読まないで書写する ― 2008-09-18
2008/09/18 當山日出夫
もろさんのブログで、聖書の写本のことに言及してある。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080913/p1
『捏造された聖書』の p.54 からの引用として、
「文盲」(ママ)の人間が、書記として、その内容が読めないでも、写本にたずさわっている旨が、記されている。(この箇所は、自分の持っている本でも、確認した。)
つまり、字は読めなくても、少なくとも、その内容を理解していないでも、写本は出来るのである。文字さえ書ければ。
いま、こんどの学会の発表準備の最終段階のチェックをしているところである。文字の研究ということで、書かれている、その字だけを見て考えてしまう。しかし、文章として読んでみると、内容を理解しないで、ただ機械的に書写しただけ、ということが、実感できる箇所が、いくつかある。(無論、対象としているのは、聖書ではなく、東洋の古典漢文であるが。)
かつて、このような時代があって、写本が伝わってきた。意図的な改変などとは別に、書写するとはどういうことであるか、あらためて考える。
本を読まなくても書写できる時代から、いまや、「コピペ」の時代である。ここで問題なのは、「コピペ」だから信用できない/できる、ということよりも、「書写」「コピペ」による、知識の伝達・保存ということの意味かもしれない。
このあたりのことは、寧ろ、逆に、「アーカイブ」の方向から考えてみた方がいいかもしれない。余計な解釈はいらんから、忠実に、「コピペ」して写して残せ……かなり乱暴な言い方をしてしまったが、このような発想もあり、だと思う。
ところで、「アーカイブ」(あるいは、アーカイブズ)が、近代の産物であるとするならば、そこにある種の、暴力性を感じる。このことを、逆の面から見れば、「未来への責任」という表現になる。しかし、記録を残さない自由、というのも、片方で、考えてみてはいいのではないだろうか。
手元にある本。
『学問の暴力-アイヌ墓地はなぜあばかれたか-』.植木哲也.春風社.2008
感想は、後ほど(場合によると、学会が終わってから、かも。)
當山日出夫(とうやまひでお)
文学は書かれたものだけですか ― 2008-09-19
2008/09/19 當山日出夫
昨日のつづきを、すこしだけ。
日本語史(国語史)の授業で、学生に、こういうと、だいたいみんな唖然としたような、わけのわからないような様子でいる。
キリスト教で、「聖書」という本があるが、これは、誰が書いたんでしょうか。イエス・キリストが、自ら、書いたのでしょうか。
仏教にはたくさんの教典がありますが、それは、仏陀(釈尊)が、書いたものでしょうか。
「論語」という本がありますが、これは、孔子が書いたものではありませんね。
……などと言うと、わけのわからないことを言われたような表情になる。
学生(日本文学科・国文科)の頭では、「文学作品」=「文字で書いて書物になったもの」、という意識の枠組みが、強固にある。書かれない文学というものを、想像してごらん、というのだが、難しいようである。
しかし、少なくとも日本語の歴史を考える範囲でも、書かれない日本語があった、ということは確かな事実。そして、『古事記』も『万葉集』も、日本語が書かれない時代に、それ自身が成立している。日本語が書けるようになってから、書いて本にできた。
これ以上ふみこむと、専門的な議論になってしまうので、ここでやめておく。
ところで、学会発表のレジュメ。まるで論文のように書く場合もある(特に、大学院生の発表)。あるいは、パワポのプリントアウトだけで、済ませてしまう人もいる。
これも、考えてみれば、口頭発表という音声言語中心のコミュニケーションに、どのように、書いたものがかかわるのか、という身近な事例かもしれない。
當山日出夫(とうやまひでお)
文学は書かれたものだけですか(2) ― 2008-09-20
2008/09/20 當山日出夫
通常、文学、あるいは、文学の研究、というと、「作品」として「書物」になったものだけを、さしている場合が多い。これは、暗黙の了解、ということであろうが、しかし、時には、このようなことに、疑念をさしはさんで見る必要も感じる。
日本文学科・国文科の学生に、日本語史・国語史の授業で、4月、まず最初に、このような問いから始めることにしている。
日本文学とは何ですか。
書かれたものだけですか。その「ことば」は、日本語だけですか。「日本人」が書いたものだけですか。
稚拙な問いかけかもしれないが、毎年、繰り返して同じ話しをする。最近では、いわゆる「ケータイ小説」なるもの、あるいは、ブログ、(もう、ちょっと話題としては古いかもしれないが)、などがある。紙で書物となったものだけが、文学作品ですか、とも問いかけてみる。
問いかけながら、自分でもいろいろ考えるが、あまり進歩がないなあ、というのが正直なところではあるが。
當山日出夫(とうやまひでお)
プレゼンマウス ― 2008-09-21
2008/09/21 當山日出夫
ちょっとした小道具である。とっても便利なのが、プレゼンテーション用のリモコン。
私が使っているのは、コクヨの製品。マウス操作も、リモコンで可能ではあるが、これは、(まだ、慣れていないせいもあって)あまり使わない。もっぱら、パワーポイントの画面を、切り替える機能だけつかう。前後に進めたり、もどしたりが、簡単にできる。
本当をいえば、授業の時に、パソコンのキーボードを操作する、ただ、「ENTER」を押すだけの操作であるが、軽く腰をかがめなければならない。それが、だんだん、苦痛になってきた。(もう、歳かなあ、というのが、いつわらざるところ。)そのため、ちょっと高いかなと思ったが、思い切って購入。
しかし、実際に使ってみると、意外に便利。自分の体の位置が、パソコンやそのキーボードの位置によって、固定されるということがない。自由に、教室内、あるいは、スクリーンの前にたって、話しができる。
教室や、研究会の発表のとき、パソコンの位置、マイクの位置、スクリーンの位置と、微妙にアンバランスな場合がある。学会発表であれ、教室での授業であれ、それが、なにがしかの相手との相互的なコミュニケーションである以上、体の位置が自由である、というのは、かなりのメリットがある。
単四電池2コで作動する。いま、その、エネループ電池を充電中。明日から、後期。でも、まだ、頭のなかは、夏休み中。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ARG』341号 ― 2008-09-22
2008/09/22 當山日出夫
『ARG』の341号について、すこし。
紹介されている、新リソースとしては、やはり、
長崎大学附属図書館の近代化黎明期翻訳本全文画像データベース
http://gallery.lb.nagasaki-u.ac.jp/dawnb/
が、注目される。余計なことだが、この中を見ると、「聖書」があり、仮名が ほどこされている。これは、日本における「聖書」受容史、のみならず、文 字・語彙の史料として非常に貴重。この種のものが、手軽に、読めるようにな っていることは、とても喜ばしい。
それから、京都外大の「ベストセラーになった書物」。意図はわかるのだが、 ARGでも指摘してあるように、その書店かを明記しておいてほしい。書店で の売れた数というのは、その書店での、本の配置にかなり影響される。これが、 日販のデータであれば、話しが別なのであるが。
さらには、CiNiiと機関リポジトリの連携。
必要な情報が、それを必要としている人のもとに、確実にとどくこと、これが 基本の発想であると思う。この観点からは、おおきな前進であろう。
だが、学術書としっても、一方では、書店・出版社にとっては、「一冊つくっ て売っていくらの商品」である。
また、CiNiiがあれば、図書館で雑誌類を必要としない、となっても困る。
さらには、学会・研究会にとっては、論文集の売り上げが、収入の重要な部分 をしめる場合がある。
これら、全体を、どのように、総合手にうまく運用していくかが、これからの、 最大の課題の一つかと思う。
渋沢財団の「企業史料ディレクトリ」、一般に「アーカイブ」というと、公的 なもの、学術的価値のあるもの、という判断にかたむきがちであるが、ビジネ ス・アーカイブ、もまた重要。この先端をいく活動として期待したい。
まだ、他にもコメントしたいことがあるが、とりあえず。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字の改訂案の改訂安 ― 2008-09-22
2008/09/22 當山日出夫
日本語史の授業が終わって帰ってインターネットをみたら、朝日新聞の asahi.com では、またまた、常用漢字の改訂案の、さらに改訂案がでたとこと。このさき、いったいどうなるんだろう。
追加候補は、刹 椎 賭 遡 の4字。
また、削除候補に、蒙 の1字。
しかし、なぜ、この字なのか、よくわからん、というのが感想。そのうち議事録が、見られるだろうが……「俺」がよければ「賭」もかまわない、ということかな。
新聞に載るとすると、明日の朝刊。早起きして、保存しないといけない。
當山日出夫(とうやまひでお)
上村さんのコメントを読んで ― 2008-09-23
2008/09/23 當山日出夫
かなり以前に書いた『かなづかい入門』に言及した記事について、上村知己さんから、コメントをいただいているので、思うところを、いささか。
2008年7月2日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/07/02/3606319/tb
現代日本語は、すでに、現代仮名遣い・当用漢字を、経たのちのものとして存在している。かなり厳しい、漢字制限であり、仮名遣いの強制であったとも、いえようか。
ところで、この時代(というよりも、個人的には、私が、初等教育の段階の時期である)は、日本語の標準化が、強く進行した時期でもある。簡単に言うならば、「方言を使わないで、標準語をつかいなさい」。
このような一時期を経験したうえで、当用漢字が常用漢字になり、また、標準語という名称から、共通語という名称の方が一般的になっていった。(この現象を、「国語」でとらえるか、「日本語」でとらえるか、これも、きわめて微妙であるが。)そして、今の日本語がある。
日本語の表記の歴史(漢字・仮名)を考えるとき、考慮しなければならないのは、次の2点であると思っている。
第一に、実際に、残された文献資料では、どのように日本語は書かれているか。(なお、この背景には、書かれない日本語ということを、忘れてはいけない。)
第二に、各時代のリテラシは、いったいどのようであったのか。漢文が自在に書けるレベルから、仮名ならどうにか、あるいは、まったくの非識字まで、さまざまにある。その社会での位置づけ、人口比率など。
通常は、第一の方を中心に考えるのが、日本語研究における、表記の歴史研究の普通のありかた。しかし、私は、それ以上に、第二の論点が、今後は、研究されなければならないと思っている。
今の、そして、これからの日本語がめざすべきは、識字率100%、であり、また、日本語を母語としない人の日本語使用である。このときに、漢字の字体や字種についての制度的な枠組み(新常用漢字表・人名漢字など)、表記法が、課題になる。また、仮名遣いの問題もある。
みもふたもないことを言うようであるが、言語の表記というのは、基本的に、書きやすいように書いて、それが、読みやすければ、それでいいのである。その「書きやすさ」「読みやすさ」の背景にあるのは、その時代ににおける、言語(日本語)の音韻であり、語彙である。そして、表記に使用する文字(漢字・仮名)である。
だが、そこには、社会の表記についての「慣習」や、「規範」についての意識が、介在する。だから、ややこしくなる。さらにいえば、「正しさ」を求めること、それ自体が、文化のひとつの要素かもしれない。「正しさをもとめる文化」とでもいえばいいだろうか。
日本語を母語としない人をふくめて、識字率100%を達成するとなると、どのような、表記のシステムがふさわしいのか。と、同時に、それは、異なる表記法(例えば、現時点では、旧字旧仮名など)と、どのように日本語の社会で運用されていくのか、このあたりに今の私の視点がある。
この意味では、基本的に、野村雅昭さんの考え方に近い。と、いうより、ほぼ賛成といってもよい。ただ、一つだけ言えば、「識字率100%」ということと、「正書法の確立・普及」ということとは、別の次元のことだと思う。このあたりは、野村さんとは、考えを異にする。
とりあえず、思いつくままに書いてみた。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:椎名か脊椎か ― 2008-09-24
2008/09/24 當山日出夫
先日の、常用漢字の再改訂案。
私の場合、「椎」という文字だけを見たとき、「シイ」と読んでしまった。しかし、各種の報道関係のHPを見ると、「脊椎」など「ツイ」と読むことで、入れることになったらしい。
以下、邪推であるが、当初、「単漢字」レベルでの調査で候補漢字を選んだとするならば、「椎(シイ)」も「椎(ツイ)」も、区別できない。動植物名、固有名詞は、基本的に排除という方針であったとすると、「椎名」や「椎の木」などは、除外の対象になる。
しかし、コーパスを使っての調査であるなら、これは、明確に分離して、用例や頻度が分かったはずである。
「蒙」をはずす理由はわからない。「啓蒙」は、一般的なことばだと思う。「蒙古」も、ごく一般に使用する。これについては、少なくとも、「蒙古」と「モンゴル」との、現代日本語での使用例を、つぶさに検討する必要があろう。
今回の件、問題点としては、以下の二つがある。
最初の調査が、「単漢字」の使用頻度であったこと。それを、「コーパス」を使って、再調査すると、別の結果が得られるはずである、ということ。
また、前回の委員会で、決まったことを、さらにくつがえすことの問題点。これは、もう一回、調査をやりなおす必要性、また、なりゆきによっては、さらなる漢字の増減もあり得るという印象を、社会に与えてしまったこと。
パブリックコメントを前に、これは失策というべきであろう。委員会には、さらなる説明責任がある、と私は考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:朝日新聞とXPとVISTAと ― 2008-09-24
2008/09/24 當山日出夫
安岡さんのコメントのとおり、「遡」「賭」は、「しんにゅう」と「者」の部分字体について、整合性の問題がありますね。で、朝日新聞(印刷)を見ると、これは、規定の方針どおり、「しんにゅう」の「てん」は二つ。「賭」の「者」には、「てん」あり(これは、「箸」と同じ問題。)
で、今、私がこのメッセージを書いている、VISTAマシン(0213:04)では、上述のとおり。
しかし、古いXPマシン(0208)で見ると、「しんにゅう」は「てん」が一つ。「賭」の「者」には、「てん」なし。いまだに、社会全体では、XPマシンは、現役であり、かなり使用されている。
まず、議論のプラットフォームそれ自体が確立していない。だが、ま、まずは、字種を選んで、字体はその後ということであるから、いいのであろうが。この先どうなるのか心配。と、いうことで、「WS:文字」の第2回を、企画しないと。おそらく、今の予定では、来年の、パブリックコメントにぶつかる時期になりそうだが。
今後、どうなることか………
當山日出夫(とうやまひでお)
おみやげは漢字の辞書 ― 2008-09-25
2008/09/25 當山日出夫
子どもが、韓国に遊びに行ってきた。「遊びに」である、「勉学のため」ではない、ねんのため。それでも、ソウル大学に行ってきて、自分の通っている大学(京都市内の某国立大学)よりも、立派だったと感想を述べた。韓国の大学から日本の京都の大学に留学していた学生がいるので、一緒に遊びに行ったということ。
で、おみやげであるが、特に欲しいものは無かったのだが、「本屋さんに行って、普通に売っている漢字の辞書を買ってきてくれ」と、たのんでおいたら、買ってきてくれた。
学生の時に、「朝鮮語」(=授業の科目名)を、少し勉強していらい、「朝鮮語」(私は、言語の名称としては、朝鮮語ということにしている)から、とおざかっていた。
見るとなかなか面白い。字体・フォントデザインなど、観察すると、微妙に日本語の、普通の漢字と異なる。すくなくとも、全体をみわたして、ある漢字の字体(あるいは、グリフ、フォントデザイン)は、全体を総合した中にある、ということが実感できる。
これは、かなり以前に書いたことがあるのだが、(JIS漢字について)字体を議論しているつもりが、実は、明朝体のフォントデザインの違いをあげつらっていたにすぎない、という意味のことを述べたことがある。
(新)常用漢字表は、明朝体である……ということは、確認されていただろうか。時間ができたら、委員会の議事録の最初から、きちんと読みなおしてみたい。この基本の確認なしに、調査や選定の作業をしていたとすると、砂上の楼閣である。あるいは、現行の常用漢字における、手書き文字字体との関係を、暗黙の前提にしているのか。いずれにせよ、確認の必要はある。
「字体」は、「書体」の中に存在する。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記(2008/09/25)
最初に書いたのに、誤字・脱字があったので訂正。
それから、「字体」「書体」の考えは、石塚晴通先生の説にしたがっている。
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