『立ちつくす思想』2009-02-05

2009/02/05 當山日出夫

もすこしあったかいかと思ったが、東京は、やっぱり寒い。

今日は、『内村鑑三全集』の件で、うちあわせ。お茶の水から歩く。神保町の古書店街は、極力さけて歩く。いちいち店をのぞいていたら、時間とお金がいくらあっても足りない。

ところで、家を出るとき、何か本がカバンの中に入っていないとさびしい。今回、持ってきたのは、

田川建三.『立ちつくす思想』(新装版).2006.頸草書房.(初版は、1972)

この本、三冊、持っている。学生の時に読んだ(今は、書庫の中)、頸草書房がオンデマンド出版で出していたので注文した本、そして、新装版、である。

学生の時、読んで、感銘を受けた本のひとつ(などと言ったら、著者にしかられるか。)

當山日出夫(とうやまひでお)

文字の力・書のチカラ2009-02-06

2009/02/06 當山日出夫

今日の午前中は空いているので、どこに行こうかと考えて、出光美術館(有楽町)。特別展「文字の力・書の力」。

いわゆる、古典的な書芸術(たとえば、「石山切」など)と、現代の書家の作品を、同等に並べて見せているのが、特色であろう。しかし、私としては、古典的な書の方だけの方が、いいのだが。とはいえ、あえて、今回のような見せ方、つまり、古典芸術としての書と、近現代の書とを、ならべて見せる、この企画は、非常に良いと思う。

さて、書芸術を鑑賞しながら、そもそも文字とは何であるか、考えてしまう。明日の、ワークショップ(国語研)のことが頭にあるせいかもしれない。

ところで、素朴な疑問。甲骨文字とか、楔形文字とか、もし、まちがえて書いてしまったら(彫り込んでしまったら)、どうしたんだろう。間違えて文字を書いてしまった時、人はどうするか、ふと思った次第。墨筆の場合、その対応策はいろいろあるのだが。

今日は、はやく寝よう。と言いながらも、時計は、12時近くになっている。

當山日出夫(とうやまひでお)

留守の間の出来事2009-02-08

2009/02/08 當山日出夫

3日ほど、家を留守にしていたら、

・自動車が無くなっていた。オイル関係でエラーメッセージが出るので、修理に出すように、指示しておいたので。数日中に帰ってくるらしい。

・一太郎のあたらしいの、というより、あれこれまとめてワンセットお買い得がとどいていた。

・オンラインの本屋さんに注文しておいた本が、何冊かとどいていた。

・論文の校正がとどいていた。(まだ、中身を見ていない、締め切りはいつであるか、恐怖なのである。)

・お風呂がなおっていた。

・その他、わけのわからない郵便物などが、たくさん来ていた。

ワークショップ文字、のことなどは、おってまた。

當山日出夫(とうやまひでお)

東京で見てきた展覧会2009-02-08

2009/02/08 當山日出夫

出光美術館
『文字の力・書のチカラ』

東京国立博物館
『妙心寺』

東京国立博物館
『福澤諭吉展』

それにしても、『妙心寺』も『福澤諭吉』も、図録がとっても立派。これで、2500円は、確かに安い。しかし、両方持って帰るには、重い。(でも、頑張って持って帰った。東京駅でバッグを買ってしまった。)

私は、私なりの興味関心で見た展覧会であるが、観客のひとたちはかなり違う。

午後もつかえば、もう1~2箇所は見られたのだけれど、夜までに我が家に帰り着くようした。さて、たまった仕事としては、まずは、一太郎の新しいの、および、その他まとめてお買い得を一式インストールすることにしよう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』361号の感想:学生は本を読むか2009-02-09

2009/02/09 當山日出夫

『ARG』の361号は、まず、巻頭の

「視点:図書館文化と新世紀世代の価値との断絶」
Disconnects Between Library Culture and Millennial Generation Values

であろう。

ところで、以下、個人的な感想と経験から、すこし。

毎年度末、学生にには、簡単なレポートを書かせる。新書本の1冊ぐらいを読んで、それを「要約」しなさい。その本としては、数冊用意しておいて、このうちから選びなさい、とする。新書本ぐらい、自分で買え、というのが原則、この意味もあって、締め切りの1ヶ月以前には、課題を渡す。

ある学生の質問。先生は、この課題の本を読んでいるんですか? (正直いって、この質問には、内心激怒である。教師をなんだと思っている。読んで中身をある程度わかっているからこそ、課題に選んでいるにきまっているだろうが。)

学習するということと、読書とが、乖離してしまっている、この状況のなかでの図書館の未来はどうなるのだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:WS文字(2)国語研2009-02-09

2009/02/09 當山日出夫

第2回のワークショップ:文字-文字の規範-(2009年2月7日、国立国語研究所)は、無事に、いや、非常な盛況でもって終了した。会場の大きさもちょうど。閑古鳥状態にもならず、かといって、席が足りなくなるということもなく、適度であった。

前回と同じく、個別の発表についての質疑応答はなしにして、最後に、全体討論の時間をつくった。(司会は、前回とおなじように、日仏会館の家辺先生にお願いした。ありがとうございました。)

パソコンとプロジェクタの接続ミスも、ほとんど(?)なく、無事にいった。

やはり、というべきであるが、いわゆる、日本語学の研究分野における、文字の研究者の参加が少ない、と感じた。むしろ多かったのは、印刷・出版・コンピュータ関係のひとびと。今回のワークショップは、表面的には、新常用漢字表をメインに出したものではない。しかし、前回から、新常用漢字表のことは、通底している。

まさに、新常用漢字表は、何を決めるものなのか。その「規範性」とは何であるのか。まさに、そこにかかわる当事者である人たちがあつまったというべきであろう。

個別の発表については、各発表者の方々のうち何名かは、それぞれのブログで公表しておいでである。今、私が把握している範囲では、

師茂樹さん
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20090208/p1

小形克宏さん
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090208/p1

いずれ、これらをふくめて、『論集』の第2号を、考えている。そして、次の第3回、あるいは、番外編をふくめて、いろいろ企画をどうしようかというところ。

當山日出夫(とうやまひでお)

『妙心寺』展の図録:妙心寺の古文書のアーカイブズ2009-02-09

2009/02/09 當山日出夫

東京国立博物館に、福澤諭吉展を見に行くと、ついでに、妙心寺展もやっていたので、見てきた。などと書くとおこられそうであるが、まずは、立場として、慶應義塾の塾員(125期卒)であることを、優先。

妙心寺の展覧会の方であるが、私が、もっぱら興味を持ってみたのは、その照明。昨年の、「じんもんこん2008」で、木下史青さんの講演を聴いたばかり。この照明の光源は、いったいどこから来ているのか、天井ばかり見ていた。

ともあれ、展覧会そのものとは別に、図録が、きちんとしている。このごろは、どこの展覧会でも、単なる、展示品の写真集というよりも、解説が詳しく載っている。

今回の妙心寺の図録を見て、気づいた点がひとつ。

概論として、竹貫元勝先生の文章は、当然だろう。おどろいたのは、その次の各論の最初が、

「妙心寺の古文書」.羽田聡(京都国立博物館)

が掲載になっていること。内容は、妙心寺のアーカイブズについてである。ちなみにいえば、これ(妙心寺古文書)は、メインの展示品ではない。

通常なら、禅と日本美術、というようなタイトルの論文が来るところだろう。そこをあえて、このような論文の編集にしたのは、敬服する。(誰に対してかと言われても困るが、妙心寺、および、東京国立博物館に対して、ということになる。)

どのような宗教教団(この場合、妙心寺)であっても、その歴史にともなって、種々の記録・文書が必須である。そして、それを、どう保全してきたか、つまり、アーカイブズの問題が、ここにもある。これを使って、詳しく調べれば、妙心寺教団が、現在、これほどの規模を維持できている背景には、単なる狭義の信仰以外に、経済的・政治的なさまざまな要因がある、それについて、研究できるだろう。

この図録は、展示品の解説としてもよくできている。そして、その「妙心寺アーカイブズ」について言及した論文を、最初に持ってきた編集の方針も、(めだたないことかもしれないが)、きわめて高く評価したいと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:文字の規範についての意識の変化2009-02-09

2009/02/09 當山日出夫

先日のワークショップの備忘録として書いておく。

まず考えなければならないのは、「表記の規範」のレベル。ある語を、「かな」で書くか「カタカナ」で書くか、「漢字」で書くか。「漢字」の場合、どの字を使用するか。

しかし、この根本的レベルの問題は、いまはおいておく。

漢字の規範といったとき、二つの方向がある。

第一に、理念としての規範。正しい文字というものがあるという意識。そして、それがどのようであるかは、時代・歴史・文化的背景によって異なる。

第二に、お手本としての規範。このとおりに書けばよい、ということ。

以上に分けて考えてみると、第一の意味での規範に言及したのが、小形さんの大日本印刷の拡張新字体の問題。時代的背景としては、当用漢字というきわめて厳しい漢字制限があって、その「表外字」(当用漢字が、漢字制限とはいっても、それで、すべての日本語が書けるわけではない、また、人名・地名の固有名詞を排除していることもある)は、必要。では、その「表外字」を、どう書くか。活字としては、どうデザインするか。

当用漢字の理念としては、字体の簡略化がある。これを、一つの理想とするのであるならば、拡張新字体は、生まれるべくして生まれる。また、この方が、使用する文字の字体の整合性がある。

また、この規範の意識が、時代によって変わる。当用漢字の字体簡略化ではなく、いわゆる「正字体」(旧字体? 康煕字典体?)に、方向がむかう。

第二の「お手本」としての規範。当用漢字であれ、常用漢字であれ、新常用漢字(仮称)であれ、表外漢字(印刷標準字体)であれ、さらには、康煕字典であれ、そこに掲載されているのと同じ「かたち」でなければならない、という規範の意識。

これは、拡張新字体などは、許さない。この意味での規範に言及したのが、狩野さん(イワタ)の発表。

なお、新常用漢字表(仮称)の、全体像が、すでにインターネットで見られる(文化庁のHPの議事録)。

http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji.html

これが、平成明朝で示してある、とすると、新常用漢字準拠の、実際のフォントデザインは、どのような影響をうけるか。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:文字の理念と規範と規格(1)2009-02-10

2009/02/10 當山日出夫

昨日、書いたことであるが、うまくまとまって書けていないので、さらに整理し直してみたい。

小形さんの発表で触れられていたように、ある時期の大日本印刷は、拡張新字体を使用していた、それには、歴史的・文化的背景がある。

当用漢字という、きわめて制限のつよい漢字表があった。そもそも、日本は漢字を使うのをやめよう、という雰囲気があった。当用漢字の「当用」は、さしあたって使用する、の意味。

基本は、「字種の制限」と「字体の簡略化」。漢字使用における、負担の軽減が目的である。

しかし、問題も残した。固有名詞の表記(人名・地名)は、対象外であった。つまり、大阪・岡山・山梨などの県名や、伊藤などの人名が書けない。結果的には、現実の、日本語の表記における漢字の運用としては、「当用漢字表」外の、文字も必須になる。このとき、どう考えたか。

1.当用漢字の理念(より簡略な日本語表記)としては、字体は、簡略化しよう。

2.また、それとは別に、漢字が、その構成部品(部首など)からなりたっている以上、その統一は、負担を軽減する。

以上の2点は、当用漢字の理念に合致している。拡張新字体は、必然的に発生する。たとえば、「鴎」がその典型である。このカモメの字は、生まれるべくして生まれた文字である。

いくら当用漢字がきまったからといって、「鴎」のような簡単な字が、当用漢字表に入っているかいないか、辞典をひいてしらべてから書く、というようなことはないであろう。(ただし、公文書・新聞などは、別であるが。)むしろ、まようとすれば、漢字で書くか、仮名(ひらがな・カタカナ)で書くかでは、なかったろうか。

可能な限り、日本語の表記を簡略化する、それが、ある意味での文字の理念であり、正しさを持っていた時代があった。そして、次の問題は、情報通信の規格としての文字が登場したときに、この理念が、どこまで保てたかということになる。

つづきは、後ほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字の正しさとは2009-02-10

2009/02/10 當山日出夫

WS文字では、師さんの絵文字についての発表が、異色(?)であった。だが、文字とはなんであるかを、考えさせられる、非常によい話しであったと、私は思う。

もろ式:読書日記
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20090208/p1


私なりに論点をいくつかあげるならば。

文字とは音声言語に対応する必要はないのか。

記号と文字とは、どう違うのか(同じであるのか)。文章表記のなかで、「 」(括弧)や、「、。」(句読点)と、文字との関係は、どうであるのか。「!」や「?」が、文章表記に使用されることと、最近よく見かける「☆」のはいった語などは、どう違うのか。

絵文字とピクトグラムの違いは何か。

絵文字でコミュニケーションを円滑に行うならば、ある程度の規格化は必要だろう。また、逆に、すでに、現実に、コミュニケーションで使用されている実績がある。これを、どう考えるか。

地図記号や天気図記号などは、むしろ厳密な規格化が必要。しかし、それを、文字と同レベル(同じユニコードにおける「文字」として)であつかう必然性があるかどうか。

絵文字は、きわめて文化への依存度が高い。と、同時に、同じ絵文字が、文化が異なると、まったく違った意味で使用される場合もある。これは、規格化にあたり統制すべきかどうか。例えば、赤十字を表す絵文字は限定できない(イスラーム圏では異なることは、よく知られている。)

當山日出夫(とうやまひでお)