採点はつらい2009-08-03

2009-08-03 當山日出夫

一年のいろんな仕事のうちで一番つらいのが試験の採点。気分的につらい。

ただ単にものを知らない、不勉強、かんちがい、というのは理解の範囲。このごろ、この範囲をこえる答案とかレポートが多くなった。

「~~について、どのような証拠があるか記しなさい」、このような設問に対して、「テキストの**ページに書いてあります」。確かに、ページはあっているとしても、これが、「答案」だろうかと、おもわずペンをとりおとしてしまった。

レポートとなると、ビジネスには、きちんとした文書作成能力が必要なんだよ、と教えるところから必要かと思ってしまう。特に、アカデミックなスタイルを要求するということはしないけれどもねえ。

8月になって、このブログを作っているアサヒネットで新しいデザインが出来たので、またまた変更。とりあえず、Firefox(3.5)、IE(8)、GoogleChrome、で確認。少し、文字のレイアウトが違って見えるが、まあいいか。

アサヒネットのブログのデザイン、メイリオを基調とするものが増えた。これも時代の流れか。ただ、個人的には、もうひとまわり字が大きい設定の方がいいのだけれど。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』386号の感想2009-08-03

2009-08-03 當山日出夫

『ARG』386号についてすこし。今回の号は、二つにわかれているが、まず、最初の、

羅針盤「法学教員と図書館員がもっと仲良くなるために」(齊藤正彰)

について。

率直に言って、こういう企画ができるのは、実務的な法学の世界だからこそかな、という気がしないでもない。これが、(とりあえず私の専門ということになるが)日本語学、文字論、のような分野では、たぶん、「無理」。

確かに、論文検索や、先行研究の調査は、必要である。そして、こういうことがらについて、図書館の人と一緒になって、ということも必要だと思う。これは、ある意味でうらやましい。

判例の蓄積、ということは、やはり法律の分野だからできるリサーチであるといってよいのではなかろうか。ここでは、リーガル・マインドと、図書館とが、結びつく要素がある。

これを、人文学研究一般にとなると、かなりハードルが高いように思えてならない。私の感じるところ、理由は、次の二つ。

第一に、従来の「知」の枠組みが、あまりに狭く、強固であること。
第二に、そして、それを超えようとしたときには、逆に、とめどもなく広範囲に拡散してしまうこと。

こう思うのは、法律の場合、ある一定の安定性が確保されている、ということを感じるからでもある。安定性がなければ、法律は機能しない。また、完全にガチガチに固まってしまっても、時代に合わなくなる。時代の流れにそって、新しい解釈がうまれ、また、新しく法律も変わっていく。この流れの速度と、教育とがうまく合致すると、図書館と教育は仲良くなれる。

たまたまであるが、今、私がとりくんでいることのひとつ。新常用漢字表。これについて、図書館で調べようとおもったら、どんな情報が得られるか。せいぜい新聞のいくつかの記事ぐらいだろう。今は、図書館は、カラッポである。

だが、これが、10年後にはどうなっているだろうか、予想できない。

ともあれ、

http://web.mac.com/inlawlr/2009/Welcome.html

http://d.hatena.ne.jp/arg/20090803/1249290099

には、非常に興味がある。こういうのが、人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)で実現できないものかと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

教師を教師と称する学生2009-08-03

2009-08-03 當山日出夫

このごろ気になる学生のことばづかい。

学生に課題をあたえる。それを、見る。問題点があれば、指摘する。これは、ごくあたり前のことだろうと、まず、私は思う。

「なぜ、このように書いたの?」
「教師にそう指示されたからです」

これを、不自然に思わないのだろうか。その「教師」は、まさにその学生の目の前にいるのである(=私)。私の感覚であれば、

「先生がそのように指示したからです」

と「先生」ということばをつかう。この場合の「先生」は、第二人称としての用法。

ここで私が感じるのは、その学生が、教師・先生という人に対して持っている絶望的な不信感の溝である。基本的な信頼関係の無いところに、教育はなりたたない。

當山日出夫(とうやまひでお)