『罪と罰』ソーニャの「黄の鑑札」 ― 2008-11-01
2008/11/01 當山日出夫
本を読んでいて、何が書いてあるかは重要。一方で、何が書いていないか、も 重要だと思う。
『罪と罰』(光文社)を読み始めて、おどろいたのは、居酒屋での、ラスコー リニコフとマルメラードフとの会話。この会話のなかで、はじめて、ソーニャ のことに言及される(登場するのは、もうすこし先)。
「黄(き)の鑑札」とだけあって、説明がない。p.36
ねんのためと思って、新潮文庫版の『罪と罰』が手元にあったので、同じ箇所 をみると、「黄色い鑑札」とあって、割り注で説明がある。p.24
光文社版(亀山訳)が、本文には注記をしない、という方針であるのは分かる。
さて、どっちがいいのか。読者の多数派、再読だろうと思う。以前、他の本で 読んでいて、もう一回、新しい訳で読んでみようというタイプ(私が、ちょう ど、それに該当する。)
「黄の鑑札」の意味するところは、読み進めれば、すぐに分かる。その他、注 をつけ始めるときりがない。あえて、何もつけないでおく、というのも、ある 種の方針ではある、と感じた次第。
しかしながら、このように「本」について書いてきて、思うこと。紙ではない 本は、いったいどうなるか(すでに、ケータイ小説もあるが)。情報処理学会 が、本格的に、論文誌などを、ペーパーレス化(つまり、オンラインの電子版 のみ)になる。この件については、追って考えてみたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ウィキペディア革命』 ― 2008-11-01
2008/11/01 當山日出夫
『ウィキペディアで革命-そこで何が起きているのか?-』.ピエール・アステリーヌ(他)/佐々木勤(訳).木村忠正(解説).岩波書店.2008
原著は、フランス語。本の内容そのものも大いに参考になるが、それと同時に、解説も読む価値がある。解説で、木村忠正は、そのタイトルを、
「ウィキペディアと日本社会-集合知、あるいは新自由主義の文化的考察-」
としている。読んで、私が、付箋をつけたの次の箇所。
>>>>>
学術的コミュニティにおいて、参照文献は、必要な場合には、その文献を第三者が参照し、引用者の記述内容の適否について議論することが前提とされてきた。
(中略)
しかしそれ(=ネット上の情報)は、言及するファイルの内容が固定されていることを前提にしている。
(中略)
つまり、学術論文は、ある時点で凍結され、化石化することにより、学術的情報源とし、引用、参照の対象となり、それをもとに、さらなる学術的議論が発展するのである。
pp.136-137
<<<<<
先にこのブログで触れた、『ウィキペディアで何が起こっているのか』(山本まさき・古田雄介.オーム社)、においても、逆の方向から、同様のことが指定されている。
端的に言えば、「知」の「完結性」と、「完全」なる「知」をもとめての「流動性・可変性」の、逆説的な関係である。
この点をふまえて、考えるならば、少なくとも、教育現場で、学生に、一律にウィキペディアの利用を禁じるのではなく、また、野放しに利用させるのでもなく、このようなネット社会における「知」のあり方そのものを、考えさせることが必要であると、考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:日本語の豊かさか貧しさか ― 2008-11-02
2008/11/02 當山日出夫
やや旧聞に属するが、10月22日の新聞報道(朝日新聞)の記事。
「におい」に、「臭」と「匂」の複数の漢字が使えるようになる。その他、「はる=張・貼」「おそれる=恐・畏」などである。
このことは、日本語と漢字との関係において、重要な論点であることは、周知のこと。
肯定論:ことばの微妙な意味の違いを、漢字の使い分けによって得られる。これは、日本語のすぐれた特徴である。日本語の表現を豊かにするものである。
否定論:音声言語にしてみれば、同じことばであるのは、違う漢字でかきわけるのは無意味である。これは、むしろ、日本語の貧しさである。どの漢字で書くかまよったら仮名で書けばよい。
このあたりの論点をさらに掘り下げるなら、「書記」「表記」という用語の定義についてまで、考えねばならない。「日本語の表記」「表記された日本語」というのは、あり得る。だが、「書記言語」としての日本語は、どうなのか、ということである。
もとにもどって、朝日新聞の報道では、これを「豊かさ」ととらえて報じている。こう考えるのは自由である。しかし、そうではない考え方もある、ということも報ずべきだろう。日本語は漢字たよりすぎていることへの反省とでもいうべき意見である。(この立場の代表が、野村雅昭さん。)
ところで、表記の豊かさという観点から見て、字体のバリエーション豊富さという現象は、どうなのだろうか。この観点から、みると、小形さんの「もじのなまえ」における、国会議員の氏名の字体、が面白い。
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20081027/p1
私の意見をいえば、字体を変えるのは自由。しかし、そのことが、ある意味をもって相手(字を読む人)につたわらなければ、なんの意味もない。その限界が、「吉」「高」などかもしれない。これ以上の微細な違いは、日本語の表記(漢字)の豊かさでも、貧しさでも、なんでもない。
ただ、危惧するのは、このような微細なデザイン差というレベルのことが、漢字の字体の議論のレベルなかに、まぎれこむことである。極端にいえば、字体を論じていながら、実は、MS明朝のデザインをあげつらっているにすぎない、ということになりかねない。このあたりの、議論の基盤は、大丈夫なのであろうか。
當山日出夫(とうやまひでお)
情報教室利用の良し悪し ― 2008-11-03
2008/11/03 當山日出夫
今年度の後期、「アカデミック・プレゼンテーション」ということで、パワーポイントの使い方の基本を教えている。また、次年度、他の大学であるが、「言語表現実習」ということで、インターネット言説空間での表現論(主に、ブログ)を、学生と一緒に考えようと、いう状況。
これまでの経験で、困るのが、教室がコンピュータ教室か、否か、の問題。
目の前にディスプレイがある状態、これは、とても見やすいのだが、普通、プレゼンテーションでは、こんなことはない。たいてい、スクリーンにプロジェクタで、映す。
新しいパワーポイント2007では、画面の背景に、微妙なグラディエーションがつけられる。しかし、私は、学生にこの機能は使うな、と言っている。それは、実際のプレゼンテーションの場では、場所の照明のあり方によって、スクリーンが均一に見えないことが多い。むしろ、単色でぬりつぶしておいた方が、照明による影響を、目で見て補正しやすいので、この方がいい。
しかし、実際の、パワーポイントの設定や操作を教えるとなると、コンピュータ教室でないと難しい。
それにしても、インターネット接続、パワーポイントなどの利用を前提に、教室の設備や設定を考えるか(使わない人がいても、それは自由)、あるいは、旧来方式で使わないのを前提にしてあって、使いたい人は、特別に、というのか、発想の基盤が違うと、こまってしまう。
インターネットで、あれこれと、プロジェクタの製品カタログをみていっているのだが、最新のものでは、黒板に投影できる機能のものもある。価格もそう高くはない。また、ごく普通の機種であれば、安いのは5万円ほどで売っている。
今の教育(大学をふくめて)が、対人コミュニケーション能力を重視、ということであるならば、それに合わせて、情報機器の整備も必要ではないかと思っている。ひたすら、用意してきたレジュメを読み上げるだけでは、(また、聞いているだけでは)、その訓練にならない。
當山日出夫(とうやまひでお)
ARG京都ミニオフ会 ― 2008-11-03
2008/11/03 當山日出夫
★このメッセージは、転載自由です。どこにでも、コピーして、流してください。
ARG(アカデミック・リソース・ガイド)の、京都でのミニオフ会を開催します。さきほど、岡本真さんと、確認しました。
==ARG京都ミニオフ会==
11月11日(火)
場所 THE HILL OF TARA
※京都市役所の、すぐ東側のところにあります。御池通りに面しています。
時間 7時すぎぐらいから
※特に厳格に開始時間は設定しないでおきます。みなさん、お仕事の都合もあるでしょうから、適宜、おいでください。
お店のURLです
京都ですので、そんなに大規模にはならないと思っています。気楽に、インターネットの学術利用について、話し合いましょう。
また、お店は、パブですから、飲んだ分は、自分で払います。不公平の無いように。ただ、料理だけは、あらかじめ注文してあります。一人1500円。
みなさん、ふるって御参加ください。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記
お店のなまえ、Of→OF に変更。どの表記法が、ただしいのかよくわかりませんが、とりあえず、大文字に統一。
追記(その2)
このオフ会については、ARGブログ版、あるいは、ARG347号を御覧下さい。御参加予定の方は、岡本さんまで、事前に御連絡いただけると幸いです。名前と人数を確認の必要がありますので。
デジタル化以前に考えなければならないこと ― 2008-11-03
2008/11/03 當山日出夫
明日(11月4日・火曜日)は、立命館大学GCOE(DH)の火曜セミナー。この会は、基本的に、公開・参加自由ということであるので、ここで言及してもいいだろう。
明日は特別講演。明星聖子さん(埼玉大学)
デジタル化以前に考えなければならないこと-人文科学は何に基づいて研究するのか-
もう、私の意見を言ってしまおう。「デジタル化以前に考えなければならないこと」これは、「デジタル化した後に、事後的に、立ち現れるものである」あるいは「事後的に創出するものである」
なんとなく、内田樹のような表現になってしまった。世の中にコンピュータが登場する以前には、このような問題自体が無かった。われわれは、このような問題を、コンピュータを使うことによって、作り出してしまったのである。
でも、こういう質問などはしないで、会場のすみっこで、ちいさくなって話しを聞いていることにしよう。と、前もって書いてしまうのも、変であるが。
當山日出夫(とうやまひでお)
新常用漢字:ケータイの文字 ― 2008-11-07
2008/11/07 當山日出夫
今、7月に開催した「ワークショップ:文字-新常用漢字を問う-」を、どうにか本にしようと、編集中。といっても、まだ、原稿が集まっているわけではない。
コスト削減を考えて、フォント埋め込みPDFの完全原稿、で入稿。校正はなし、の方針。
で、ここで問題になるのが、どのフォントを使って書くか、ということ。通常の、Windows環境であれば、MS明朝、であろう。12月に発表の、アート・ドキュメンテーション学会の研究会の、執筆要項では、MS明朝で、とあった。
しかし、ちょっとお金を出せば、ヒラギノが買える。ここは、価値観の問題である。フォントは、読めればいい、という割り切りもある。そして、特に、MS明朝が悪いフォントであるということもない(これに慣れてしまっているせいでもあろうが。)
このブログも、最近、表示設定を変えた。MSPゴシック、であったものを、メイリオに変更してみた。VISTAマシンを買えば、ついてくる。そして、個人的な感想であるば、メイリオは、字がちいさくなっても、読みやすい。特に、横書きにおいて。しかし、これを、XPマシンでみると、違う(MSPゴシック)。
デジタル環境においては、文字は、可変的である。紙の印刷とは違う、ということを、まず認識しておきたい。紙に印刷した文字は安定している。その発想は、デジタルでは通用しない。
情報機器に対応した文字、このとき、情報機器は、コンピュータでは、もはや、ない。すでにインターネット閲覧の主流は、ケータイの方に移行している。ケータイの小さい画面のなかで見える文字の字体(小さい文字)、これを考えなければいけなくなっている。
たとえば、もろさんのブログ。ケータイからでも書き込める(常識かもしれないが。)
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081101/p1
ケータイの文字については、これから考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
デジタルネイティヴな人文学は生まれるだろうか ― 2008-11-09
2008/11/09 當山日出夫
昨日は、漢字文献情報処理研究会の著作権の研究会だった。しかし、出かけるのひかえることにした。このところ、やや疲れ気味、かつ、風邪ぎみな状態なので、もし、ここでくたばったりしたら、後に、ドミノ倒し的に、影響がひろがる。ちょっと、休憩、ということにした。(関係者のみなさま、出席の連絡をしておきながら、急遽やすんでしまって、もうしあけありません。)
ところで、「はてな」のアカウントを持っている人には、MMでとどいているはず。
NHKスペシャル『デジタルネイティヴ』
http://www.nhk.or.jp/digitalnative/
デジタルをめぐっては、そのコンテンツについて、「BornDigital」(デジタル環境において発生した、モノとして実態が無い)の語が使用され始めている。また、一方で、デジタルデバイド、ということも言われている。
個人的につくづく感じることではあるが、今の若い世代(学生)は、デジタル環境の中で育ってきている。その悪い方向が、ウィキペディアを見て終わり、かもしれない。が、それはそれとして、認めざるをえない現実である。
問題は、いざ、大学生になった時、そのデジタル・リテラシを生かす方向で、今の大学教育が、構成されているか。まずは、学部教育のレベル。次に、そのうえにある大学院教育のレベル。
ここで変わらなければならないのは、大学教育の制度や、基本的な設備(デジタル対応、学内無線LANの整備とか)、そして、教員の意識の変革であろう。
まあ、さすがに、今の時代になって、「コンピュータに文学がわかるはずはないのであって……」などと、のたまうような人は減った(絶滅したと言い切る自信は無い)だろうが、少なくとも、デジタル化推進に積極的ではない、という人はまだまだ多いと感じる。
デジタルネイティヴで育った若い人たちが、デジタルネイティヴな人文学研究を構築していく、これは、時のながれの自然としてそうなっていくのか、あるいは、ほうっておいてはどうにもならないので、何か、起爆剤のようなことが必要なのか、必要であるとすれば、それはどのようなものなのか……出不精をしながら、考えた次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
ARG京都ミニオフ会のお知らせ(再び) ― 2008-11-10
2008/11/10 當山日出夫
先に掲載した(11月3日)のように、ARG(アカデミック・リソース・ガイド)の、京都ミニオフ会を開催します。いよいよ、明日です。
みなさん、ふるって御参加ください。できれば、事前に参加連絡が欲しいところですが、お仕事の都合で、決定できない方もおいでかと思います。当日の、飛び入り参加も歓迎です。行くか、行かないか、まよったら、行くことにしましょう。絶対に後悔はありません。
案内再掲載です。一部、改変。
==ARG京都ミニオフ会==
11月11日(火)
場所 THE HILL OF TARA
※京都市役所の、すぐ東側のところにあります。御池通りに面しています。
時間 7時すぎぐらいから
※特に厳格に開始時間は設定しないでおきます。みなさん、お仕事の都合もあるでしょうから、適宜、おいでください。
お店のURLです
京都ですので、そんなに大規模にはならないと思っています。気楽に、インターネットの学術利用について、話し合いましょう。
また、お店は、パブですから、飲んだ分は、自分で払います。不公平の無いように。ただ、料理だけは、あらかじめ注文してあります。一人1500円。
くわしくは、ARGのブログ版
http://d.hatena.ne.jp/arg/20081103/1225678777
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當山日出夫(とうやまひでお)
学術書出版とDTP(1) ― 2008-11-12
2008/11/12 當山日出夫
昨日は、ARGのオフ会(でもって、立命館のグローバルCOEの火曜セミナーは、さぼってしまった。資料だけはもらってきた。)
オフ会について、いろいろ感想がある。が、ここから論じたいのは、そろそろおひらきにしましょうか、というところで、話題になったこと。
結論的なことを言えば、学術書出版において、フォント埋め込みPDFの完全原稿での出版の是非、をめぐる問題。
今、学術書出版は、マイナスのスパイラルの中にある。本が高い。売れない。買わない。著者(研究者)もあきらめてしまう。出版社も、売れない本を出そうとしない。
では、どうすべきか。
その前に確認しておきたいことがある。それは、「学術書」の出版と、通常の出版(小説・実用書・雑誌、など)とは、同じかどうか、である。
一般的な理解としては、読者が、研究者であり、専門的な内容であるかどうか、ということである、と推測する。これも、確かにある。
だが、私の考えるに、「学術書」が、他の一般の書籍と異なる点は、著者(研究者)が、その内容に、責任を持たなければならない、という、一点である。
これも、たしかに、通常の出版物にもあてはまる。観光ガイドブックに掲載の地図が、まちかっていたら、これは、大問題である。だが、このような一般的な意味とは違って、「学術書」は、書籍にする時点で、一定の「知の完結性」をそなえてしまう。その「知の完結性」について、著者(研究者)は、究極の責任を負うことができる、唯一の存在である。
であるならば、学術書・論文などにおいて、著者(研究者)が、版下(組版)にまで、責任を負える状態であるとき、すすんで、それを引き受けるべきではないだろうか。さらに、それが「文字」についての論集であるならば、その責務は、より重大であると、私は考える。
その他、学術書や図書館、書籍の作成から流通までめぐる問題が多々ある。追って、考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
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