本とデジタルと図書館2009-08-29

2009-08-29 當山日出夫

以下、思いつくままに。

ARGフォーラム「この先の本のかたち」に関連して、いろんなブログなどを読んでみる。そうすると、本というものが、二つの方向から見えてくる。

ARG
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090829/1251531817

第一には、本を情報のメディアとしてみれば、デジタル化することによって、解体できる。「1冊の本」から、特定の文章を抜き出して再構築が可能になる。いってみれば、デジタル化された書物が具体化することによって、本が「編集」されたものである、ということが、実感として分かってきた。

この意味では、出版社の役割というのは、まさに「編集」の仕事である、ということになるのかもしれない。

この一方で、逆の視点がある。

第二に、本をたくさん集めると、おのずと秩序がある。そして、そのことによって、ある「知」を形成するということ。

いま、私の書斎では、文字関係の本と、色彩学関係の本が、ならんでいる。これが、通常の図書館であれば、言語学・美術・工学(光学)関係と、バラバラになる。私の場合、人間がどのように文字を見るのか、視覚との関係、さらには、色覚異常(医学用語で)と文字との関係、などの関心から、このような並びになる。

このようなことは、誰であっても、ある程度の本を持っているときには、かならずおこる。それぞれに独自の知の秩序を生み出す。このときには、本は、それが一つの単位になる。

あるいは、神保町あたりの専門の古書店の本棚のならび、これを見る方が、下手な教科書を読むより勉強になる、とでもいえようか。

グーグルブックサーチ、国会図書館のデジタル化、そして、神保町の古書店さえもネット上でデジタル化されている。否定的に見れば、経験的な知の蓄積の秩序の崩壊、である。しかし、一方では、新たな知の秩序の再構築になる。

では、それをになうのは、個人であるのか、組織であるのか。どのようであれ、知に秩序をもたらすためには、軸となるものが必要。その価値観を、だれが、どのように提供するのか、構築するのか。それは、ローカルで伝統的なものなのか、グローバルで普遍的なものなのか。

ありきたりの議論ではあるかもしれない。しかし、ここにきて、急速に「現実」のものになってきたことは確かである。

當山日出夫(とうやまひでお)

JADSうらばなし2009-08-29

2009-08-29 當山日出夫

本当は、もうちょっと落ち着いてからでいいかと思っていた。まだ、暑いし。

JADS(アート・ドキュメンテーション学会)の機関誌『アート・ドキュメンテーション研究』第16号。これの目次が、

Daily Searchivist
http://d.hatena.ne.jp/searchivist/20090820

に掲載されているし、メールマガジンでも掲載。正直に言ってしまえば、「Daily Searchivist」のメールマガジンを見て、おどろいた。これは、いくらなんでもまずい、本家のホームページに未掲載のものを、載せられてしまっては、面目がつぶれるではないか・・・

あわてて、役員の担当の方々に連絡して、バックナンバーの目次の遡及入力となった。ともあれ、無事にすみやかにホームページが更新できた。協力してくださった関係の役員の方々に感謝したい。

学会のホームページでは、次に掲載。目次のみ。

アート・ドキュメンテーション研究
http://www.jads.org/pub/kenkyu.html

アート・ドキュメンテーション通信
http://www.jads.org/pub/tsushin.html

ただ、これも、『通信』の方が、創刊号から最新の82号まで、ずらっと並んでいるだけなので、整理しなければならない。また、将来は『研究』『通信』ともに、デジタル版も視野にいれなければならない。

まだまだ、やるべきことは残っている。というよりも、新しい時代に対応して、学会ホームページも変わらなければならないと思う。ただ、思う、だけではいけないのであるが。

當山日出夫(とうやまひでお)

SnowLeapard2009-08-29

2009-08-29 當山日出夫

欲しいのである。MACで、SnowLeopardが。買えないことはない。ただ、ひとつだけの問題は、東プレ製のキーボードが、そのままつかえない(メーカが作ってくれない)こと。

「ノマド」と違って、定住農耕民的人間なので、自分の書斎の自分の机の自分のキーボードでないと、ダメなのである。

當山日出夫(とうやまひでお)