メイリオをつかうと「かな」が増える2009-02-15

2009/02/15 當山日出夫

「絵文字」というものが、日本独自の「ケータイ文化」によるものなのか、どうか、いや、そもそも、何故、日本のケータイは、絵文字を搭載しているのか、というあたりが、謎、である。

ディスプレイを、紙に、なぞらえる。その字面・版面が、きれいに文字だけによって構成されているのを美しいと感じるのか、あるいは、まっしろな紙のうえに自由に文字や絵が描かれている状態を、美しいと感じるのか。そして、その背後には、日本の書芸術がある、といってもよいかもしれない。

ところで、最近、自ら感じることなのであるが、「メイリオ」を使って文章を書くようになって、ひらがな表記がふえたな、となんとなく感じる。MS明朝・ゴシックであれば、もうすこし漢字が多くなる。(これは、あくまでも、個人的な感覚。)

文字のデザインが、表記やテキストと関係する。これは、手書き文字においても、いえるだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『「分かりやすい教え方」の技術』2009-02-15

2009/02/15 當山日出夫

藤沢晃治.『「分かりやすい教え方」の技術』(講談社ブルーバックス).講談社.2008

同じ著者(藤沢晃治)の「説明」「表現」「文章」に続く、第4番目の「わかりやすい」シリーズ。

確かによく書けているし、非常に有益な本ではあるのだが・・・この本の内容が適用可能なのは、かなり限られた場面だろう。それをみきわめて読まないと、かえってあぶないかもしれない。

あることがらを学ぶことが「利益」につながる、このことが、「生徒」も「先生」の双方に共有できている場合には、きわめて参考になる。実際には、高等教育(=大学)以上、あるいは、企業内での研修などでの場面。このように限定的に読むと、とても有益な点がある。

だが、以下の点は、実際にはむずかしい。
・「叱っても怒るな」p.72
・「生徒の文化を尊重せよ」p.74
これは、矛盾する場合がある。まず、叱ってみないことには(あるいは、怒ってみないことには)、相手の生徒が、どう反応するのか、生徒の文化が理解できない。

「実験」とは言わないまでも、「試行錯誤」の幅がおおきくゆれることは、教育の現場では、あまり歓迎されない。意図的にそれを、おこなったときのデメリットを、ひとはおそれる。

ところで、この著者、教えるべきものは「学力」であり、それは、なんらかのかたちで、評価可能であるとの価値観を持っているらしい。このようなことを思うのは、『学力とは何か』(諏訪哲二)を、読んだせい。この本については、後ほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記
本のタイトルを、「わかりやすい」と書いていたのを「分かりやすい」に訂正。メイリオを使うと、ひらがながふえる・・・・・・

『学力とは何か』2009-02-15

2009/02/15 當山日出夫

諏訪哲二.『学力とは何か』(新書y).洋泉社.2008

学力問題については、ここでは触れないでおく。『中央公論』の「大学の絶望」と関連するので、いずれ、「明窓浄机」の方に書く。

ここで言及したいのは、「デジタルネイティブ」との関連。

この『学力とは何か』は、直接、デジタルについて述べた本ではない。しかし、現在の日本の社会とか文化とかを、「教育」をきりくちにして考えるには、いろいろなヒントがある。

ただ、まあ、こと「教育」や「文字」のことになると、何故、みんな、熱くなって語るのであろうか・・・(私だけか・・・)

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社会というものは、それぞれの国や地域の宗教であり、生活様式であり、地域の生活であり、家族のありようであり、教育(学校)の形態であり、人間の生き方である。このようなものが経済のグローバル化にともなって、グローバル化(西欧的なものに画一化)されるはずはないのだ。つまり、経済のグローバル化と社会や人々のローカル性の対立はずっと続くのである。(p.116)

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言説としては、さほど目新しいものではない。しかし、だからといって、陳腐であると切り捨てることはできない。

いま、「デジタルネイティブ」で検索をかけると、膨大なヒット数がある。その主立ったところ(まあ、Googleで3ページ目ぐらいまで)を、ざっと眺めてみると、どうも、主な論調は、グローバルな世代論で見ているように思える。それも、かなり肯定的にである。

ところで、著者(諏訪哲二)によれば、学校は「生活」の場である。その生活の場に、デジタルのクラウドがおしよせたらどうなるのか。

今、小学校で、ケータイ禁止の動きが始まっている。もし、携帯電話が、音声通話だけの機能であるならば、強いて禁止する程のこともなかろう。言うまでもなく、携帯電話は、ケータイとして、インターネットの情報端末である。直接には、いわゆるネットいじめのような問題がある、といえよう。だが、学校(小学校)でケータイを禁止する動きがあるのは、学校が、児童にとって「生活」の場であること、教師が、自覚的にか無意識のうちにか、判断してのことである、と考えざるをえない。

「生活」としての学校を基盤として「学力」へとつづく。

小学校というのは、子供にとって、きわめてローカルな生活の場である。この視点から見たとき、グローバルなデジタルネイティブは、手放しで受け入れられるものではない。

もし、グローバルにデジタルネイティブを語るのであるならば、ローカルな生活がそのなかから立ち現れてくるように語らなければならない。現在、私としては、このように思う。

當山日出夫(とうやまひでお)