしまっていると思うのは、単なる杞憂であろうか。日本語の歴史をたどるならば、書かれた日本語、というのは、話された日本語(書かれなかった日本語)に比べれば、ほんのわずかでしかない。

私の立場としては、日本語は、名文・文豪のためにあるのではない。日本語を母語としている(あるいは、第二言語としている)、大多数の人の、その生活のためにある。

また、日本語を書く、ということも、旧来の活字にする、という概念から離れていない。ネットでの日本語については、批判的な編集方針のようである。

この程度の本に、ここまで言うことはない、と反論されるかもしれない。しかし、「日本語=書く=書物」という図式が定着したなかで、「表記」や「漢字」の問題をあつかうと、どうなるか。ここのところに、いささかの問題を感じずにはいられない。

『素晴らしき日本語の世界』.文藝春秋SPECIAL.季刊秋号.文藝春秋.2008

當山日出夫(とうやまひでお)