図書館への雑誌寄付2009-11-01

2009-11-01 當山日出夫

先に書いた記事「図書館に雑誌を寄付する」でGoogleで検索。自分のがトップに出るのは当然としても、他のいくつかの図書館の事例がヒットする。

図書館に雑誌を寄付する
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/10/30/4662041

たとえば、
越前市立図書館(これは、よみおわったもの)
厚狭図書館(これは、有志が資金を提供して)
などがみつかる。

一方で、

真庭市立図書館では、古くなった雑誌を廃棄せずに、逆に、市民に寄付するとしている。

雑誌に限らず、いらなくなった書籍類の、寄付(市民→図書館、逆に、図書館→市民)というリサイクルの流れがあるといい。少なくとも、図書館で不要、即、断裁、という処分をする前に、このような方法をさぐってみるべきだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

今泉棚2009-11-01

2009-11-01 當山日出夫

その当時、意識していたわけではない。ただ、池袋の西部ブックセンターに行くと、独特のコーナーがある……というぐらいの感じだった。それが、いまでは、書店・出版史にのこる伝説の「今泉棚」であるということを知ったのは、いつのころになってからであろうか。

おそらく、書店というものの、知の情報発信力が衰えてからのことではないか、こんなふうに気取って言ってみることもできよう。

たしかに大型の書店は増えた。しかし、その書店の中に入って、ざっと見渡して瞬間的に、この書店は本を知っていると感じさせる本屋さんが無くなってきた、ということは確かだろう。

神保町の専門の古書店もそうであるが、本を知っている書店の本の品揃えというのは、最良の教師でもある。

私のわかる範囲でいえば、人文学書の新刊で、センスのいい品揃え、という書店は少ない。たまに東京に行って、いろいろ見てみたい気もするが、財布の方がもたない。

さて、今度、東京に行ったとき、丸善に行って、松丸本舗を見てくるかどうか(それよりも、その時間があるかどうかが問題であるが、東京駅から近いからどうにかなるだろう。)

気になるブログ
丸山高弘の日々是電網:お料理的読書のススメ あるいは 知のレシピブック
http://maru3.exblog.jp/9183445/

當山日出夫(とうやまひでお)

『仕事で使える! Twittter超入門』2009-11-02

2009-11-02 當山日出夫

このところ、Twitter関係の本が、陸続と出る。その一冊。

小川浩.『仕事で使える! Twittter超入門』(青春新書).青春出版社.2009
http://www.seishun.co.jp/


この本、Twitterの入門・概説書としては、非常によく書けていると思う。他に多く読んだというわけではないが、しかし、おそらく、入門的概説書としては、トップクラスにはいるだろう。

一つには、その歴史的背景。WEB2.0の先を見すえたサービスであること。
さらには、実際のユーザ(個人)での利用法の解説。
そして、ビジネスでの利用法。ここが面白い。WEB2.0的なソーシャルメディアを使った、ビジネスの事例がかなり紹介されている。DELLの例など。

これは、ビジネスに限らず、アカデミックな分野でも、たとえば、図書館や博物館・美術館など、あるいは、大学などでも、十分に応用可能な事例として読める。

自分自身がソーシャルメディアをつかわないで、WEBを大学で論じてもしかたがないだろう(これは、あくまでも一般論として、であるが。)

當山日出夫(とうやまひでお)

『渋江抽斎』を読んでいる-Wikipediaでうしなったもの-2009-11-05

2009-11-05 當山日出夫

いま、岩波文庫の『渋江抽斎』が、手元においてある。気分的につかれたおり、なにげなく、パラパラと途中からページをめくる。特に、最初から、通読しなければと思ってよむわけではない。

TL(タイム・ライン)の流れる速度が違うのである。今のように、電子メールだ、インターネットによるオンライン蔵書検索だ、デジタルアーカイブだ、なんてなことが無い時代。通信手段は、もっぱら手紙。でなければ、直接、自分で(歩いて)行って、人にあう。現場に行ってみる。

これが、本来の人間のものを考える速度なのだろう。学校まで、あるいていく間に、あるきながら、(適度の身体運動をしながら)なんとなく考える。そうすると、徐々に頭のなかが整理されてくる。次は何をしようかと、携帯で、モバイル端末で、電車の中で仕事に追いまくられるのでは、学んだこと、知ったことを、自分の中で、時間をかけて沈殿させ、熟成させる時間が無い。

はなしかわって、Wikipedia、いろいろ言えると思う。なお、私は、学生・教育の場面で、つかうことに反対しない。Wikipediaが、現代の「知」をなにがしか象徴するのものであるが、それによって、われわれは、何を失ってしまったのか、そこに自覚的でなければならない。

学問は、正しさをもとめる。(これは、当たり前)。だた、それ以上に重要なのは、「正しさとは何であるかを、もとめること」である。これには、時間がかかる。人生の時間。社会の時間。

Wikipediaによって失ったものがあるとすれば、それは、「時間」であるのかもしれない。唯一あるであろう、正解へとまっしぐらに直線的に(時として論争はあっても)、方向はひとつ、その方向に向かうだけの、時間の流れが、加速度をつけて増している。

私のように、まだ、昔の時間の流れが、かろうじてわかる世代。だからこそ、Wikipediaに魅力も感じるし、違和感も感じる、というのが正直なところである。

Wikipediaで学生は(自分も含めて)「知識を得る」。しかし、「知的に成熟する」ということが可能になるか、この点は、社会全体のなかで反省すべきところかもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記 2009-11-06
タイトルに副題を追加

万年筆で字を書きたくなっている2009-11-06

2009-11-06 當山日出夫

別に自慢するほどのことではないが、万年筆は、いくつかいいのを持っている。

むかし、文字を書くといえば、万円筆に原稿用紙、という時代が、私の学生時代であった。やや無理をして、いいのを買ってある。というか、必要だった。一日のうち、過半を机にむかってすごす。つみあげて、十数センチ以上の原稿用紙(すくなめにみつもって)を、大学院の時に、ある仕事で書いた。

朝、入れたインクが、夜には、ほとんど切れかけている、というような分量だった。しかし、そんな時代は終わった。紙のカード、万年筆、原稿用紙に変わって、コンピュータ、ワープロ、エディタの時代である。

こうなると、今度は、ディスプレイ(ナナオ)、キービード(東プレ)が、いいと思うようになる。

一種の、実用品であると同時に、文房具道楽である。(ま、さほど大金を投じるというわけではないし、実用に使うものだから、贅沢とは思っていない。)

そうは言っても、万年筆で字が書きたくなる。昨日、出勤簿のサインでつかったのは、むかしのクロスの万年筆。インクを入れ替えて、使えるようにしようと思っている。(個人でだめなら、専門家に持って行く。)使うインクは、これだけは、昔から変わらない。ペリカンのローヤルブルー、である(4001)。

経験的に言って、よい万円筆は、手がつかれない。微妙な重さのバランスで、手の疲れがまったく違う、という経験をしてきている。

ボールペンは、基本は、クロス。だが、今は、何故か、モンブランを使用。胸のポケットにさしたときの、白い星のマークが、自分で使っていて気に入っている。

現代の筆墨硯紙、これもまた、「文人」「読書人」たるものの、たしなみであろうと思っている。ま、一方で、鉛筆も大好きなのであるが、これはまた、別に。

以上は、半ば、雑談、しかし、文字を書くメディアやツールと、何をどう書くかは、常に関連している。このあたりの話しは、おってのちほど。

當山日出夫(とうやまひでお)

『「みんなの意見」は案外正しい』の文庫化2009-11-06

2009-11-06 當山日出夫

さて、きたる22日の、Wikimediaカンファレンス2009、どんな話しをしようか。だが、どんな話しをするにしても、基本となる文献のひとつは、

「みんなの意見」は案外正しい
ジェームズ・スロウィッキー著
小高尚子訳

であることは確かだろう。この本、どうやら、角川書店の単行本が無くなって、文庫本になるらしい。ただ、角川書店のHPでは、11月25日発売予定とある。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200805000104

単行本は、すでに持っているが、気になるのは、文庫本化にあたって、「解説」がどのように付加されたか/なしのままか、というあたり。「みんなの意見」をささえるものとして、既刊の書籍情報があるなら、グーグルブックサーチの流れをうけて、集合知をどう考えるか……このあたりに、興味がある。

この種の本、ほんの数年前までは、一部の専門家の本だった。それが、今の時代とはいえ、文庫本化というのは、それだけ、「集合知」についての社会の関心のたかまり、なのであろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

あ、わすれていた2009-11-07

2009-11-07 當山日出夫

田中貴子さんのブログでの本の件、すっかりわすれてしまっていた……ごめんなさい。さっそく、明日~明後日ぐらいに、封筒を用意するつもり。

『鈴の音が聞こえるーー猫の古典文学誌』のプレゼント
http://blog.goo.ne.jp/ayakashi1154/e/550c0bfca315a14ddd075ab8735733f0

ブックマークをつけてあっても、そのこと自体を忘れてしまっているようでは、どうにもならない。が、ここは、ネコ派人間のよしみで、ということでお願いすることにしよう。(定員に達するまでの間は、ちょくちょく見ていたのだが、ふと忘れると、そのままになってしまう……)

このような無精ものの私であっても、家に帰ってまずすることは、我が家のよいこたち(黒ネコ、複数形)の御飯のお茶碗と、水のチェック。これだけは、かかさない。なにしろ、我が家の一員になってからというもの、キャットフード(固形)しか、基本的に食べない。後は、おやつにカツオブシ。

自分の御飯より、ネコたちの御飯の心配をしてしまうのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

NDLのWEBサービスに望むこと2009-11-08

2009-11-08 當山日出夫

一昨日は、立命館の岡本真さんのARGの講演会。私がたてた企画のようになってしまっているので、なんとな責任のを感じる。この感想は、おって後ほど。

昨日は、NDL情報提供サービスに関するグループディスカッション、なるものに参加してきた。(ブログに書くな! と誓約書にサインしたわけでもないので、書いたってかまわないだろう。)

私の理解するところ、国立国会図書館のいろんなオンラインサービス、これがつまらない。では、どうしにかしよう。それも、できるなら、今の、長尾館長の任期の間に。まずは、いろんな人、図書館の関係者だけではなく、社会のいろんなところで活躍しいる人、あるいは、普通の人に、集まってもらって、ディスカッションしてもらい意見をあつめよう……それを、最終的に集約し、反映したシステムを構築しよう……ということ、(らしい、と私は判断する。)

中心は、慶應の原田隆史さん。(さて、この人、私の大学での後輩先輩の関係にはどうなるのだろうか。学部は同志社で大学院から三田の図書館情報学、ということらしい。まあ、この程度のことは、個人情報には、はいらんからと思って書いてよかろう。)

図書館関係では、かなり著名なキャラクタとして知られている(らしい。)私の場合、初対面であったのだが……でも、かなり、私の言いたいことは言わせてもらったような気がする。

で、NDLのオンラインサービスに望むことである。

簡単にいえば、オンラインサービスとしては、その中で「あそべる」ものであること。リンクからリンクをたどっていって、知って楽しむことができる。ただ、資料の検索サービスの提供、だけでは、それを知っている人が、その利用目的のためだけに使う。何かを調べていって、ふと気がついていたら、貴重書のDBにいきついていて、そこから、古写真や、古地図につながって、さらに本につながって。これぐらいは、簡単かもしれない。(それでも、ハードルが高いかもしれないが)。

だが、最大の問題点は、図書館から得るものが、基本的に「知識」である、とするならば、その該当する本の中に書いてあることについても、分からなければならない。本についてだけわかっても意味がない。ここで、とりあえず、著作権の問題があることは承知のうえで、それを横においておいて、考える。

結局、楽しめる図書館(あるいは、図書館のサイト)というのは、本があって、それが、読めてなんぼのものである。本がいくら出てきても、それで楽しくなろうはずがない(一般的には)。その中に何が書いてあるかに、ふみこまなければならない。

そうすると、図書館が、デジタル・ライブラリ化して、中身まで読めるようになる、さらには、自動的に、検索してくれて、おすすめの本の該当箇所まで示してくれる……Amazonのおすすめは本単位だが、さらにすすめて、コンテンツ単位で……これを、NDLのオンラインサービスの中だけで構築することが可能であるか、あるは、外部とリンクさせるか、では、外部のリンクはどこが適当か。その方式は、どのような、全体的なアーキテクチャのもとにあるべきか。

たぶん、つづく。

當山日出夫(とうやまひでお)

立命館でのARG岡本さんの講演会が無事に終了2009-11-08

2009-11-08 當山日出夫

先日、2009年11月6日にあった、立命館大学グローバルCOEでの特別講演会
「学術知を市民知に変える学術情報発信へ-特にウェブ活用の観点から」
岡本真さん(ARG)

があった。

このことについては、さっそく、
http://d.hatena.ne.jp/arg/20091107/1257580620

に簡単にではあるが報告がなされている。さすがに早い、と同時に、講演を引き受けてくださった岡本さんに感謝。

当日のスライドは、

http://www.slideshare.net/arg_editor/ritsumei-dh-gcoe20091106

それから、この講演会のTwitterの#(ハッシュタグ)がある。

#ritsgcoe

講演の前半は、ARGの活動を中心に。後半は、ARGカフェ・フェストとを中心に、という構成だった。後半の視点から考えて、人と人とが集まれる場所を設定する、この「アーキテクチャ」としてどうであったか、とやや反省がある。

講演会が、ただ、講演会で終わるならそれでいいのだが、せっかくの機会であるので、そこに集まった人たちの繋がりができればよい。この観点では、場所と時間の設定が、適切であったかどうか、考える。

だが、にもかかわらず、国会図書館関西館や同志社大学文化情報学部から、来てくださったのはありがたい。他、CH研究会関係の関係者の姿も幾人か見えた。

リアルの場所としての講演会・懇親会であるならば、より多くの人と人が出会えて話しができる場所を作っていく。その場所をつくることによって、新しい発想が生まれてくる。このような方向に、これまでのARGは動いてきている。

では、それをうけて、DH(デジタル・ヒューマニティーズ)が、どのようなスタンスで今後の活動にのぞんでいくのか、あたえられた宿題は大きいと感じる次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

ケータイであそべるNDLサイト2009-11-09

2009-11-09 當山日出夫

昨日のつづき。
NDL情報提供サービスに関するグループディスカッション
NDLのWEBサービスに望むこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/11/08/4683256>

出てくる話しは、きまってと言ってしまってよいかもしれないが、ケータイで使えるサイトの設置。

これには、賛否両論あろう。

まずは、賛成論から。いまどきの若者は、ケータイが主流になってきている。少なくとも、まずケータイ。パソコンとはつかいわけている。このような現状をふまえるならば、若い人たちをよびこむためには、ケータイで使えるサイトが必要である。

これには、強いて付け加えることはないだろう。ただ、パソコン画面(マウスの操作による)と、ケータイ画面(スクロール式のメニュー)とでは、ユーザインターフェースの設計がことなる、このあたりに配慮する必要がある。

これはわかるんだけど、いや、いまどきケータイをつかえない(パソコンしかつかえない、デジタルデバイド・オジサン)としては、こうも思ってしまうのである。

はたして、NDLのオンラインサービスが、ケータイに対応できるものであるのか、OPACの検索結果や、高精細の画像など、ある程度以上の大きさの画面で見て、意味がある。ケータイ向けには、小さくてもいいなら、小さい用に設計し直さないといけない。そのコストの価値があるか。高精細画像は、何のための高精細画像であるのか。

あるいは、強いていえば、こうなるか。ケータイをとにかく「入り口」として設定する。そこから、必要な書誌情報などをとって、メールで転送しておく。そのURLやキーワードをもとに、改めてパソコンで検索する。このような方向もありだろう。

だが、この中間、別の有り様も考える余地がある。iPhoneなどの利用、小型のモバイル端末、今のケータイよりも画面が大きい、そして、タッチパネルやスタイラスが利用できる。

端的に言えば、任天堂のDSが、通信機能を持ったとき、そこで「あそべる」コンテンツを提供できるだろうか。さらには、この延長には、すでにある、Wiiなどの存在(ゲーム機)を無視できない。

課題は課金のシステムかもしれない。日本のケータイ市場は、よくも悪くも、課金システムを構築してきている。すこしづつではあるが、結果的は、ごっそりと穫られるシステムである。

これが、今のパソコンには、そぐわない。せいぜい、一定期間、有料会員制度の導入ぐらいであろうか。パソコンのインターネットの世界では、ケータイのような課金システムが未発達である。いや、そもそも、コンテンツはタダ(無料)であるという大前提がある。

このあたりの意識のギャップをどう埋めるかが課題だろう。

それよりも、ケータイで「あそべる」コンテンツをつくることに、NDLの予算をつぎこんで、そこから何が得られるだろうか。社会全体の利益としてである。

ケータイしか使えない、デジタルデバイド人間をどうするか、これが、NDLのオンラインサービスにかかわらず、これからの社会の課題である。(逆に、ケータイしか使えない人間にも使えるサービスということで、Twitterが急速に普及している。)

最後に、話しがそれるが、Twitterは、ケータイしか使えない人間と、パソコンは使えてもケータイは苦手という人間を架橋することができるか。そして、ケータイから大画面コンピュータへといざなう導線になることができるかどうか。

まさにこの時期と、NDLのオンラインサービスの見直しの時期が重なっている。何をプラットフォームに何を目指すのか、このあたりを明確にしておく必要があるように思えてならない。

ここから、次にTwitter論になるといいのだが。

當山日出夫(とうやまひでお)