メーデーである2009-05-01

2009/05/01 當山日出夫

今日から、このブログのデザインを変えてみた。最初に作成してから、基本的に同じデザインを使ってきた。青いバックに、文字は白。多少、CSSをいじって、表示を変えるなどしてはきている。

新しいアサヒネットのテンプレートで、気に入ったがの登場したので、変更。何よりも文字が見やすい。デフォルトで、メイリオになっている。字が大きい。1行字数は、短くなる。しかし、可読性は、向上している。

さて、メーデーである、連休である、なのに、なぜ、私は、「おしごと」をしていなければならないのであろうか。

今、読みかけの本。
清水義範.『時間発下り列車』.(ちくま文庫)
小谷野敦.『『こころ』は本当に名作か』.(新潮新書)

清水義範の『時間発下り列車』所収の、「時間発下り列車」、これは傑作。蒸気機関車(SLなどと言わない)で、トンネルのたびに、窓を閉めた、このような体験を持つ世代は、私ぐらいが、ぎりぎりであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記 2009/05/02
やっぱりもとの画面にもどした。漢字と仮名のバランスが、どうもよくないので。

事実は何を語るか2009-05-01

2009/05/01 當山日出夫

先日の、学習院大学での、日本アーカイブズ学会のとき、午前中、時間があったので、靖国神社に行ってきた。

本殿の前では、一礼。(これは、宗教の領域にある靖国神社への、マナーとしてである。)

遊就館。昔に行っている。そのときは、桜花の展示が最初にあったのを、鮮明に覚えている。

新しくなって、桜花の展示は、最後の方に移動されている。そのかわり、最初に登場しているのが、いわゆるゼロ戦(零式艦上戦闘機)。そして、もうひとつが、泰緬鉄道。

泰緬鉄道……私ぐらいの年代であれば、連想するのは、クワイ河マーチ、映画『戦場にかける橋』である。今、Wikipediaで見ると、映画はかなり脚色してあり、事実とは違うらしい。

遊就館の展示を見ていって、私の近現代史についての知識の範囲では、ウソの展示はない。確実な事実のみが、厳選して展示してある。だが、淡々たる事実の列挙が、強烈な、メッセージを形成していることは確かである。ただ、個人的には、その歴史観を、全面否定するものではない。

事実をもって語らしめる、ということの恐ろしさがここにはある。事実はすべてではない。意図的に選択した事実である。ウソは無いから、本当のことである、とは言えない。何を事実として選ぶか、歴史観、価値観の課題がある。

アーカイブズ学は、未来のために記録を残す。では、何をもって、残すべき記録をえらぶのか。アーカイブズ学の専門性とは、いったいどこにあるのか。

なお、施設としては、遊就館は、M(ミュージアム)に該当する。A(アーカイブズ)ではない。しかし、だからといって、未来に残すべき、記録(事実)とは何であるべきかの議論の対象にならない、ということはない。

展示のなかに、太田実(海軍少将)の最後の打電があった。

沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

これは、未来のために(いや、それ以前に、今の我々のために)残すべき記録であり、公文書ではないのであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『『こころ』は本当に名作か』2009-05-01

2009/05/01 當山日出夫

小谷野敦.『『こころ』は本当に名作か』(新潮新書).新潮社.2009

面白い。何をもってして「文学」と認定するか、また、それを名作・傑作と見るか、客観的な基準があるわけではない。

私は、文学部国文科の出身である。そのとき、「私は、まだ、不勉強なので、○○の作品のおもしろさがわかりません」という、言説をよく耳にした。まあ、確かに、この本の著者(小谷野敦)も認めるように、作者の境遇、読者の環境や知識のレベルにおいて、ある作品への共感や理解の程度は変わってくる。

私個人としては、ドストエフスキーは面白いと思う。『罪と罰』、次の巻がまだ出ない。別に、キリスト教徒、ロシア正教、ロシア人、でなくとも、メタのレベルでみれば、「ふ~ん、なるほど、そういう問いかけもあるのか」と、思って読めばいいではないか。

それから、日本の近代においては、「文学」が「思想」「哲学」のかわりをになってきた、という考え方は、いまでは、どうなっているのだろうか。現在の、日本近代文化史には疎いので、よくわからない。

だが、この意味では、夏目漱石の作品が、今でも人気があるのは、当然かなと思う。

筆者は、最後で、このように書いている。

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おそらく漱石は人生論的に、ドストは宗教書的に読まれているのだろう。文学は読まなくても、人生論や宗教書は読む、それもまた庶民の昔ながらの姿だ。
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宗教的価値観や、人生論(人間の生き方)を排除してしまった、文学とは何だろうか。純粋な「美」が、文化とともにある言語による「文学」として成立するか。あるいは、「ものがたり」のおもしろさか。このあたり、言い尽くされている議論と思う。

ともあれ、個人的に蛇足をひとつ。現代日本における児童文学の名作。私としては、『ルドルフとイッパイアッテナ』(斎藤洋)を、あげておきたい。ただ、これも、ある意味では人生論である。私の認識するところ、もっともすぐれた「教養小説」である。

さて、『朝日ジャーナル』創刊50年 怒りの復刊 をどう読むか。いや、その前に、『時間発下り列車』(清水義範)を読まないと。

當山日出夫(とうやまひでお)

右手にジャーナル2009-05-01

2009/05/01 當山日出夫

『朝日ジャーナル 創刊50年 怒りの復活』の巻頭言。

もう、こんなことばを知っているのは、私ぐらいの年代以上かもしれない。「右手にジャーナル、左手にマガジン」。

『朝日ジャーナル』が、存在感をもっていたとき、そのころが、同時に、大学生が漫画(あえてマンガではなく漫画と書く)を読むようになったと、社会的話題になったときでもある。つまり、「マガジン」は『少年マガジン』。

それが、今、「漫画」は「マンガ」となり、世界における日本を代表する文化的存在になった。「マンガ」の隆盛とともに、「論壇」は衰退の道を歩む。『朝日ジャーナル』はなくなり、それをうけついだ『論座』も消える。『アエラ』は、お受験雑誌に堕した。『月刊現代』もなくなる。そして、『諸君!』も、ついに、その最終号が刊行。

ただ、私の場合、学生のころの自分の体験としては、「右手にジャーナル、左手に諸君」であった。(注、この箇所、意図的に「右・左」をつかいわけて書いている。)

故・筑紫哲也(元・朝日ジャーナル編集長)が、NEWS23で使ったことば、「多事争論」。ブログ論壇の喧噪のなかに拡散していくのであろうか。

「知的虚栄心」を私は失いたくない。

當山日出夫(とうやまひでお)