「公表したものは共有財産」について ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
寒くなってきた ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
今日あたりから急に寒い。書斎は、床を頑丈につくって、本棚優先のつくりなので、ゆかがポカポカというわけにはいかない。それに、ゆかには本の山の山の山~~~であるし。
しかたないので、机のしたに、ホカホカのカーペットをおいてある。ちょうど足をのせるだけのちっちゃいの。今日から、電源をつないでオンにした。
ま、ようするに、そろそろ「冬眠」のシーズンであって、のんびりせよとの、天の声であろうと理解する。
當山日出夫(とうやまひでお)
今日あたりから急に寒い。書斎は、床を頑丈につくって、本棚優先のつくりなので、ゆかがポカポカというわけにはいかない。それに、ゆかには本の山の山の山~~~であるし。
しかたないので、机のしたに、ホカホカのカーペットをおいてある。ちょうど足をのせるだけのちっちゃいの。今日から、電源をつないでオンにした。
ま、ようするに、そろそろ「冬眠」のシーズンであって、のんびりせよとの、天の声であろうと理解する。
當山日出夫(とうやまひでお)
カレーなべ異聞 ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
さて、どうでもいいような話し。こんなことを書いているのは、肝心の仕事がすすまないからでもある(^^;)
昨夜の晩ご飯は、「カレーナベ」。要するに、カレー味の鍋料理である。しかしながら、通常の「なべ」のごとく、うどんを入れて食するとなったとき、ふと思った。これって、「カレーうどん」とどうちがうのか。
食べた感触、食感というべきかは、まさに、カレーうどんそのものである。ならば、はじめから、具だくさんのカレーうどんにすればいいのではなかったろうか。
冬眠のシーズンには、カレーうどんがよく似合うのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
さて、どうでもいいような話し。こんなことを書いているのは、肝心の仕事がすすまないからでもある(^^;)
昨夜の晩ご飯は、「カレーナベ」。要するに、カレー味の鍋料理である。しかしながら、通常の「なべ」のごとく、うどんを入れて食するとなったとき、ふと思った。これって、「カレーうどん」とどうちがうのか。
食べた感触、食感というべきかは、まさに、カレーうどんそのものである。ならば、はじめから、具だくさんのカレーうどんにすればいいのではなかったろうか。
冬眠のシーズンには、カレーうどんがよく似合うのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
JADSキャリア支援SIG第2回公開研究会 ― 2009-10-12
2009-10-12 當山日出夫
JADS(アート・ドキュメンテーション学会)には、SIGがある。そのなかの一つ、キャリア支援SIG。研究会の情報が流れてきたので(学会ブログには、私が流したのだが)、ここでも紹介をしておく。一応、会員向けということになっている。この学会・SIGの活動に興味のある方は、連絡してみてはいかがかと思う。
JADS:アート・ドキュメンテーション学会 BLOG
http://d.hatena.ne.jp/JADS/
JADSキャリア支援SIG第2回公開研究会
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20091012/1255316132
以下、引用。
>>>>>
キャリア支援SIGでは、本年3月28日(土)「アーキビストをめざして-プロフェッショナルへの挑戦」と題して第1回の公開研究会を開催しました。MLAの各分野で活躍するJADSの先輩のお話を伺いながら、キャリア形成についての情報交換等を行うことを趣旨とした研究会で、院生など次世代を担う若者たちが「背中を見て学ぶ」ことをねらいとしています。好評につき、ここにその第二弾を企画することにいたしました。
テーマ:達人に学ぶ―書誌・索引づくりの意義と心構え、
講師:恵光院白氏(元武蔵野美術大学図書館)
図書館常備の美術参考図書となっている『美術家索引 日本・東洋篇』(1991)、『同 西洋篇』(1992)をはじめ、多数の美術関係書誌・索引、年譜類の編纂を手掛け、我が国におけるアート・ドキュメンテーションの草分けの一人である恵光院白氏は、長年にわたる美術図書室勤務ののち、今も、哲学者森有正や『扶桑名画伝』編纂者・堀直格の伝記調査などを、生涯をかけた仕事として継続されています。
その業績が高く評価され、第3回野上紘子記念アート・ドキュメンテーション推進賞(アート・ドキュメンテーション学会 2009年度)を受賞されています。
このたびの研究会では、今、氏が精力的に取り組まれている調査をご発表頂くとともに、それを題材に書誌・索引づくりの意義と心構えを学んでいきたいと考えます。
日時:10月26日(月)15:00~
会場:駿河台大学 メディアセンター3階、グループ学習室
プログラム:
15:00
開会 趣旨説明。
15:10
"堀直格、花迺家文庫、同周辺研究に於ける文献資料[現]所蔵館"
恵光院白氏の講演です。幕末明治と平成の現在との資料展開の緊張関係の場面をご披露して頂きます。
15:50
休憩(10分)
16:00
恵光院白氏を囲んで、ご講演の内容を題材に、書誌や索引づくりの意義、心構え、調査方法などについてディスカッションさせて頂きます。
17:00
終了 懇親祝賀会に参加されない方は、ここで解散です。
17:15
スクールバス発 飯能駅まで約10分
17:35
飯能発 特急むさし36号(車内でも恵光院白氏と懇談できます)
18:16
池袋着 懇親祝賀会場へ移動
18:30
懇親祝賀会
恵光院白氏の野上紘子記念アート・ドキュメンテーション推進賞受賞のお祝いも兼ねた懇親会です。JADSキャリア支援SIG第2回公開研究会に出席できなかったJADS会員有志の方も是非、御参加下さい。
※会場、会費未定。参加希望の方には、後日、連絡いたします。
参加申込:
参加ご希望の方は、会場準備の都合上10月20日(火)までに、懇親祝賀会参加の有無を明記の上、下記宛にご連絡をお願いします。
メールアドレス:BXQ10030■nifty.com 本SIG事務局 毛塚宛
参加費:無料
主催:アート・ドキュメンテーション学会 キャリア支援SIG
<<<<<
以下略。より詳しくは、学会ブログを参照してください。
當山日出夫(とうやまひでお)
JADS(アート・ドキュメンテーション学会)には、SIGがある。そのなかの一つ、キャリア支援SIG。研究会の情報が流れてきたので(学会ブログには、私が流したのだが)、ここでも紹介をしておく。一応、会員向けということになっている。この学会・SIGの活動に興味のある方は、連絡してみてはいかがかと思う。
JADS:アート・ドキュメンテーション学会 BLOG
http://d.hatena.ne.jp/JADS/
JADSキャリア支援SIG第2回公開研究会
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20091012/1255316132
以下、引用。
>>>>>
キャリア支援SIGでは、本年3月28日(土)「アーキビストをめざして-プロフェッショナルへの挑戦」と題して第1回の公開研究会を開催しました。MLAの各分野で活躍するJADSの先輩のお話を伺いながら、キャリア形成についての情報交換等を行うことを趣旨とした研究会で、院生など次世代を担う若者たちが「背中を見て学ぶ」ことをねらいとしています。好評につき、ここにその第二弾を企画することにいたしました。
テーマ:達人に学ぶ―書誌・索引づくりの意義と心構え、
講師:恵光院白氏(元武蔵野美術大学図書館)
図書館常備の美術参考図書となっている『美術家索引 日本・東洋篇』(1991)、『同 西洋篇』(1992)をはじめ、多数の美術関係書誌・索引、年譜類の編纂を手掛け、我が国におけるアート・ドキュメンテーションの草分けの一人である恵光院白氏は、長年にわたる美術図書室勤務ののち、今も、哲学者森有正や『扶桑名画伝』編纂者・堀直格の伝記調査などを、生涯をかけた仕事として継続されています。
その業績が高く評価され、第3回野上紘子記念アート・ドキュメンテーション推進賞(アート・ドキュメンテーション学会 2009年度)を受賞されています。
このたびの研究会では、今、氏が精力的に取り組まれている調査をご発表頂くとともに、それを題材に書誌・索引づくりの意義と心構えを学んでいきたいと考えます。
日時:10月26日(月)15:00~
会場:駿河台大学 メディアセンター3階、グループ学習室
プログラム:
15:00
開会 趣旨説明。
15:10
"堀直格、花迺家文庫、同周辺研究に於ける文献資料[現]所蔵館"
恵光院白氏の講演です。幕末明治と平成の現在との資料展開の緊張関係の場面をご披露して頂きます。
15:50
休憩(10分)
16:00
恵光院白氏を囲んで、ご講演の内容を題材に、書誌や索引づくりの意義、心構え、調査方法などについてディスカッションさせて頂きます。
17:00
終了 懇親祝賀会に参加されない方は、ここで解散です。
17:15
スクールバス発 飯能駅まで約10分
17:35
飯能発 特急むさし36号(車内でも恵光院白氏と懇談できます)
18:16
池袋着 懇親祝賀会場へ移動
18:30
懇親祝賀会
恵光院白氏の野上紘子記念アート・ドキュメンテーション推進賞受賞のお祝いも兼ねた懇親会です。JADSキャリア支援SIG第2回公開研究会に出席できなかったJADS会員有志の方も是非、御参加下さい。
※会場、会費未定。参加希望の方には、後日、連絡いたします。
参加申込:
参加ご希望の方は、会場準備の都合上10月20日(火)までに、懇親祝賀会参加の有無を明記の上、下記宛にご連絡をお願いします。
メールアドレス:BXQ10030■nifty.com 本SIG事務局 毛塚宛
参加費:無料
主催:アート・ドキュメンテーション学会 キャリア支援SIG
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以下略。より詳しくは、学会ブログを参照してください。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (2)『古語雑談』など ― 2009-10-15
2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
『ARG』395号の感想(学生版):南極ワンダー ― 2009-10-15
2009-10-15 當山日出夫
『ARG』の感想、授業で学生と一緒に読んでいるので、一週間ずれてしまうのだが、御容赦。
395号では、おもに紹介したのが、
◆文部科学省、南極ワンダーを公開(2009-07-16)
⇒ 元記事:
http://d.hatena.ne.jp/arg/20091005/1254670616
と、「渋沢財団」の「絵引」。絵引のすばらしさは、もう言うまでもないとおもうので、ここでは、南極ワンダーについて、すこし。
私は、授業でつかう以上、ひととおり、すべてのリンクをクリックしてみる。そして、できれば、その一歩先まで見てみる。
で、南極ワンダー、これには重要な問題があると思えてならない。一見すると、子供向けに、ペンギンがでてきて楽しめるサイト、サイエンスコミュニケーションの見本のようなサイトではあるが、さて。
>>>>>
『南極ワンダー』についてだが、そもそも子供を対象としたサイトであるなら、「南極」もひらがなにするか、またはふりがなをふるべきなのではないかと思う。トップページの「旅立とう」なども、同様のことが言えるのではないか。
名前の記入に関しては、「サイトのご利用規約」が下にあっても、名前を使う用途がわからず、不信感を抱いてしまった。
<<<<<
別の学生、
>>>>>
南極ワンダーの個人情報取り扱い方針の件だが、登録した名前は保存されている(図1)。下図は、私の名前=”NHK”、相棒の名前=”TBS”として登録した場合の画面だが、ツアーを中断した時、相棒の”TBS”の台詞として「ここまでの ぼうけんは TBSが しっかり きろく してるからね!」と表示される。その後、南極ワンダーを再訪問すると続きから表示できる(図2)
(當山の注:この学生、画面をキャプチャ、Alt+PrintScreenで記録してはりつけて、レポートにしている。)
<<<<<
つまり、こういうことである。南極ワンダーは、サイトに入っていくと、「なまえ」を入力する画面になる。これは、子供向けのサイトである。軽々と、自分の名前を、インターネットで入力していいものか、どうか、今の教育ではどう教えるか。
ここで入力の名前は、ずっと記憶されるのか、あるいは、ここを見ている間だけのもので、ログアウトすると消えるのか……このあたりのポリシーが、まったく説明がないまま、いきなり、なまえ入力画面になる。
特に、子供向けのサイトであるからこそ、このように、WEB上での名前(場合によっては、個人名を入力する子供もいるだろう)のことを、配慮すべきではないか。
正直に言って、私は、この南極ワンダー、名前入力の画面が出た途端に、先に進んで見てみようとい気がいっぺんになくなってしまった。したがって、見ていない。(強いて言おう、このような設計は、評価以前の問題である。)
當山日出夫(とうやまひでお)
『ARG』の感想、授業で学生と一緒に読んでいるので、一週間ずれてしまうのだが、御容赦。
395号では、おもに紹介したのが、
◆文部科学省、南極ワンダーを公開(2009-07-16)
⇒ 元記事:
http://d.hatena.ne.jp/arg/20091005/1254670616
と、「渋沢財団」の「絵引」。絵引のすばらしさは、もう言うまでもないとおもうので、ここでは、南極ワンダーについて、すこし。
私は、授業でつかう以上、ひととおり、すべてのリンクをクリックしてみる。そして、できれば、その一歩先まで見てみる。
で、南極ワンダー、これには重要な問題があると思えてならない。一見すると、子供向けに、ペンギンがでてきて楽しめるサイト、サイエンスコミュニケーションの見本のようなサイトではあるが、さて。
>>>>>
『南極ワンダー』についてだが、そもそも子供を対象としたサイトであるなら、「南極」もひらがなにするか、またはふりがなをふるべきなのではないかと思う。トップページの「旅立とう」なども、同様のことが言えるのではないか。
名前の記入に関しては、「サイトのご利用規約」が下にあっても、名前を使う用途がわからず、不信感を抱いてしまった。
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別の学生、
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南極ワンダーの個人情報取り扱い方針の件だが、登録した名前は保存されている(図1)。下図は、私の名前=”NHK”、相棒の名前=”TBS”として登録した場合の画面だが、ツアーを中断した時、相棒の”TBS”の台詞として「ここまでの ぼうけんは TBSが しっかり きろく してるからね!」と表示される。その後、南極ワンダーを再訪問すると続きから表示できる(図2)
(當山の注:この学生、画面をキャプチャ、Alt+PrintScreenで記録してはりつけて、レポートにしている。)
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つまり、こういうことである。南極ワンダーは、サイトに入っていくと、「なまえ」を入力する画面になる。これは、子供向けのサイトである。軽々と、自分の名前を、インターネットで入力していいものか、どうか、今の教育ではどう教えるか。
ここで入力の名前は、ずっと記憶されるのか、あるいは、ここを見ている間だけのもので、ログアウトすると消えるのか……このあたりのポリシーが、まったく説明がないまま、いきなり、なまえ入力画面になる。
特に、子供向けのサイトであるからこそ、このように、WEB上での名前(場合によっては、個人名を入力する子供もいるだろう)のことを、配慮すべきではないか。
正直に言って、私は、この南極ワンダー、名前入力の画面が出た途端に、先に進んで見てみようとい気がいっぺんになくなってしまった。したがって、見ていない。(強いて言おう、このような設計は、評価以前の問題である。)
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (3)校訂権など ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
学会でしばらく留守に ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
これからの予定
16日(今日)新横浜で午後からひとつ仕事 夜、東京に行って寝る(宿泊)
17日(明日)国立西洋美術館で、アート・ドキュメンテーション学会。これは役員だし、立命館からも何人か発表である、同志社からも。欠席するわけにはいかない。
http://www.jads.org/news/2009/1017.html
18日(明後日)東京大学山上会館で、訓点語学会。これは、研究発表。共同発表である。今回の私の立場は、全体のとりまとめ的なものであるので、実際に前に出て話しをすることはないが、やはり、一番の責任がある。緊張する。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kuntengo/
19日(明明後日)東京で、漢字の研究会。終わったら、帰る。
20日(さらにその次の日)我が家の近くの某施設で仕事。これは、仕方ないので、休講にした。公務、ということで。たまたま、補講はなんとか、都合がつく。
レッツノートは持っていくが、宿からブログ更新の元気があるかどうかは、微妙。むしろ、Twitterに向かう可能性がある。つかいわける方向に整理しないと、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
これからの予定
16日(今日)新横浜で午後からひとつ仕事 夜、東京に行って寝る(宿泊)
17日(明日)国立西洋美術館で、アート・ドキュメンテーション学会。これは役員だし、立命館からも何人か発表である、同志社からも。欠席するわけにはいかない。
http://www.jads.org/news/2009/1017.html
18日(明後日)東京大学山上会館で、訓点語学会。これは、研究発表。共同発表である。今回の私の立場は、全体のとりまとめ的なものであるので、実際に前に出て話しをすることはないが、やはり、一番の責任がある。緊張する。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kuntengo/
19日(明明後日)東京で、漢字の研究会。終わったら、帰る。
20日(さらにその次の日)我が家の近くの某施設で仕事。これは、仕方ないので、休講にした。公務、ということで。たまたま、補講はなんとか、都合がつく。
レッツノートは持っていくが、宿からブログ更新の元気があるかどうかは、微妙。むしろ、Twitterに向かう可能性がある。つかいわける方向に整理しないと、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (4)公共性とは何か ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
図書館は本を棄てるな ― 2009-10-20
2009-10-20 當山日出夫
twitterの図書館関係、出版関係で、話題になっている。
#metrolib
ポット出版からの情報
http://www.pot.co.jp/asayake/20091017_221422493914656.html
朝焼けの図書館員
救いたい!
以下、一部引用
>>>>>
10/9(金)に、東京都立中央図書館から都内各自治体の図書館長宛にFAXが送信された。
実際に直接そのFAXに目を通してはいないので詳細は不明ながら、斎藤さんの話から内容をまとめると、概ねこんな感じであった。
・多摩図書館が所蔵していた多摩地域資料約7万冊と雑誌など併せて、 計約8万冊を処分することにした。
・引き取りたい館は、10/23(金)までに直接取りにくること。
通達から2週間ということは、図書館の稼働日で言えば約10日間。
引き取る側の負担で取りに行くのだから、当然費用がかかる。
各市区町村立図書館が引き取りを決断し、役所と予算流用とか補正予算とかの話をつけようとしても、図書館と役所の稼働日が普通はズレている上に、この間に運悪く体育の日が入っているので、調整には恐らく2~3日しか猶予がないだろう。
しかも何万冊を引き取るには運送業者の手を借りざるを得ないだろうから、そちらの手配も厳しいだろうと思う。
これでは、廃棄する前提でアリバイとしてFAXを流しただけと解釈されても仕方ないだろう。
<<<<<
アーカイブズの理想を忘れるな!
みずからが みんなのために みらいにむけて
地域資料など、将来、「みらい」の「みんな」の貴重な財産である。MLA連携にむけて、現実の問題もあるが、理想をわすれてはならない。
當山日出夫(とうやまひでお)
twitterの図書館関係、出版関係で、話題になっている。
#metrolib
ポット出版からの情報
http://www.pot.co.jp/asayake/20091017_221422493914656.html
朝焼けの図書館員
救いたい!
以下、一部引用
>>>>>
10/9(金)に、東京都立中央図書館から都内各自治体の図書館長宛にFAXが送信された。
実際に直接そのFAXに目を通してはいないので詳細は不明ながら、斎藤さんの話から内容をまとめると、概ねこんな感じであった。
・多摩図書館が所蔵していた多摩地域資料約7万冊と雑誌など併せて、 計約8万冊を処分することにした。
・引き取りたい館は、10/23(金)までに直接取りにくること。
通達から2週間ということは、図書館の稼働日で言えば約10日間。
引き取る側の負担で取りに行くのだから、当然費用がかかる。
各市区町村立図書館が引き取りを決断し、役所と予算流用とか補正予算とかの話をつけようとしても、図書館と役所の稼働日が普通はズレている上に、この間に運悪く体育の日が入っているので、調整には恐らく2~3日しか猶予がないだろう。
しかも何万冊を引き取るには運送業者の手を借りざるを得ないだろうから、そちらの手配も厳しいだろうと思う。
これでは、廃棄する前提でアリバイとしてFAXを流しただけと解釈されても仕方ないだろう。
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アーカイブズの理想を忘れるな!
みずからが みんなのために みらいにむけて
地域資料など、将来、「みらい」の「みんな」の貴重な財産である。MLA連携にむけて、現実の問題もあるが、理想をわすれてはならない。
當山日出夫(とうやまひでお)
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