保存という死蔵2009-02-24

2009/02/24 當山日出夫

これは、『ARG』の363号の「文学館」の研究事例とも関連する。トラックバックをもらってあるので、整理しておきたい。

読書日記
http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2009/02/arg03-1ce5.html

基本になっているのは、昨年のアート・ドキュメンテーション学会での、「写し絵」の玉川文楽さんのスピーチ。「写し絵」は、昭和初期まで全国でおこなわれており、その資料(種板=映画でいえばフィルム)は、各地の、博物館などにかなり保存されている。

ここから先は、私の思うこと。保存されているのは、モノ、である。それを、現代に甦らせようとするならば、コピーするなり、写真撮影するなりが、必要。そのとき、利用目的が、「みんわ座」という劇団(写し絵、商業利用)の活動にかかわるとなると、とたんに「ノー」と言われる。有償・無償以前に、ダメといわれてしまう。

あるいは、浮世絵のデジタルアーカイブ。公開している機関のなかには、ブラウザで見る以外のことは、一切してはいけない、という条件のところがある。これで、何を研究しろと言うのか。

ただ、すべての、文化財の保有機関がそうであると言っているわけではない。しかるべき手続きをふめば、商業的な利用を許可するところもある。(京都大学電子図書館など)。

『ARG』363号の岡野さんの論文では、
3.2.1 文学館よるレファレンス拒否
3.2.2 館長の権限と資料の囲い込み
に記述されているあたりのことが、いくつかの、MLA(それに大学などをふくめて)においては見られるということである。

保存された文化財の継承と利活用、これは、狭義のアカデミズムだけが担うことであろうか。論文を書くためだけに、保存してあるのか。出版・映画・演劇、その他の商業的な利用のなかで、ひとびとの生活のなかに受け継がれていくことは無意味で、拒否する、というのであるか。

もちろん、博物館・美術館、図書館、文書館、大学・研究機関、それぞれに設立の法的基盤もちがうし、理念も異なる。一律には論じられない。しかし、文化財の保存という点からは、利用者にとっては同じである。

まずは、このことを、問題提起したいのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

ARGカフェ(04)図書館のネコ2009-02-24

2009/02/24 當山日出夫

ARGカフェで面白かった発表の一つが、図書館のネコの話し。

村上浩介(国立国会図書館)さんの「テレビからネットへ」。

昨年、国会図書館のカレントアゥエアネスがダウンした。その理由は、「デューイ」という名のネコが、TV番組で紹介され(その死亡したこと)、その直後、ネット検索で、カレントアゥエアネスがヒットしたため、アクセスが集中。耐えきれなくなったという話し。

ためしに、Googleで検索してみた。「図書館 猫」、そうすると、やはり、国会図書館が出てくる。

おどろくのはその次。アクセスの様子を分析すると、ケータイからが、かなりをしめる、とのこと。確かに、今のケータイは、インターネット端末と言ってもいいのだが、あの小さい画面で、OPACを見てもどうにもならないだろうと思える。

だが、このような流れが加速していることは確かである。ケータイからのブログ書き込みなど、もはや当たり前。これと、24インチディスプレイや、二つのディスプレイを並べて使えるパソコン環境とでは、まったく見ている世界がちがうだろう、と思う。

たしかに、考えるより検索、まず、ネット検索してみる、こういう時代だろう。このとき、パソコンを使うか、ケータイをつかうか。それを、インターネットとして、ひとくくりにすることは、私には、ためらいがある。だが、それに違和感を感じないのが、若いひとたちかもしれない。

ケータイでインターネット接続できれば、それで終わり。では、それから先の、コンピュータリテラシは、どうなるのか。

ところで、「図書館 猫」で検索すると、本もヒットする。

ヴィッキー・マイロン/羽田詩津子(訳).『図書館ねこ デューイ』.早川書房.2008

もちろん、買ってしまった。(ネコの本というよりは、アメリカにおける地方都市での図書館のあり方の本として読んだ方がいいと思う。)

當山日出夫(とうやまひでお)