いつ止めるかの判断2010-02-24


2010-02-24 當山日出夫

昨日、一昨日とは、京大で、「文化とコンピューティング」。これは、これで、追って感想など書こうと思う。その前に、その前(先週)の国会図書館のシンポジウムの件。

ディジタル情報資源の長期保存とディジタルアーカイブの長期利用に関する国際シンポジウム

このシンポジウムの発表を聴いていて、興味深いと思ったこと、一つ書いておきたい。それは、最後の発表にあった、

講演「電子情報の長期保存計画支援ツール“Plato”による信頼できる計画の作成」
アンドレアス・ラウバー (ウィーン工科大学教授)

で、語られたこと。それは、ある制度やシステムを設計するとき、「いつ止めるか」を組み込んでおかなければならない、という論点の指摘。

たとえば、あるデジタル保存の技術がある、(PDFであるとか、JPEGであるとか)、これを採用するには、まず何かの判断基準による。そして、その時に考えなければならないことは、どのような状況になったら、それを止めて次の方式に移行するのか、その基準を企画のスタートの時点から、内部に持っていなければならない、ということ。

個人的に、これを、わかりやすく言い換えるとこんなふうにも言えるか。たとえば、戦争。太平洋戦争(大東亜戦争)、いろんな歴史的評価があるだろうが、私の考えとして一つだけ言えるかとおもうことがある。それは、どのような局面になったら、この戦争を終わらせる(和平交渉に入る、負けることにする、など)の、判断があらかじめ用意されていなかった、ということ。これは、どのような歴史観にもとづく人であっても、おおかたの同意は得られる、日本の失敗、それも致命的な、であることかと思う。

あることを「はじめる」ときには、どのように「おわる」かを、あらかじめ考えておかななければならない。デジタル保存(Digital Preservation)についても、同様。どのような次の世代の技術基盤があらわれたときに、そこに移行するか、最初から考えておかなければならない。

この観点から、身の回りでおこなわれている各種のプロジェクトを見ると、いつの時点になったら、止めるか。技術的な方式を変更するか。あまり、考えられていないように思える。それを始めたときは、その時点での最新の技術であり、最良の選択であったかもしれない。しかし、ドッグイヤーのコンピュータの世界である。すぐに、次の世代の技術が登場する。

たとえば、いまでは、TwitterにUsteram、この組み合わせによる実況。簡単にできてしまう。このなかで、たとえば、研究会の様子を、わざわざ録画して編集して、ということを続けるとするならば、その意義はどこにあるのか、常に最新の技術の状況のなかで判断が要求される。(よほど高品質の、Eラーニング教材でも作るような場面ぐらいになるだろうか。)

なにかを始めるときには、いつどのようにして終わりにするのかを、最初から制度設計のなかに組み込んでおかなければならない。このことの重要性を、再認識した次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

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