新常用漢字:正しい文字としての当用漢字2009-02-10

2009/02/10 當山日出夫

かくのごとくブログのメッセージを書いているより、校正をみなければいけない(第3・4水準漢字を使った原稿、担当者のいわく、今昔文字鏡がありますから大丈夫・・・はたして本当に大丈夫だろうか)。だが、まだ、まにあいそう(というより、時間の余裕があると、思い込むことにする。)

私の生まれは、昭和30(1955)年である。

個人的な経験である。私が、小学生の時、「當山」の文字を書くことを、教師に禁じられた。「当山」とかかねばならなかった。単に新旧字体の問題であるから、さほど抵抗はなかった(ように記憶する)。今でも、漢字について知識のある人は、私へのメールに、「当山」の表記をつかってくる。

だが、人によっては、自分の名前の文字の漢字を書いてはいけない、漢字で自分の名前を書いてはいけない、ということもあった(らしい、ということを、WSの後の懇親会の時に、隣席の安岡孝一さんから聞いた。この人名、当用漢字では(常用漢字になっても)書けない。)

また、子供のころの記憶であるが、おとなの人が、「この字は正しくはどう書けばいいのか」と困っていた場面を、記憶している。いわゆる旧字体の方は頭に入っているのだが、当用漢字が思い浮かばない、のである。

今の「目安」としての常用漢字からすれば、ただ、そのような時代があったということになる。しかし、現に、日本語の表記の歴史において、このような時代があったのである。当用漢字は、略字でもなければ、新字体でもない、まさに「正しい字」であった、のである。

その「正しい字」が「目安」(常用漢字)になったとき、ひとびとは、何を「正しい字の規範」として選んだのであろうか。そして、この時代が、まさに、JIS規格の漢字(78→83)が、登場した時代でもある。この全体の流れの中で考えねばならない、と私は思う。

このあたり、小形さんが書いている。

もじのなまえ 2月10日
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090210/p1

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:文字の理念と規格と規範(2)2009-02-11

2009/02/11 當山日出夫

昨日の続きである。

当用漢字が常用漢字になったとき、
・「制限」から「目安」になった
・字種が増えた
・しかし、にもかかわらず、固有名詞(人名・地名)は依然として対象外であった

私は、この時を、リアルタイムで経験している。大学院のとき。あまり、どう変わったという実感は、無い。まあ、実際に勉強していたのが、『白氏文集』という、どう考えても「常用漢字」では無理な世界の文献であるので、文字が増えることのありがたみは、無かったということになる。

ただ、ひとつ記憶に残っていることがある。新常用漢字になって(あるいは、その案が発表されたとき)のことであったか。漢字制限の立場の人の書いた文章に次のようにあった・・・すでに、当用漢字で新聞などはほとんど書けている、それに、あらたに字種を加えるとは何事であるか、より簡略な日本語表記という当用漢字の理念に反するものである・・・概略、このような内容であったと記憶する。

だが、これは、循環論であることは、すぐに分かる。当用漢字に制限して書いていたからこそ、当用漢字で書けていたのである。

以下、個人的な経験である。

拡張新字体については、違和感はない。このあたり、東洋の古典籍類を勉強する学生であったからこそかもしれない。昔の文献の方が、拡張新字体をはるかに越えた、「変な字」をたくさん使っている。ここでは、康煕字典体が「正しい」という意識を持ちようがない。

ただ、康煕字典は、文字のアイデンティファイのために便利。この文献のこの変な字体の字は、康煕字典では、この字なのである、ということで、文字の確認のツールであった。康煕字典記載の字体を媒介として、他の漢字辞典類を参照する。康煕字典を権威として考えた記憶はない。(この意味では、情報通信のための文字の規格票、つまり、JIS C 6226、にきわめて近い性格のものとしてつかっていたことになる。)

そして、パソコン(PC-9801)を使い始めて、いわゆるJIS漢字とつきあうことになる。そこでも、文字の正しさということはあまり気にした記憶がない。(まあ、写本における、明らかな「誤字」というのはある。しかし、それは、規範・標準に照らしたものではなく、単なる筆写のミスである。)

つづきは、また後で。

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字はユニバーサルデザインか2009-02-11

2009/02/11 當山日出夫

絵文字について考える。師さんのブログで、主な論点は紹介されている。

もろ式:読書日記
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20090208/p1

すでに論じられているのならよいが、私の立場として、すこし気になったこと。それは、絵文字は、ユニバーサルデザインであるか、どうか。

端的に言えば、視覚障害の人にとって、コミュニケーション阻害要因にならないか、どうかである。
・点字に変換可能であるかどうか。
・音声読み上げソフトで、どう音声言語化するか。

文字は、それが「かたち」を持った瞬間に、視覚表現となる。純粋なテキストに、プラスなにがしか、が加わる。そして、このプラスなにがしか、の部分にあまりに大きく依存した場合、視覚障害者にとっては、コミュニケーションの阻害要因になる。

視覚芸術であるならば、いいかもしれない。たとえば、「書芸術」。しかし、通常の、言語(書記)によるコミュニケーションである。そうであるならば、ユニバーサルデザインの視点も、絵文字について考慮すべきではないか。

當山日出夫(とうやまひでお)


土方巽2009-02-11

2009/02/11 當山日出夫

今日(2009/02/11)は、もうあと1時間ほど。

午後、京都に行って、

土方巽・舞踏フィルム上映 in 京都 | Butoh Screening in Kyoto: Rediscover HIJIKATA Tatsumi
http://d.hatena.ne.jp/p-butoh/20090203

を見てきた。先ほど帰った。これは、必見の価値有り。上記のURLを見てもらえれば分かる。明日、本番が、京都大学である。もし、たまたま、このブログを見て、興味のある人は、是非。

土方巽の舞踏に興味はなくても、人間の身体動作、映像表現、あるいは、規範・規格とはなんであるか、という関心からみて、絶対に損はない。しかも、昨日(2009/02/10)、土方巽のお弟子さんの実演を撮影した映像も見られる。通常の土方巽の映像を見るだけではない。

詳しい、今日の感想については、後ほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:文字の理念と規格と規範(3)2009-02-12

2009/02/12 當山日出夫

昨日からさらに続ける。

個人的な感想としてであるが、パソコン(PC-9801)を使い始めて、困ったことがある。

コンピュータ(PC-9801 M2)は、JIS C 6226(1978)
プリンタ(NM9300S)は、この83年版

どういうことがおこるか。簡単に言えば、ディスプレイで見えている字と、プリンタで出る字が違う、のである。いま、0213(04)をめぐって起こっている現象を、その昔、リアルに経験したことになる。

このような混乱した状況のなかで考えたことは、
・当該文献(白氏文集や和漢朗詠集)で使用の文字に近い字があるかどうか
・JIS規格内の異体字をどう処理するか
である。無い字は、外字処理になるが、それは別のことである。

現在の漢字辞典に書いてある字が正しい字である。おおむね、この意見には、同調できるのだが、しかし、100%賛成とはいかない点がある。実際の、平安時代・鎌倉時代の文献では、漢和辞典の字(=康煕字典体)を、使っていないからである。

正字体(いわゆる康煕字典体)が使えるかどうかは、確かに重要である。しかし、それだけでは、問題は解決しない、という分野で勉強してきた。漢字については、『康煕字典』(や、その他、現代日本の漢字辞典、大漢和・新字源など)がある。しかし、それと、同時に使用している、片仮名や平仮名についての、変体仮名は、どうであろうか。「ただしい変体仮名」というのは、あり得るだろうか。

最近の事例では、「さいたま」の「さ」の字をめぐる件がある。

漢字についての、正しさ・規範をめぐる議論がある一方で、仮名のことは、忘れ去られているごとくである。(ただ、タイポグラフィの面で重要であるとの認識は持っている)。

なぜ、「正しさ」の議論の対象が、漢字の字体に集中してしまうのか。その前提には、日本語の表記の問題があるはず。しかし、日本語の「正書法」の議論は、まず目にすることがない。最近では、『漢字の未来 新版』(野村雅昭)ぐらいか。

日本語の表記を視野にいれない漢字論には、あまりつきあいたくない、というのが、今の気持ちでもある。この視点では、正字・正仮名、という方針は、(歴史的観点からはどうであれ)、ある意味でスジがとおっていると思う。(なお、個人的には、反対ではあるのだが。)

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:解釈による運用2009-02-13

2009/02/13 當山日出夫

先日の、国語研でのワークショップ。小形さんの発表は、大日本印刷の拡張新字体の利用は、当用漢字表の理念を解釈によって運用していたものである(と、私は理解して聞いた。)

そして、これまで、「文字の理念と規格と規範」で述べてきたことは、まさに、文字は解釈によってしか運用できないものである、ということの、きわめて個人的的な体験談である。極言すれば、これと同じ字(字体)は、康煕字典にのっていないので読めない・・・こんなことを言い出したら、おそらく、東洋の古典籍の大部分はよめない、はずである。

しかし、現実にはそうなっていない。なぜなら、康煕字典に載っているこの字は、実際の典籍のこの字と同じであるということが、暗黙のうちに諒解されているから、である。

これは、現代についても同じ。でなければ、観光客が、京阪電車で、「祇園四条」で降りて、八坂神社に行けるはずがない。また、京都大学にも行けない。
※印刷標準字体「示氏」。京阪電車の使用字体「ネ氏」。
※京都大学への生き方は、四条からであれば、「201系統 祇園百万遍」とある。しかし、私の見た範囲では、京都大学の刊行物は「ネ氏」。京都市バスは「示氏」。

印刷においても、この「解釈による運用」を、もっと現実のものとして考えるべきではないか。そうすると、クライアントが・・・ということになるが。

ともあれ、「新常用漢字表(仮称)」などについて、なぜ、こまかな一点一画にこだわるのか、この点こそが、「新常用漢字表(仮称)」が、今回、われわれに問いかけたものである。

當山日出夫(とうやまひでお)

電子出版における良心的とは2009-02-13

2009/02/13 當山日出夫

『内村鑑三全集』のデジタル版の件については、先日の、ワークショップ(国語研)でも、斎藤みちさんから紹介があった。

この仕事で、今、私が、考えていることは、電子出版における、文字のあつかい。その「良心的」な態度とは、ということ。

簡単にいえば、

1.
どのような手段をつかおうが、文字を正確に見えるようにする。この場合、全部が、「画像」であるならば、問題ない。しかし、テキスト、あるいは、PDFで、となると、そう簡単にはいかない。なんらかのグリフをそこに埋め込んで、見えるようにする。しかし、この場合、処理の方法によっては、コピーして、ワープロにもっていったら、とたんに字が化けることがあり得る。(現在のデータは、そうなっている。)

2.
逆に、見えない字があることを前提に、ゲタ(〓)にする。どうみても、今の時代の、日本のコンピュータで使用できる漢字は、混乱している。使用するマシンによって、見える字・見えない字・かたちの変わる字、などが、錯綜している。では、いっそのこと、実用的な部分(検索やデータのコピー)にかかわる部分は、現時点で安定して見える文字だけにしてしまう。それ以外は、ゲタ(〓)にする。

すでに紙の本はある。岩波書店刊の『内村鑑三全集』(全40巻)。まともに、内村鑑三研究にかかわる研究者なら、全集が手元にあって当然だろう(と、私ぐらいの年代であれば、考えてしまう)。

これまで、出版社や印刷業は、どんな方法でも、紙の上に印刷できればよかった。このことについては、鉛活字の時代でも、写植の時代でも、さまざまな現場の苦労と工夫があった。

しかし、電子媒体に変わったとき、ディスプレイは紙ではない。そこに見える文字は、紙の上に印刷された文字ではない。所有しているのは、デジタルのデータ(文字の符号)にすぎない。

現時点では、それを強制的に、ある特定の文字として見せるためには、フォント埋め込みのPDFが、もっとも妥当な方法だろう。だが、その裏には、文字コードがある。PDFから、論文を書くために、引用してコピーしたら、文字が化けてしまう、では困る。化けるぐらいなら、いっそのことゲタ(〓)の方がいい。

このように考えるのは、デジタルのテキストを扱ってきた人間の発想かもしれない。しかし、このところを、なんとかして、克服しないでは、デジタル人文学の未来はない。

このあたり、現実的にどのように処理するか、また、どう説明するか、難しいのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

土方巽の舞踏と舞踏譜2009-02-13

2009/02/13 當山日出夫

私の年代であれば、土方巽(ひじかたたつみ)の舞踏(ぶとう)は、デフォルトの知識であるのだが、どうも、最近の若い人はそうでもないらしい。しかし、先日の、

土方巽・舞踏フィルム上映 in 京都
http://d.hatena.ne.jp/p-butoh/20090203

の前日の方は、結構、若いひとがいた。どういうつながりで、知っているのだろう。

この件については、きわめて多くの書きたいことがある。が、それを、簡略にまとめるならば・・・人間の身体表現の極致とまで賞された土方巽、普通に思い浮かぶのは、「疱瘡譚」、ひとが床のうえでのたうちまわっているかのごときシーンであろう、これが、まったくアドリブなし、完全に「舞踏譜」という「ことば(語)」で記述され構成されたものである、ということ。また、舞踏譜とその身体動作は、訓練によって、身につけることが可能。この舞踏譜のトレーニングは、まったく個性の入り込む余地がない。

近代の芸術が、もし、個人・個性の表現と分かちがたいものであるとするならば、土方巽の舞台は、完全に、没個性の表現(?)になる。舞踏譜による訓練を受けた人であれば、土方の舞台を再現可能なのである。

ある「かた」にはまった身体動作による表現ということでは、いわゆる伝統的な芸能(能楽や日本舞踊)が思い浮かぶ。一般的に、その対極あるものとして、土方の舞踏が位置づけられてきたように思う。実際は逆で、土方の舞踏の方が、完璧に「かた」を組み立てたものである。

さて、このようなことから、人間の身体動作の伝承とか、うごきの規範ということに発想がながれていく。今後は、慶應アートセンターの土方アーカイヴの研究に注目することにしよう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『全国まずいものマップ』2009-02-13

2009/02/13 當山日出夫

たしか、同じような内容のことを、このアサヒネットの前身の、パソコン通信の時に書いたことがあるような気がする。

電車の中で本を読む(いまは、自動車が主な移動手段になってしまって、あまりそういう機会はないが)。ただし、そのとき、絶対に選ばない作者がいる。清水義範、である。

理由は簡単、読んでいて、笑い出したらとまらないからである。

いま、私のてもとには、『全国まずいものマップ-清水義範パスティーシュ100-三の巻』(ちくま文庫)がある。ゆえに、ここしばらくは、知的生産能力は(もともと、そんなもの無いかもしれなが)、おちるのである。

筑摩書房は、まことに、罪作りなのである。あ、そういえば、『罪と罰』の2冊目も読まないと。

當山日出夫(とうやまひでお)

家辺さんの絵文字論2009-02-14

2009/02/14 當山日出夫

新しい、勉誠メールマガジン(PDF版)には、家辺勝文さん(日仏会館)による、

『emojiとインターネット』

という文章が載っている。Googleを中心とした、絵文字の電子メールでの実際の利用、また、絵文字とピクトグラムの違いなどについて、非常によくまとまった内容である。

絵文字に興味のある方は、是非、参照の価値がある。

なお、絵文字については、先日のワークショップの時、師さんの発表があったばかり。合わせて読むと、文字と絵文字について、いろいろ考えるきっかけになる。また、安岡さん(京大)の論部への言及もある。

もろ式:読書日記
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20090208/p1>

それから、勉誠出版のMMは、定期購読が可能。ただ、この号だけ見ることもできる。

勉誠通信
http://www.bensey.co.jp/mm.html

當山日出夫(とうやまひでお)