『理系バカと文系バカ』2009-05-04

2009/05/04 當山日出夫

竹内薫.『理系バカと文系バカ』(PHP新書).PHP研究所.2009

CH(人文科学とコンピュータ)とか、DH(デジタル・ヒューマニティーズ)というような分野にかかわりはじめて、かなりになる。いろいろと、いわゆる「文理融合」ということについて、考えることがあった。

個人的には、理系バカも文系バカもいない。いるのは、バカだけである。バカには、文系も理系もない。また、逆に、優秀な人はいる。そういう人にとっては、また、文系も理系もない。

そういえば、『バカの壁』という本があったが(いまもあるが)、壁のむこうがわにいる人間と、こちら側にいる人間、このようにわけた方が、わかりやすい。

とはいえ、やはり、文系・理系の違いがあるのは、現実の社会のあり方。それは、「文系・理系」というカテゴリを設定してしまっている、今の、日本の社会(特に、学校教育)のあり方が、そもそもの問題と思う。

以下、雑感。

特に、中学・高校での、教師の資質が大きいと、個人的には思う。それと、個々の生徒の特性。

私の場合、国語でも、古典は非常によくわかった(いわゆる学校古典文法は大好きだった)、しかし、現代国語は、さっぱりであった(かろうじて平均ぐらいか)。一方、数学はどうかというと、幾何・図形をあつかう分野は、問題を見た瞬間に答えがわかる、試験の時間は、あまった時間が退屈でしかたがなかった。ところが、計算式を解くような分野になると、さっぱりわからない(これも、かろうじて平均ぐらい)。

まあ、文学・歴史が好きだったので、文学部国文科、そして、国語学を学ぶという方向をえらんだ。

ところで、いま、実際に、CHやDHにかかわっている、いろんな大学の先生と話しをして感じること。大学になってからの、教育システムの違い。

大学で、理系であれば、まず、微分・積分、とすすんでいく。この教育課程は、基本的に、どの大学でも同じ(学生のレベル差はあるかもしれないが。)いわば、暗黙のうちの、共通カリキュラムがある。いまでは、それに、コンピュータのプログラミング実習など、ふくまれるだろう。

ところが、文系であれば、暗黙の共通カリキュラムがない。確かに、共通する、暗黙知はある。だが、それは、形式的におもてにあらわれにくい。きわめて深いとことで、通底している。だが、これは、非常に強固なものである。

文理融合・文理連携をいうならば、まず、文学部でのカリキュラムや教育方法、逆に、理学部・工学部でのカリキュラムや教育方法、これを、相互に、提示し観察し話し合うことが、重要かと思う。

理系といっても、「理」と「工」では考え方が違うだろうし、文系といっても、文学研究と、言語理論の研究は違う。だが、大局的に、文理を総合する、リベラルアーツが必要になってきていることは確かである。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記
「文理」を「分離」と誤記してあったので訂正。2009/05/04

『ARG』373号を読んで2009-05-04

2009/05/04 當山日出夫

『ARG』373号を読んで、感じたことなど。

まずは、文部科学省の「デジタルミュージアム」構想である。実際、どこが名乗りをあげ、どこが獲得することになるのかは、分からない。しかし、「官」の主導とはいえ、ここまで、時代が変わったことは確かである。

単にプロトタイプとして語るのではなく、すでに、デジタルミュージアムが現実のものになっていることを実感。今後、この流れとして、この私のブログでも述べてきたように「MLA+D」の方向を、どのように具現化させるか、一緒に考えなければならない。つまらないことで、ナワバリ争いをしているときではない。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20090503/1241351358

それから、どうでもいいようなことかもしれないが、

松村真宏・三浦麻子著『人文・社会科学のためのテキストマイニング』(誠信書房、2009年、2520円)

この本、いまだに手にはいらない。最初、AmazonからDMで知った。折り返し、注文の手続き。しかし、いっこうにこない。で、しばらくして、入荷があおくれますのメール。

一方、本やタウンでも、まだ、登録されていない。日販があつかっていない、ということは、まだ未刊ということかな。

と、ひとのことはいっていられない。出るはずの『論集文字』(第1号)、実は、もうすこし。でも、これはこれで、第2号の編集と、第3回のWS(文字研究会)の企画をすすめるつもり。

當山日出夫(とうやまひでお)


『諸君!』最終号2009-05-04

2009/05/04 當山日出夫

歴史に「もし」はないが、とはよくいう。だが、もし、『諸君!』が無くなるということがなければ、『朝日ジャーナル』の「怒りの復活」もありえなかったかもしれない。

その最終号(2009年6月号)が、手元にある。

『諸君! -最終号特別企画 日本への遺書-』.文藝春秋.2009年6月

論壇の栄枯盛衰、これもまた、「動的平衡」のひとつのありかたであろう。ちなみに、『動的平衡』(木楽舎、2009)の著者、福岡伸一氏も寄稿している。

ただ、『朝日ジャーナル』『諸君!』が、体現してきた、雑誌言論における「マナー」が、今後どうなるか。『諸君!』最終号には、佐々木俊尚氏の「ネット論壇時評」が掲載。そこには、「きちんとネットの声に耳を傾け、ネットのざわめきに君を澄ませる努力さえ怠らなければ、ネットの側はいつでもマスメディアと補完関係を作り出す用意はできているのだ。」とある。

だが、雑誌論壇が滅亡にちかづきつつあるとき、逆に、ネット過信も、新たな問題となりかねない。『ウェブはバカと暇人のもの-現場からのネット敗北宣言』(光文社新書)。

當山日出夫(とうやまひでお)