『ウィキペディアで何が起こっているのか』2008-10-31

2008/10/31 當山日出夫

『ウィキペディアで何が起こっているのか-変わり始めるソーシャルメディア信仰-』.山本まさき・古田雄介.オーム社.2008

かなり重要な内容をふくむ本である。

論点は、いろいろある。その中で、私の立場から、ひとつとりあげるならば、「知の完結性」という論点である。

逆に言えば、「知」がかたちになったとき、それは、不完全な状態でしかありえない。私の専門は、日本語学(国語学)であるので、『日本国語大辞典』(小学館)は、初版・第2版、ともに手元にある。

初版が、第2版になったとき、ある意味では、日本語の辞書として、内容は充実したものになった。だが、それは、「完全」になったことを意味しない。小学館としては、次の「第3版」が刊行可能かどうか、心配な点もあるかもしれない。だが、もし、第3版を出版できたとしても、それも、「完全」ではあり得ない。

言葉の辞典だけではなく、歴史事典や図鑑類、百科事典の編纂は、どこかの時点で、「うちきる」しかない。たとえ、そこに、「まちがい」があったとしても、である。

活字の書物(辞典類のみならず、専門の書物でも)であれば、「本」という形にした時点で、「うちきり」になる。問題があれば、その「増補改訂版」を出すことになるが、一度、世の中に出てしまった、最初の「本」が、消えてなくなることはありえない。そして、ひょっとすると、最初の「本」の方が、正しいということが、無いではない。

「紙(書物)」の世界では、このようなことは、暗黙の前提である。しかし、メディアが、デジタルになったとたん、「ウィキペディアは信用できる/できない」の議論になってします。具体的には、学生に、ウィキペディアを使うことを禁じるとか。

だが、そうではなかろうと思う。デジタルになって、知的営為の「うちきり」とそのバージョンアップ作業のサイクルが、加速化したこと、そして、基本的には、最初には最新版しか見られない(過去の履歴はのこるが)、ということであろう。

そして、書物であれば、他の著者が別の本として、それぞれに刊行することができ、それなりの「異なる完結性」を持っているの対して、「同時に複数の」ということができない。ウィキペディア内部の一つの項目に限って言えば。

また、『ウィキペディアで何が起こっているのか』で指摘されている重要な点は、

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ウィキペディアのようなソーシャルメディアでは、たとえば精度の低い情報でも一度は公開しなければ、チェックすらできないのだ。(p.104)

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要するに、たとえ、100%まちがっていることでも、まず、誰かが書き込まないことには、スタートしない。

ひょっとすると、まったくの誤りであるのかもしれない。でも、この項目は必要であるとして、最初に項目をたてて書き込みをするのは、蛮勇なのか、単なる馬鹿なのか、あるいは、知的誠実さなのか、どう考えればいいのであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

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