『渋江抽斎』を読んでいる-Wikipediaでうしなったもの-2009-11-05

2009-11-05 當山日出夫

いま、岩波文庫の『渋江抽斎』が、手元においてある。気分的につかれたおり、なにげなく、パラパラと途中からページをめくる。特に、最初から、通読しなければと思ってよむわけではない。

TL(タイム・ライン)の流れる速度が違うのである。今のように、電子メールだ、インターネットによるオンライン蔵書検索だ、デジタルアーカイブだ、なんてなことが無い時代。通信手段は、もっぱら手紙。でなければ、直接、自分で(歩いて)行って、人にあう。現場に行ってみる。

これが、本来の人間のものを考える速度なのだろう。学校まで、あるいていく間に、あるきながら、(適度の身体運動をしながら)なんとなく考える。そうすると、徐々に頭のなかが整理されてくる。次は何をしようかと、携帯で、モバイル端末で、電車の中で仕事に追いまくられるのでは、学んだこと、知ったことを、自分の中で、時間をかけて沈殿させ、熟成させる時間が無い。

はなしかわって、Wikipedia、いろいろ言えると思う。なお、私は、学生・教育の場面で、つかうことに反対しない。Wikipediaが、現代の「知」をなにがしか象徴するのものであるが、それによって、われわれは、何を失ってしまったのか、そこに自覚的でなければならない。

学問は、正しさをもとめる。(これは、当たり前)。だた、それ以上に重要なのは、「正しさとは何であるかを、もとめること」である。これには、時間がかかる。人生の時間。社会の時間。

Wikipediaによって失ったものがあるとすれば、それは、「時間」であるのかもしれない。唯一あるであろう、正解へとまっしぐらに直線的に(時として論争はあっても)、方向はひとつ、その方向に向かうだけの、時間の流れが、加速度をつけて増している。

私のように、まだ、昔の時間の流れが、かろうじてわかる世代。だからこそ、Wikipediaに魅力も感じるし、違和感も感じる、というのが正直なところである。

Wikipediaで学生は(自分も含めて)「知識を得る」。しかし、「知的に成熟する」ということが可能になるか、この点は、社会全体のなかで反省すべきところかもしれない。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記 2009-11-06
タイトルに副題を追加