新常用漢字:日本語の豊かさか貧しさか2008-11-02

2008/11/02 當山日出夫

やや旧聞に属するが、10月22日の新聞報道(朝日新聞)の記事。

「におい」に、「臭」と「匂」の複数の漢字が使えるようになる。その他、「はる=張・貼」「おそれる=恐・畏」などである。

このことは、日本語と漢字との関係において、重要な論点であることは、周知のこと。

肯定論:ことばの微妙な意味の違いを、漢字の使い分けによって得られる。これは、日本語のすぐれた特徴である。日本語の表現を豊かにするものである。

否定論:音声言語にしてみれば、同じことばであるのは、違う漢字でかきわけるのは無意味である。これは、むしろ、日本語の貧しさである。どの漢字で書くかまよったら仮名で書けばよい。

このあたりの論点をさらに掘り下げるなら、「書記」「表記」という用語の定義についてまで、考えねばならない。「日本語の表記」「表記された日本語」というのは、あり得る。だが、「書記言語」としての日本語は、どうなのか、ということである。

もとにもどって、朝日新聞の報道では、これを「豊かさ」ととらえて報じている。こう考えるのは自由である。しかし、そうではない考え方もある、ということも報ずべきだろう。日本語は漢字たよりすぎていることへの反省とでもいうべき意見である。(この立場の代表が、野村雅昭さん。)

ところで、表記の豊かさという観点から見て、字体のバリエーション豊富さという現象は、どうなのだろうか。この観点から、みると、小形さんの「もじのなまえ」における、国会議員の氏名の字体、が面白い。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20081027/p1

私の意見をいえば、字体を変えるのは自由。しかし、そのことが、ある意味をもって相手(字を読む人)につたわらなければ、なんの意味もない。その限界が、「吉」「高」などかもしれない。これ以上の微細な違いは、日本語の表記(漢字)の豊かさでも、貧しさでも、なんでもない。

ただ、危惧するのは、このような微細なデザイン差というレベルのことが、漢字の字体の議論のレベルなかに、まぎれこむことである。極端にいえば、字体を論じていながら、実は、MS明朝のデザインをあげつらっているにすぎない、ということになりかねない。このあたりの、議論の基盤は、大丈夫なのであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)