Wikimediaカンファレンス20092009-11-23

2009-11-23 當山日出夫

さて、昨日は、Wikimediaカンファレンス2009。発表した立場であるので、あまり、批判的なことは書きたくない。しかし、課題も多く見えてきている、さて、どうしよう、というあたりである。

ともあれ、(最終的な人数はきいていないが)200~300名におよぶ、参加者があったことは成功であり、関係者の努力に感謝しなければならないだろう。そうはいいつつも、ここは、日本においても、時代の流れというものがある。なぜ、Wikimedia(あるいは、端的には、Wikipedia)に、かくも関心があつまるのか。そして、(私の知り得た限りで)議論が、微妙にすれ違ってしまっているのか。

まあ、議論がきちんとかみ合うような、会合という方がめずらしい、というより、どこかおかしいとすべきなのであって、どのように、すれちがっていたかという観点から考えた方がいいのであろうが。

ここで、私の立場を端的に言ってしまえば、百科事典とは何であるのか、この根源的な問いかけが必要であるということ。それぞれの、地域や文化的・歴史的背景にある、百科事典というものの、暗黙知、である。

それをしめすものが、Wikipedia自身に明瞭に記載してある、「Wikipediaとは何でないか」「Wikipediaでは何をしてはいけないか」である。しかし、「Wikipedia」が百科事典であるとして、では、「百科事典」とは何であるのかについては、積極的には、ほとんど何も語ってはいない。いわば、利用者の暗黙の前提(暗黙知)に依存している、といってよいかもしれない。

この視点にたってみると、Wikipediaがあきらかにしたものは、「百科事典とは何であるか」の、各地域・文化の相違ということになるのかもしれない。百科事典についての暗黙知の可視化である。

Wikipediaが、すでにあり、それなりに(日本でも)成功をおさめている、という事実を大きくみるか、あるいは、日本でのWikipediaがなぜこのような状況であるのか、について問題点を考えてみるのか、その身の立場の置き方によって、評価は分かれるにちがいない。

個人的には、「百科事典」というものの歴史、特に、東洋での「類書」との違い、このあたりに焦点をあてて、さらに考えてみたいと思っている。とりあえず、昨日の印象として思っていることである。

なにはともあれ、昨日の、カンファレンスを主催してくださった皆様方に感謝したい。

當山日出夫(とうやまひでお)

追記 2009-11-23 誤字を少し訂正。ホテルでレッツノートで書いたら、やはりミスが多かった。

ネコたちのお茶碗と平和について2009-11-23

2009-11-23 當山日出夫

三日ぶりに我が家に帰ってまずやったこと。

まずは、自動車の、学校の駐車場への入構証のうつしかえ。留守にしていて間に、修理に行っていたのが帰ってきていた。きくと、エンジンのエラーランプ点灯の理由は不明らしい。でも、うたがわしき部品を交換。これは、保険ですんだので、費用はなし。(消耗品以外の故障のための保険には入っている。年間、1万5千~2万キロほど走るので、なにかのときの保険は重要だと思って。)

明日は、もとにもどって、アウディA4(クワトロ)、すでに、11万キロ以上走っている、である。(もうじき、12万キロになる)。

次にしたのが、ネコたちの水と御飯。私が留守にしていても、お腹がすけば鳴くので御飯はもらっていたようであるが、ここは、ご主人の帰宅にあわせて、キャットフードをあげる。我が家のよいこたち(黒ネコ、複数形)も、家族内の序列を認識はしているようである。私は、もちろん、キャットフードのかかりである。

ところで、我が家のよいこたち(黒ネコ、複数形)は、一つのお茶碗で、御飯をたべる。ひとりがたべている間は、もうひとりは、じっと側で待っている。まっていれば、順番がくる。決して、くいっぱぐれはしない、ということを知っているのである。とてもかしこいこたちなのである。

いまの世の中、これぐら平和であるといいのであるが。

當山日出夫(とうやまひでお)