ARGカフェ(01)Wikipedia ― 2009-02-22
2009/02/22 當山日出夫
さきほど、ようやく、昨日もらった名刺に「ARG090221」とメモを書き込んだところ。(こうしておかないと、いつ、どこで、もらった名刺で、どんな人だかわからなくなってしまう。)
とりあえずは、私が話したこと、また、話そうと思ったことを確認しておきたい。
タイトルは、
當山日出夫(立命館大学GCOE(DH-JAC))
「学生にWikipediaを教える-知の流動性と安定性」
1.立命館大学(文)での情報処理入門 内容は、基本的な文書作技能に限定。ただ、最後の課題レポート(内容よりも、形式的に整ったドキュメント作成ができるようになっているかどうかの確認のため)、このレポートは、コンピュータやインターネットに対して、批判的な視点からのものにしている。
2.2008年度は、昨年、話題になった、Wikipediaの書き換え問題。特に、「陵墓」の項目について、宮内庁からの書き込み。では、これを、テーマにしよう。
3.レポートの要件としては、書き込み内容の是非は判断しない(してはいけない。)Wikipediaにおける「知」の安定性・流動性、について考えよう。これは、そこに書いてあることが正しい(間違っているか)とは、別の次元のことがら。さあ、ここから先は、みんなで考えましょう・・・
だいたいここまでが、話した内容。つづけて考えるならば、
4.この「陵墓」の項目、レポート課題のプリントをくばったときには、ひとつの項目としてあった。だが、その後、「天皇陵」に移行されている。つまり、「陵墓」の項目が消えたことになる。あるひとつの「知」を、ひとつの「項目」として認定して独立させるかどうかは、「知」の体系の問題である。それが、いとも簡単に移動したり、名称が変わったりすることの、意味はなんであるか。
5.Wikipediaは、常に書き換わっていく。こここと自体は問題ではないが、そうであることを、自覚的であるかどうか。そして、その書き換わって更新されていく方向が、「正しい」方向に向かっている保証があるか、どうか。
6.学生にWikipediaを書かせる、という大学教育での実践例の話しは聞く。だが、その前に、「知の体系」、および、そのなかの個々の「記述」の、流動性、安定性、完結性、ということについて、どう考えるのか。まず、このことを、教師みずからが自覚しておくべきではないか。
以上のうち、4以下のことは、当日、話さなかったこと。じゃあ、みんなで、これから先のことを考えましょうということで、では、会場のひとたちは、どう考えくれただろうか。
當山日出夫(とうやまひでお)
とりあえず、21日のARGカフェの案内のところに、トラックバックを送っておく。
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090119/1232321266
追記:タイトルに「Wikipedia」を追加。(1)(2)…では、わかりづらいと思って。
さきほど、ようやく、昨日もらった名刺に「ARG090221」とメモを書き込んだところ。(こうしておかないと、いつ、どこで、もらった名刺で、どんな人だかわからなくなってしまう。)
とりあえずは、私が話したこと、また、話そうと思ったことを確認しておきたい。
タイトルは、
當山日出夫(立命館大学GCOE(DH-JAC))
「学生にWikipediaを教える-知の流動性と安定性」
1.立命館大学(文)での情報処理入門 内容は、基本的な文書作技能に限定。ただ、最後の課題レポート(内容よりも、形式的に整ったドキュメント作成ができるようになっているかどうかの確認のため)、このレポートは、コンピュータやインターネットに対して、批判的な視点からのものにしている。
2.2008年度は、昨年、話題になった、Wikipediaの書き換え問題。特に、「陵墓」の項目について、宮内庁からの書き込み。では、これを、テーマにしよう。
3.レポートの要件としては、書き込み内容の是非は判断しない(してはいけない。)Wikipediaにおける「知」の安定性・流動性、について考えよう。これは、そこに書いてあることが正しい(間違っているか)とは、別の次元のことがら。さあ、ここから先は、みんなで考えましょう・・・
だいたいここまでが、話した内容。つづけて考えるならば、
4.この「陵墓」の項目、レポート課題のプリントをくばったときには、ひとつの項目としてあった。だが、その後、「天皇陵」に移行されている。つまり、「陵墓」の項目が消えたことになる。あるひとつの「知」を、ひとつの「項目」として認定して独立させるかどうかは、「知」の体系の問題である。それが、いとも簡単に移動したり、名称が変わったりすることの、意味はなんであるか。
5.Wikipediaは、常に書き換わっていく。こここと自体は問題ではないが、そうであることを、自覚的であるかどうか。そして、その書き換わって更新されていく方向が、「正しい」方向に向かっている保証があるか、どうか。
6.学生にWikipediaを書かせる、という大学教育での実践例の話しは聞く。だが、その前に、「知の体系」、および、そのなかの個々の「記述」の、流動性、安定性、完結性、ということについて、どう考えるのか。まず、このことを、教師みずからが自覚しておくべきではないか。
以上のうち、4以下のことは、当日、話さなかったこと。じゃあ、みんなで、これから先のことを考えましょうということで、では、会場のひとたちは、どう考えくれただろうか。
當山日出夫(とうやまひでお)
とりあえず、21日のARGカフェの案内のところに、トラックバックを送っておく。
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090119/1232321266
追記:タイトルに「Wikipedia」を追加。(1)(2)…では、わかりづらいと思って。
ARGカフェ(02)商業利用の是非をめぐって ― 2009-02-22
2009/02/22 當山日出夫
他のひとが話したことにふれるよりさきに、自分が発言したことを、まず確認しておきたい。
おわりの討論のときに、言ったこと。
MLA(博物館・美術館・図書館・文書館)の、コレクションの商業利用を認めなければならない。
このことは以前に、アート・ドキュメンテーション学会のときのこととして書いた。
2008年6月29日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/29/3601617
以下、重複するが、転記する。
===================================
2008/06/29 當山日出夫
アート・ドキュメンテーション学会(JADS)のシンポジウムの最後は、前述の、「写し絵」であった。その後、懇親会に移動。
「写し絵」について発表したのは、みんわ座の山形文雄(平成玉川文楽)さんと、田中佑子さん。懇親会の席でのスピーチ、(残念ながら、誰がどんな話しをしたが、ほとんど覚えていないが……まあ、懇親会とはそんなものである)、しかし、「写し絵」の山形さんの語ったことは、鮮烈な印象とともに記憶に残っている。
簡潔にいえば、いま、伝統的な文化の継承をもっとも阻害しているのは、博物館・美術館である……と、言い切った。そしては、それは、そのとおりであると、思わざるを得なかった。
昭和初期まで「写し絵」は、日本でおこなわれていた。その資料は、各地の、資料館・博物館・美術館などに、保存されている。以前、実際に使用されていた、「写し絵」の現物の「種板」(映画や写真でいえば、フィルムに相当する)、これが、かなり保存されている。
だが、これを研究して、現在によみがえらせようとすると、とたんに、ストップがかかる。理由は、その利用の主体が、「みんわ座」という商業利用にかかわるから、である。
おそらく、この私のブログ「やまもも書斎記」を読んでいる人の多くは、なにがしか、アカデミズムに関わっているであろうと、推測する。学術的な利用、あるいは、教育目的の利用であれば、著作権において、許容範囲とされる。
しかし、現行の著作権、あるいは、各種の学術資料の保存機関(博物館・美術館など)の利用規程では、商業利用にはきわめて厳しい。かつて、「写し絵」は、商業的に利用されてきた。それを継承するのも、また、新たなビジネスにおいてである。
これは、「写し絵」に限らない。日本の近世期を代表する絵画芸術である「浮世絵」、いま、それらのデジタルアーカイブが、日本のみならず、世界的規模で進行している。だが、それにかかわる組織・研究機関において、画像データの商業利用を認めるところが、どれほどあるだろうか。
考えてもみよう、かつて、「浮世絵」それ自体が、「商品」として、日本で一般に流通していたのではないか。売り買いされていたのである。それを、現在に文化遺産として「継承」しようとしたとき、その「商業利用」は、なにがしかのルールのもとで認められなければならない。でなければ、単に、資料を「保存」しているだけである。伝統的文化遺産の「保存」と「継承」は、異なると認識すべきである。
文化財を「保存」という大義名分のもとに、「死蔵」してしまっていいのだろうか。新しい、表現・創造活動のために、現代から、さらに未来にむけて、「継承」していく必要がないのであろうか。もし、それが可能であるとするならば、なんらかのかたちで「商品」として、多くの人々の生活の中に流通することに、他ならない。
美術館・博物館での保存、陳列、さらには、デジタルアーカイブでの公開。これはいいとしても、その先の未来への文化の継承を考えたとき、資料の「死蔵」になってしまうこと、これは、あらためて考えねばならない、テーマである。
當山日出夫(とうやまひでお)
===================================
ARGのように、インターネットの学術利用を推進する、うごきはきわめて価値が高い。だが、その背景にあるのは、インターネットの解放(つまり、一般的、商業的な利用が可能になった)ということがある。
このことを無視して、学術利用・教育目的だけを議論しても、どうにもならないだろう。インターネット上で資料を公開、といっても、それが、アカデミックな特権的意識のなかにとどまる限り、発展性はないと思う。
このあたり、公共図書館、大学図書館、あるいは、文書館、によって微妙に異なるだろう。また、博物館・美術館は、それぞれに事情はあるだろう。だが、文化の継承と発展を考えたとき、商業利用不可というコレクションは、いったい何の意味があるのか。保存という名の死蔵、このことを問いかけるべきであろう。
當山日出夫(とうやまひでお)
他のひとが話したことにふれるよりさきに、自分が発言したことを、まず確認しておきたい。
おわりの討論のときに、言ったこと。
MLA(博物館・美術館・図書館・文書館)の、コレクションの商業利用を認めなければならない。
このことは以前に、アート・ドキュメンテーション学会のときのこととして書いた。
2008年6月29日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/29/3601617
以下、重複するが、転記する。
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2008/06/29 當山日出夫
アート・ドキュメンテーション学会(JADS)のシンポジウムの最後は、前述の、「写し絵」であった。その後、懇親会に移動。
「写し絵」について発表したのは、みんわ座の山形文雄(平成玉川文楽)さんと、田中佑子さん。懇親会の席でのスピーチ、(残念ながら、誰がどんな話しをしたが、ほとんど覚えていないが……まあ、懇親会とはそんなものである)、しかし、「写し絵」の山形さんの語ったことは、鮮烈な印象とともに記憶に残っている。
簡潔にいえば、いま、伝統的な文化の継承をもっとも阻害しているのは、博物館・美術館である……と、言い切った。そしては、それは、そのとおりであると、思わざるを得なかった。
昭和初期まで「写し絵」は、日本でおこなわれていた。その資料は、各地の、資料館・博物館・美術館などに、保存されている。以前、実際に使用されていた、「写し絵」の現物の「種板」(映画や写真でいえば、フィルムに相当する)、これが、かなり保存されている。
だが、これを研究して、現在によみがえらせようとすると、とたんに、ストップがかかる。理由は、その利用の主体が、「みんわ座」という商業利用にかかわるから、である。
おそらく、この私のブログ「やまもも書斎記」を読んでいる人の多くは、なにがしか、アカデミズムに関わっているであろうと、推測する。学術的な利用、あるいは、教育目的の利用であれば、著作権において、許容範囲とされる。
しかし、現行の著作権、あるいは、各種の学術資料の保存機関(博物館・美術館など)の利用規程では、商業利用にはきわめて厳しい。かつて、「写し絵」は、商業的に利用されてきた。それを継承するのも、また、新たなビジネスにおいてである。
これは、「写し絵」に限らない。日本の近世期を代表する絵画芸術である「浮世絵」、いま、それらのデジタルアーカイブが、日本のみならず、世界的規模で進行している。だが、それにかかわる組織・研究機関において、画像データの商業利用を認めるところが、どれほどあるだろうか。
考えてもみよう、かつて、「浮世絵」それ自体が、「商品」として、日本で一般に流通していたのではないか。売り買いされていたのである。それを、現在に文化遺産として「継承」しようとしたとき、その「商業利用」は、なにがしかのルールのもとで認められなければならない。でなければ、単に、資料を「保存」しているだけである。伝統的文化遺産の「保存」と「継承」は、異なると認識すべきである。
文化財を「保存」という大義名分のもとに、「死蔵」してしまっていいのだろうか。新しい、表現・創造活動のために、現代から、さらに未来にむけて、「継承」していく必要がないのであろうか。もし、それが可能であるとするならば、なんらかのかたちで「商品」として、多くの人々の生活の中に流通することに、他ならない。
美術館・博物館での保存、陳列、さらには、デジタルアーカイブでの公開。これはいいとしても、その先の未来への文化の継承を考えたとき、資料の「死蔵」になってしまうこと、これは、あらためて考えねばならない、テーマである。
當山日出夫(とうやまひでお)
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ARGのように、インターネットの学術利用を推進する、うごきはきわめて価値が高い。だが、その背景にあるのは、インターネットの解放(つまり、一般的、商業的な利用が可能になった)ということがある。
このことを無視して、学術利用・教育目的だけを議論しても、どうにもならないだろう。インターネット上で資料を公開、といっても、それが、アカデミックな特権的意識のなかにとどまる限り、発展性はないと思う。
このあたり、公共図書館、大学図書館、あるいは、文書館、によって微妙に異なるだろう。また、博物館・美術館は、それぞれに事情はあるだろう。だが、文化の継承と発展を考えたとき、商業利用不可というコレクションは、いったい何の意味があるのか。保存という名の死蔵、このことを問いかけるべきであろう。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ユリイカ』日本語は亡びるのか? ― 2009-02-22
2009/02/22 當山日出夫
とりあえず紹介だけ。まず、昨年、次の本が出た、
水村美苗.『日本語が亡びるとき』.筑摩書房.2008
これをうけて、『ユリイカ』が特集を組んでいる。2009年2月号「日本語は亡びるのか?」。
言語学や日本語学(国語学)の専門書というわけでもないし、だからといって、(古代日本語は朝鮮語で読める、といったたぐいの)トンデモ本でもない。専門的なのだが、既定の学術領域におさまらない。まあ、だから『ユリイカ』なのであろうが。
昨日、ARGカフェに行く途中で、本屋さんで買ったばかり。ざっと見て、「日本語論必読ガイドブック」。このなかに、「言語情調論」(折口信夫)がある。折口信夫の言語論、これは、かねてより考えて見たいと思っているテーマなのであるが。
當山日出夫(とうやまひでお)
とりあえず紹介だけ。まず、昨年、次の本が出た、
水村美苗.『日本語が亡びるとき』.筑摩書房.2008
これをうけて、『ユリイカ』が特集を組んでいる。2009年2月号「日本語は亡びるのか?」。
言語学や日本語学(国語学)の専門書というわけでもないし、だからといって、(古代日本語は朝鮮語で読める、といったたぐいの)トンデモ本でもない。専門的なのだが、既定の学術領域におさまらない。まあ、だから『ユリイカ』なのであろうが。
昨日、ARGカフェに行く途中で、本屋さんで買ったばかり。ざっと見て、「日本語論必読ガイドブック」。このなかに、「言語情調論」(折口信夫)がある。折口信夫の言語論、これは、かねてより考えて見たいと思っているテーマなのであるが。
當山日出夫(とうやまひでお)
これからの予定など ― 2009-02-22
2009/02/22 當山日出夫
2月27・28日
第1回 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ国際シンポジウム
立命館 衣笠
出る予定
3月1日
文化・芸術研究分野におけるデジタルコンテンツ制作とその応用事例
立命館 衣笠
出る予定、でも3日連続はつらい。
3月4日
版木は語る
立命館 衣笠
出る予定。
3月14・15日
第4回 DDCH
文化遺産のデジタルドキュメンテーションと利活用に関するワークショップ
立命館 衣笠
これとかぶるのが
3月14日
アート・ドキュメンテーション学会
菅野育子氏(愛知淑徳大学)
欧州における図書館・文書館・博物館連携の最新動向:欧州デジタル・プロジェクトを中心に
大阪樟蔭女子大学
14日は、たぶん、こっちの方。
3月27日
東洋学へのコンピュータ利用
京都大学
これは、発表なので、絶対に出ます。
當山日出夫(とうやまひでお)
2月27・28日
第1回 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ国際シンポジウム
立命館 衣笠
出る予定
3月1日
文化・芸術研究分野におけるデジタルコンテンツ制作とその応用事例
立命館 衣笠
出る予定、でも3日連続はつらい。
3月4日
版木は語る
立命館 衣笠
出る予定。
3月14・15日
第4回 DDCH
文化遺産のデジタルドキュメンテーションと利活用に関するワークショップ
立命館 衣笠
これとかぶるのが
3月14日
アート・ドキュメンテーション学会
菅野育子氏(愛知淑徳大学)
欧州における図書館・文書館・博物館連携の最新動向:欧州デジタル・プロジェクトを中心に
大阪樟蔭女子大学
14日は、たぶん、こっちの方。
3月27日
東洋学へのコンピュータ利用
京都大学
これは、発表なので、絶対に出ます。
當山日出夫(とうやまひでお)
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