『真田丸』におけるパトリオティズム2016-06-01

2016-06-01 當山日出夫

『真田丸』(NHKの今年度、2016の大河ドラマ)について、いささか。

今、舞台は、大坂城である。秀吉の馬廻衆としての、真田信繁が描かれる。ここで、私が気になっていること……それは、大坂編の前にはよく登場した、信州の真田の郷が、まったく登場しなくなっていることである。このドラマの初期のころ、毎回のように、真田の郷の、いかにも平和で牧歌的な風景がよく出ていた。それが、大坂編になってから、さっぱり見られない。

これは、どうしたことなのだろう。どのような意図があってのことなのだろうかと思って見ている。

「愛国心(ナショナリズム)」「愛郷心(パトリオティズム)」と、とりあえず言ってみよう。戦国時代から、ようやく、安土桃山時代である。まだ、国民国家としての日本は成立していない。であるならば、この当時の人々(特に、武士について考えてみれば)、「ナショナリズム」ではなく「パトリオティズム」というものを、想定して見ることは、無理でないかもしれない。

いや、戦国武将の実際はそうではないという、歴史学からの反論もあり得るとは思う。たとえそれがどこであれ、自分の領地として、勝ち取ったもの、安堵されたものであれば、そこを守るのが武士である、とすることもできよう。

しかし、ここで言いたいのは、ドラマの世界でのことである。このドラマにおいて、主人公・信繁にとって、真田の郷はどんな意味があるのであろうか。

現在の我々は、歴史の結果を知っている。信繁は死ぬ。真田の郷に帰ることはできない。

では、信繁は、いったい何のために死ぬのであろうか。平和な時代がおとずれて、再び、真田の郷で、のどかに暮らす将来を夢見てのことだろうか。それとも、豊臣家(秀頼や淀君)への忠誠心の故であろうか。

『真田丸』の特色の一つは、その歴史考証にある。たとえば、よく登場人物がつかうことば「国衆」。これは、基本的には、歴史学用語であると、私は理解して見ている。そして、「国衆」という概念でもって戦国時代を考えるようになったのは、歴史学でも近年のことに属する。

戦国武将のエトスとして、何が、死に向かわせるのであろうか。この疑問に、このドラマの歴史考証は、どのような答えを用意しているのであろうか。

ドラマがはじまって、ようやく半年ちかくになる。これから、いよいよ、関ヶ原の合戦、大坂の陣にむけて、時代は流れていく。一族の存亡、覇権の争奪、いろんな要素がからみあって、登場人物は動いていくであろう。このなかにあって、主人公・信繁の心情の底にあるもの……エトスと言っておく……これは、いったい何であるのか。

私の立場として、このドラマの最大の見所は、信繁のエトスをどんなものとして描くかにある。

と、ここまで書いたのが先週のことである。しばらくおいておいて、5月29日第22回「戦端」を見ると、これから、沼田の城をめぐっての攻防になるようだ。現代でいえば、さしずめ「領土ナショナリズム」といったところか。これもまた、戦国武将のエトスというべきなのであろうか。

あるいは、尖閣諸島とか竹島とかの領土問題をかかえている現在の日本にとって、「領土ナショナリズム」の方がわかりやすいのかもしれない。ともかく、次回が楽しみである。

追記
このつづきは、
「真田丸」における忠誠心
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/29/8141699