冷泉家展の後半2010-05-14

2010-05-14 當山日出夫

今日、ちょっと時間がとれたので、京都まで行ってきた。京都文化博物館の冷泉家展である。この展覧会、前半と後半で、展示をいれかえる。つまり、見ようと思ったら、2回行かないとならない。で、こんどは、その2回目、後半の展示を見てきた。

興味深いのは、やはり『明月記』。原本は、紙背なのか。まあ、その当時のことを考えれば、これが当たり前なのかもしれないが。

それから、カタカナで書かれた和歌。展示の解説、それから、図録では、カタナカは僧侶の文字とある。(ちょっと異論が無いではないが、まあ、おおかたの理解としては、これでいいのであろう。)その、カタカナで書かれた写本群、承空本がずらりと展示してあるのは、興味深かった。

面白いのは、朝儀諸次第。朝廷でおこなわれる儀式のシミュレーションといえばいいのか、あるいは、記録でもあるのか。前半の展示のときに出ていた、小さな紙の人形をうごかして、儀式の予行練習をしたものらしい。どの位置にだれがいて、どこからどこへと人が動いて、など。

気になることといえば、もと、冊子であった本を、巻子にしている事例。「読む」ための実用を考えれば、冊子の方が便利にちがいない。これは、おそらく、本が、「宝物」のようになっていくプロセスがあるのだろう。たぶん、同時に、実用的読書のための臨模本がつくられているのかもしれない。このあたり、書物史、という観点からは、解説しておいてほしかった。

ともあれ、眼福のひとときであった。

當山日出夫(とうやまひでお)

今日は「火曜日」2010-05-15

2010-05-15 當山日出夫

今日は、土曜日だけれど、火曜日の授業をしに学校にいかなければならない。15回の授業回数を確保するための措置である。まあ、授業するのはかまわなのであるが、こういうのは、正直にいって、困る面もある。

まあ、私の場合、どうにかなってはいるけれども、先生によっては、このせいで他を休まなければならない、という事例もあるだろうし。このような曜日のふりかえを各大学でやりだすと、玉突きで、休講・補講で、身動きできない状態になりそうである。

ともあれ、授業の準備は、とりあえずできている。今日は「火曜日」ということででかける。ついでに、本屋さんにもよってくるか。平凡社新書の新刊、いくつか興味のあるのがある。もう店に出ているだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

電書2010-05-16

2010-05-16 當山日出夫

ものが普及するということは、その名前がひろまることでもある。この観点から、書籍の電子化は、どのような用語がつかわれるだろうか。

・電子書籍
・デジタルブック
・電子ブック
・デジタル書籍

などが思い浮かぶところである。図書館になれば、

・デジタルライブラリ
・電子図書館

といったところか。

では、これを略称するとどうなるだろうか。電子書籍→電書、これは、定着するだろうか。TwitterのTLを見ていると、どうやら一部では、すでにつかわれ始めているらしい。「電書」。

ところで、デジタル・カメラ→デジカメ、という方式にならうならば、

・デジタル・コミック→デジコミ
・デジタル・マガジン→デジマガ

これぐらいは定着しそうな気がする。この延長で、

・デジタル本→デジ本

は、どうだろうか。

こんなことは杞憂であって、まず本があり、その書籍版とデジタル版(電子版)に分かれるという方向もあるだろう。

電子書籍それ自体がどうなるか、まったく予断をゆるさない状況であるが、その呼称がどうなるかにも注目していきたいと思っている。

當山日出夫(とうやまひでお)

『中央公論』「活字メディアが消える」2010-05-17

2010-05-17 當山日出夫

『中央公論』の6月号の、特集のひとつが「活字メディアが消える」になっている。それを読んでの感想など、いささか。

特集と行っても、ちいさくて、三つのものからなる。

書籍の電子化は作家という職業をどう変えるか 平野啓一郎
〈アメリカに見る〉新聞がなくなった社会 河内孝
「グーグルベルグの時代」と本・読書の近未来形 対談:宮下志朗/港千尋

まずは、平野啓一郎氏の文章から。まあ、タイトルに「作家」とふくんでいるように、文学者から見ての電子書籍論である。ここで個人的な感想をいえば、電子書籍、デジタル本について語られるとき、ワンパターンで出てくるのが、文学と新聞である。世の中には、もっと他にも本がたくさんあるだろうと思うのだが、なぜか、文学作品、それに、新聞が、デジタル化の影響をうけるものとして登場することが多いようにおもえる。たとえば、教科書、つまり、デジタル教科書を本格的にあつかったような、デジタル書籍論は、あまり目にしないように思えるのだが、どうだろうか。

ここで、視点を新聞(ジャーナリズム)にかぎってみる。この場合、たとえば、佐々木俊尚氏のように、「ブログ論壇」の登場によって、既存の新聞はその存在意義を失ったという立場もあるだろう。

だが、これに対しては、どのような論考・考察・分析を加えるにせよ、そのための一次資料となる取材は、だれがどのようにしておこなうのか、の観点が重要ではないだろうか。この観点から見るかぎり、まだまだ、既存のジャーナリズム(新聞など)には、その一次情報の取材能力において、一般のブログなどがかなわない点があることは確かだろう。

だが、だからといって、そのうえに安閑としているようでは、ジャーナリズム(新聞)の将来はない。たとえば、次のような箇所、アリアナ・ハフィントンの発言として、

>>>>>

私たちが今日、ここで議論すべきは、どうやって〈既存の〉新聞社を救うか、ではなく、どうやって多様なジャーナリズムを育成し、強化するのか、ということであるべきです。なぜならジャーナリズムの未来は新聞社の未来とは何の関係もないからです。(p.164)

<<<<<

つまり、一次情報をあつかえるジャーナリズムが育ってくる環境さえととのえば、新聞社の機能は、必ずしも必要ではない、と理解する。

ここで、考えるべきは、新聞社の、通信社化であり、一次情報のニュースに、付加価値をつけて、将来のインターネット社会のなかで、商業的に生き延びるには、どのような方策があるのか、ということかもしれない。あるいは、新聞の論説誌化という方向もあるだろう。

ながくなりそうなので、つづきは次に。

當山日出夫(とうやまひでお)

『中央公論』「活字メディアが消える」その二2010-05-18

2010-05-18 當山日出夫

ここで、『中央公論』を悪く言うつもりはまったくないが、どうして、こう新鮮みのない内容になってしまうのであろうか。いままで、さんざん、各種のブログやTwitterなどで、語られてきたことであるように思える。

強いて考えるならば、『中央公論』というような、総合雑誌であるからこそ、電子書籍というような新しいものについては、かえって、保守的で一歩おくれたような議論の場になってしまうのかもしれない。

気になったこと。一つだけ。
「グーグルベルグの時代」と本・読書の近未来形 対談:宮下志朗/港千尋

ここで、「出版社、図書館はいらない-文豪バルザックの直販方式」と題した箇所がある(p.173)

半分はナルホドと思ってよむのだが、しかし、半分は大事な部分が抜けているなと感じる。まあ、たしかに、本の直販方式というのは可能になるかもしれないが、それは可能性だけであって、実際に「本」(電子書籍であっても)にするには、
・編集
・組版(印刷・製本)
の問題がある。実際に「本」にする印刷業の役割を無視して、電子書籍のこれからははない、というのが私の持論。

いま、論じられているのは、主に、書籍の販売流通ルートについてのこと。これは確かに、電子書籍によって大きく変わるだろう。だが、根本的に変わるとすれば、その製作・執筆において、どのような変化がおこるかを視野にいれた議論のなかにおいてであろうと思われる。つまり、「印刷」を考えなければならない。

知的生産とししての電子書籍、この視点から、語られるようにならないと、本当に電子書籍が定着するとはいえないのではないか。ただ、「買って」「読む」ことだけの変化だけにとどまらないだろう。

その先にあるべき変化を「雑誌」の編集者はどのように考えているのだろうか。電子書籍の時代になっても、『中央公論』のような雑誌を編集する能力は出版社に残るのである…と、はっきりといいきれるのであろうか。このあたり、どうも、はぎれのわるい印象を持ってしまうのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

ブログ論壇だけでいいのか2010-05-20

2010-05-20 當山日出夫

「ブログ論壇」……これは、佐々木俊尚氏の著書につかわれた名称でもある。

佐々木俊尚.『ブログ論壇の誕生』(文春新書).文藝春秋.2008

その後、佐々木さんは、『マスコミは、もはや政治をかたれない』(講談社、2010)などを出して、その方向をつよく打ち出している。

ここで、先日、引用したことばを再度引用しておく。『中央公論』6月号から、
「アメリカに見る新聞がなくなった社会」(河内孝)、アリアナ・ハフィントンの発言として、

>>>>>

私たちが今日、ここで議論すべきは、どうやって(既存の)新聞社を救うか、ではなく、どうやって多様なジャーナリズムを育成し、強化するのか、ということであるべきです。なぜならジャーナリズムの未来は新聞社の未来とは何も関係ないからです。

続けて彼女は、「新聞以後の」新しいジャーナリズムを創造するために二つの道を提示した。

(p.164)

<<<<<

その二つの道とは、「職業訓練を受けた記者が、地域住民と対話を繰り返しながらニュースを作り上げてゆくパブリック・ジャーナリズムを助成すること」であり、「新しく生まれるNPO組織「調査報道基金」活動を充実させてゆくこと」、とある(p.164)。

既存の新聞のあり方も、日本とアメリカでは大きく異なる。そして、その次に何がくるのかも、また、日本とアメリカで大きく異なっているだろう。ただ、少なくともいえることは、どのような場合であっても、ジャーナリストとしての専門的訓練をうけた人間による地道な調査報道は必要である、ということである。

それを、はたして、「ブログ論壇」は達成できるだろうか。

強いていえば、何かについて論ずることは、多種多様な意見のあるブログの中に見いだせるだろう。しかし、その基本となる、一次資料にもとづく、現場の取材となると、それは、そのプロ(あるいは、専門家)の世界を信用することになるのではないか。

といって、既存の、たとえば、記者クラブ制度を温存しようというわけではないのは、もちろんである。むしろ、このような既存の一種の既得権益のようなものを超えたところに、新しいジャーナリズムが生まれるべきであるし、また、「論壇」「議論の場」が育っていくべきであろう。

どのような方向で考えるにせよ、これまでの新聞や総合雑誌の行方はわからない。強いていえば、明るい未来はない。しかし、それを、「ブログ論壇」がとってかわるかといえば、そんなことはないと私は思う。この広大なWEBのなかで、「ブログ論壇」の地図をつくる、道案内をする人が必要にもなってくるであろう。もちろん、現場取材による調査報道も必要である。それは、やはり、その「専門家」ということになる。

今は、かろうじて、その一次資料の調査報道を既存の新聞などが担っている、という段階。しかし、それを、どう解釈するのか、その資料の利用については、もはや、新聞などだけでは、ゆきづまっている状態、といっていいのかもしれない。だから「ブログ論壇」が成立しうる。

私は「ブログ論壇」に期待はしても、過剰な信頼はしないようにと思うのである。まずは、自分自身が、何によって、自分の意見をなりたたせているか、その情報源が何であるか、やはり、既存の新聞、マスコミのちからは大きいといわざるをえない。だが、それを、鵜呑みに信用するということとは別である。

當山日出夫(とうやまひでお)

明日から学会など2010-05-21

2010-05-21 當山日出夫

明日から、連続で学会である。

22日
情報処理学会 人文科学とコンピュータ研究会
大阪大学

23日
訓点語学会
京都大学文学部

明日(22日)は、発表しなければならない。とりあえず、パワーポイントの用意はできた、(ということにしておく)。もって行くレッツノートが無事に作動してくれれば、問題はない。

その次の週末は、日本語学会(東京、日本女子大)。これで、二週連続で週末がつぶれると、いろいろとたいへん。事前に授業の準備もあるし。それに加えて、急に原稿の依頼が来そうな雰囲気だし……

DVD版内村鑑三全集刊行記念シンポジウムの方は、仮のプログラムの段階。もうじき、公開できるようになるだろう。純然たる人文学の発表から、現場の印刷業(実際にDVDのデジタル版をつくったのは印刷業である)、さらには、電子書籍論にいたるまで、もりだくさんの内容になりそう。

ここしばらくいそがしい。

當山日出夫(とうやまひでお)

CH研究会での内村DVDの発表が終わった2010-05-23

2010-05-23 當山日出夫

CH研究会(情報処理学会、人文科学とコンピュータ研究会)、無事におわった。懇親会のあと、さほど長居はせずにかえったが、それでも、家に着いたら11時にちかかった。そして、今日は、また、別の学会(訓点語学会)で、京都(京都大学)である。

今日は、雨、どんな服装でいこうかまよう。雨だから、身軽な方がいいが、気温はひくそうだし。ぬれてもいい、という格好でいかないと。

ところで、CH研究会の方は、最初の発表であったので、気が楽であった。話しの内容は、以前に、京都大学人文科学研究所でのセミナー「東洋学へのコンピュータ利用」で話したことを基本にして、それを、人文学研究と電子書籍の利用という方向に、もっていったもの。

なにせ、まだ、できたばかりのDVD版であるので、具体的な使用実績のつみかさねがあまりない。具体的にこれをつかって何ができるのか、それは、今後の課題・・・ということにならざるをえない。

しかし、専門家向けの、研究(知的生産)のためのツールである、という方向性ははっきりしてくるのではないだろうか。これから出てくるであろう、一般の電子書籍の類と、また、紙の本と、どのように共存していくか、これも、このDVD版研究のひとつの課題であるか、と思った次第である。

今、古書店で、全集をワンセット買おうとすれば、10万ちかくはする。それを考えれば、DVD版の価格(60000円)は、かなり妥当であるといえるだろう。しかも、コピープロテクトなどはかけていない。また、全集をバラバラにして、個々に電子書籍として販売したとしたら、合計すれば、同じようなものになるにちがいない。

価格、販売方式、これらについてもいろいろ意見はあるだろうが、現時点の判断として、私としては、妥当なものだと思っている。これが、今後の、種々の電子書籍の展開のなかで、どのようになるか、考えていかなければならないと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

天候が不順だし、いそがしいし、さて2010-05-26

2010-05-26 當山日出夫

このごろ、どんな格好をして外出すればいいのか、わからない。暑いのか、寒いのか、雨が降るのか、晴れるのか、どうもはっきりしない。昨日、一昨日など、一日のうちで、雨がふったり/晴れたり、で、寒かったり/暑かったり、どうにもならない状態。

といって、上着を着て行くには、面倒だし。それに、傘をもってでるかどうかも、考えるし。

このまま、今週末の日本語学会(東京、日本女子大)まで続くのかと思うといやになる。どんな格好でいけばいいのか、こまってしまうのである。重い荷物は持ちたくないし、かといって、風邪をひいてしまうのでは困ってしまう。

そういえば、ことしは、ホトトギスの鳴く声をきいていない。(聴いてはいるのかもしれないが、記憶にのこるほど鮮明なものではない。)

日本語学会が終わって、アート・ドキュメンテーション学会があって、それから、DVD版内村鑑三全集のシンポジウムをやって、さらに、8月になると、文字研究会である。あ、それから、7月のおわりには、CH研究会(神宮皇學館大学)がある。前期の採点もしなければならないし。

なかなか、おちついた時間がとれないでいる。

當山日出夫(とうやまひでお)

日本語学会に行ってきた2010-05-31

2010-05-31 當山日出夫

30・31日と、一泊だけであるが、日本語学会に行ってきた。東京、日本女子大学。

天気予報では、東京は雨かもしれないということだったので、どんな格好で行こうかまよったが、結局は上着は着ていくことに。例年なら、ネクタイもなしで行ってもいいようなシーズンなのであるけれど。

日程としては、いつもどおり。

いろいろと本屋さんに行って(なるべく本は買わないようにして)。

土曜日のシンポジウムは、C会場。テーマは、「日本語学を社会にひらく」。それなりに面白いものであったとは思うが、もう一工夫ほしかったようにも思える。

今、サイエンスカフェなど、自然科学の分野でおこなわれていながらも、一方で、その課題のようなものも徐々に現れてきている状況かと思われる。一般市民に対して、専門的な知識をどのように、わかりやすくつたえていくか、これについては、自然科学・科学技術の分野においても、そう簡単なことではない。
むしろ、日本語(ことば)のように、人間が自然と身につけているものについての「学」を、どのように発信するかは、もっと考えられていいのではないだろうか。

それであるならば、たとえばWikipediaにもっと専門家が参画していくなどの、地道な努力も必要だろう。(私の記憶の範囲では、ウィキペディアの件は、シンポジウムで話題にならなかったと思われる。)

それにしても、ただ、発表要旨があって、それにそってはなしをすすめるだけ……では、そもそも、あまりにも芸がないように思えてならない。シンポジウム全体のプレゼンテーションのあり方自体を、再考してもよかったのではないか。

當山日出夫(とうやまひでお)