ウィキペディアを考える三つの視点2011-01-26

2011-01-25 當山日出夫

先日の、ウィキペディア10周年の会で話したこと、特にその結論部分を、まとめておく。

結論を整理すると以下のようになる。いまのウィキペディアについての議論は錯綜している。それを整理するならば、(特に、教育、それも高等教育という観点から考えてみよう、)

第一に、ウィキペディアからであれ、なんであれ、剽窃(コピペ)はダメであるということ。ウィキペディアからのコピペ(剽窃)がよく話題になる。しかし、剽窃がいけないのは、別に、WEBにかぎったことではない。紙の本からだって、書いてあることを、そのまま、ことわりなしに、書き写しておくのは厳禁である。きちんと「引用」し、さらに、その「出典・典拠」を明記しなければならない。これは教育の基本。

第二に、信頼できるかどうか、という点。ウィキペディアだから信用できない、という判断は、短絡的にすぎるであろう。なかには信頼にたる項目もあるはずである。それらを、きちんとみわけていくのが、むしろ専門教育のなかでの有効な利用ではないか。特に、「履歴」「ノート」の箇所を、きちんと読んでいくならば、どのようにして、専門的な知識が形成されていき、どのあたりで、百科事典的な知識としてのいきつくところがあるのか、考えてみるのも面白いかもしれない。

もちろん、なかには、信頼のおけない項目もあるだろう。それはそれとして、なぜ、信用できない記述であるのかを考えることにも意味がないわけではないであろう。(強いて、それを、訂正加筆せよ、とまでは言わないにしても。)

第三に、安定しているかどうかの問題。これが一番こまるところである。知識は、一度固定され安定した状態になってはじめて、次世代に継承される基盤となりうる。それが、時としては、一日のあいだに、10回以上も書き換えられてしまうようでは、とても、安定した知識とはいえない。

まちがっていてもかまわないから安定した知識である……このことにも、十分な知的活動に資する意味があるのである。ただ、常に最新版であることだけに、価値があるのではない。また、最新版=ただしい、とも限らない。

これは先に記した、「引用」の問題とも関連する。いつ、だれが見ても、そこに同じ記述が見いだせるものでなければ、検証可能性を保証するものとして、典拠として、引用できない。まちがっていてもかまわないから、安定したものである必要がある。まちがいは、まちがいの事例として引用できるのである。

極端にいえば……日本史研究者の仕事は、『国史大辞典』をただすことであろうし、日本語学研究者の仕事は、『日本国語大辞典』の記載を訂正していくことにあるともいえよう。これらの場合、十分にただしいとはいえないものとして、そこに安定して共有できる知識としてあるからこそ、その仕事の対象とできる。これが毎日のように、記載の内容が変更されるようでは、研究の資料にならない。

以上、三つの視点が、ウィキペディアについて考えるときに、みなければならない観点であると、私は考える。すくなくとも、どのような観点から、ウィキペディアを批判するか(あるいは肯定するか)について、自覚的である必要があろう。

この他にも、いくつか論じてみたい論点はあるが別に記すことにする。

當山日出夫(とうやまひでお)

ウィキペディアとブリタニカ2011-01-26

2011-01-26 當山日出夫

これは危険である……と、思わざるをえない。

学生にレポートを書かせてみた。ウィキペディアについてのものである。そのなかで、幾人かが書いていたこと……ウィキペディアは、ブリタニカに匹敵するだけの正確さをもっているので十分に信用できる。

さて、これは、ただしいことだろうか。

このこと、「ウィキペディア ブリタニカ」で検索してみればわかる。調査したのは、ネイチャー誌。項目は、自然科学にかかわる42項目。(いいかえれば、すべての項目にわたって網羅的に調査したというのではない。そんな労力があったら、新しい百科事典がつくれてしまう……)。

日本語版のウィキペディアの記事を、いくつか見ただけで、書きかけの項目、不十分な記載で問題があると指摘されている項目、いくらでもみつかる。

ところが、この言説=ウィキペディアは正しい、が一人歩きしてしまている。そりゃ、項目をえらんで調査すればそうなるだろう。特に、自然科学の分野では、ある程度の、百科事典的な、あるいは、教科書的な記述の基本がある程度あるだろう。そのようなものと、文学部で学ぶ人文学の世界とを、同列に、無批判にあつかうというのが、そもそも、問題なのではないのか。

甲論乙駁、議論が錯綜して、両論併記さえできないようなのが、人文学の複雑な学知の基本にある。(少なくとも私は、そのように思っている。)百科事典的な、教科書的な、おとしどころのある記載、それもなくはないだろうが、その先を考えるのが、勉強である。

この意味では、執筆責任者がその責任で書いたうえで、各種の参考文献をあつめてくれておいてくれた方が、ありがたいともいえる。不適切な要約は、かえって誤解をまねきかねない。自分で、原典をあたって読んでみるしかない。

基本となる知識があることは否定しない。だだ、そこから、一歩ふみだして何かを語ろうとしたとき、そこに、やはり書き手の解釈のはいりこむ余地がある。いや、逆に、解釈がなければ、人文学の知について書かれた文章ではないともいえよう。

そこに、どのような形で、匿名性にもとづく信頼感をきづいていくのか、課題は、さらに先にあると思うのである。百科事典的な知識とはそもそもなんであるか、このところについての基本的な問いかけから、まず、考えていかねばならないのだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』463号の感想2011-01-26

2011-01-26 當山日出夫

『ARG』463号の感想をすこしだけ。

気になった記事はふたつ(まあ、私の興味、関心のあるところとしであるが)。

京都大学アフリカ地域研究資料センターのTwitter利用開始

http://twitter.com/#!/Africa_Kyoto_U

特に、私の専門がアフリカ研究に直接関係するというわけではない。しかし、いろんな研究機関などが、その活動を、Twitterなどで情報提供してくれることはうれしい。自分自身がフォローしないまでも、重要な情報は、リツイートされて、どこからともなく流れてくるものである。(今までに、そのようにして、私自身、多くの情報を得てきている。)

地域研究、言語研究などで、興味のある研究会などの情報提供に期待したい。

それから、芝浦工業大学でのOPACでの表紙画像利用の件。図書館のOPACとしては、一つのこころみだろうと思う。これはこれとして高く評価したい。

ただ、表紙画像といっても、図書館にはいるときは、カバーがなくなってしまう場合もある。中身はなんのそっけもないことが多い。また、年数を経ると、カバーのデザインだけ変わるということもある。それなりに問題をかかえていることにはなるとおもうのだが、しかし、これは非常に興味深い。

なお、第11回ARGカフェ&ARGフェスト@宮古島、これは興味深い。ちょっと宮古島では、私の場合、都合がつかないのであるが……しかし、ARGカフェを都会でばかりやることもない。地方に行って、その地方の人の話を聞く場をつくることはとても重要なことだと思う。

地方の人どうしが話しをしようと思って、東京にあつまる……これも、考えてみれば、なんだかつまらない話しである。地方も都市部もなく、自由に語り合える場になってほしいと願う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)