『文学』休刊に思うこと ― 2016-06-12
2016-06-12 當山日出夫
すでにWEB上その他で、いろんな人が発言している。私にとってみれば、ああ、また一つ雑誌が減ったのか。あるいは、岩波書店は、これから本当に大丈夫なのだろうか、といった感想であった。
『文学』休刊のお知らせ
http://www.iwanami.co.jp/bungaku/
『文学』(岩波書店)休刊のニュースからやや時間がたったので、ここで自分なりに思うことをすこし書いてみたい。
まず、いうまでもないことであるが、日本文学・国文学関係の各種雑誌の衰退ということがいえよう。『国文学』『解釈と鑑賞』は、すでにない。『月刊言語』もなくなってひさしい。
また、これもよく指摘されることであるが、全国の大学から、日本文学・国文学の専攻が減少傾向にある、ということもいっておかねばなるまい。
だが、こんなことは、私がここで今さら書くほどのことでもないだろう。
ただ、私の立場で思うことは、
・雑誌は、「商品」として流通するものである。
・自分は、それを商品として買う「消費者」である(図書館での利用をふくめて)。
このことの確認である。つまり、消費者がいなくなれば、その商品は売れなくなる、これは当たり前のことである。そして、重要なポイントは、自分もその顧客・消費者の一人である、という認識である。商品が売れるためには、まずその消費者が存在しなければならない。
自分が買わなくなった商品なら、それが市場から姿を消してもおかしくはない。いや、当たり前である。自分が行かない、買わないお店が、つぶれて廃業したとしても、それは当然のこととするのが、今の社会のあり方であろう。
需要と供給……これは、ニワトリとタマゴのようなものであろう。だが、これから「供給」(雑誌)をいくら工夫しても、需要(消費者・読者)が、増えるということは、たぶんないだろう。少なくとも、日本文学関連の分野については、と思う。
ところで、私は、昔は(学生のころからしばらく)、『文学』を定期購読していた。大学の生協の書店で、ずっと買っていた。三田の文学部国文科の学生のころのことである。そして、だいたいは読んでいた。そんなに丁寧に読むということはなかったけれど、ざっと目を通すぐらいのことはしていた。ちなみにいえば、『国文学』も買っていた。
それが、買わなくなってしまってしまっている。その理由は、次の三つだろうか。
第一に、大学院にすすんで、自分の専門は「国語学・日本語学」と決めるようになったので、文学全般にわたる雑誌に、それほど必要性を感じなくなった、ということがある。学会として、国語学会(現在の日本語学会)、訓点語学会には所属していた。これは、今でも続けている。「文学」から「国語学・日本語学」へ専門的にシフトしていったということである。
第二に、図書館で読めると判断したからである。文学部というようなところで教えていえれば、『文学』ぐらいはおいてある。強いて、自分で買って持っておくほどのこともない。
第三に、内容がつまらないと感じるようになったからである。特に、近年のことであるが、月刊から隔月刊になって以降は、あまり読む気がしなくなった。たまに、特集で興味のあるときは買ったりしたが。
これら三つの事柄は、同時におこったことではなく、別途、時間をかけて徐々にあったことではある。しかし、総合的に考えて、このような三つの理由で、『文学』を定期購読することは止めてしまった。つまり、消費者であることをやめたのである。だが、今になって思うことは……ずっと買い続けていればよかった、そして、毎月、ざっとでも目を通すようにしておけばよかった、という悔恨である。(いや、逆にいえば、そのような雑誌であってほしかったという「願望」というべきである。)
これは、自分の勉強のあり方について考えることにもなる。あまりに、専門領域……国語学・日本語学のなかでも、訓点語・文字・表記、そしてそれから私の場合には、コンピュータの文字について……に、とじこもらずに、ひろくいろんな文章・論文を読んでおくべきであった。
今になって、そのような生活をおくってみたい、このようなブログで『文学』というカテゴリを作って毎月の号の感想を記す、こんなこともいいかな……と思ったところで、その『文学』がなくなってしまうことになっている。
けれども、もし、私が定期購読者を続けたところで、かつてのような月刊の『文学』が存続したとも思えない。だが、そうはいっても、いささか残念な思いがあることも事実である。
そして、これを、別の観点からはこのようにいうこともできよう……『文学』を毎月ひととおり読み続けるような勉強のあり方が、もはやすたれてしまったこと、このことが基本にある。文学部での勉強のスタイルというか、生き方のようなものが、変化してしまったのである。
そのようなスタイルの勉強が変容してしまったこと、『文学』がつまらなくなってしまったこと、『国文学』などが終わりになったしまったことなどは、関連する一連のできごとだと思う。
いうなれば、いまでは、『文学』という商品の供給を必要とするような、消費者がいなくなってしまったのである。
このことについては、後ほど続けて書いてみたい。
付記
なお、この文章は、松本功(ひつじ書房)のFacebookでの発言に触発されて書いたところのあることを、書き添えておきたい。誤解してのことかもしれないが。
追記 2016-06-19
この文章のつづきは、
「世界をまるごと分かりたい」(2016ー06ー17) として書いてある。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/17/8113547
すでにWEB上その他で、いろんな人が発言している。私にとってみれば、ああ、また一つ雑誌が減ったのか。あるいは、岩波書店は、これから本当に大丈夫なのだろうか、といった感想であった。
『文学』休刊のお知らせ
http://www.iwanami.co.jp/bungaku/
『文学』(岩波書店)休刊のニュースからやや時間がたったので、ここで自分なりに思うことをすこし書いてみたい。
まず、いうまでもないことであるが、日本文学・国文学関係の各種雑誌の衰退ということがいえよう。『国文学』『解釈と鑑賞』は、すでにない。『月刊言語』もなくなってひさしい。
また、これもよく指摘されることであるが、全国の大学から、日本文学・国文学の専攻が減少傾向にある、ということもいっておかねばなるまい。
だが、こんなことは、私がここで今さら書くほどのことでもないだろう。
ただ、私の立場で思うことは、
・雑誌は、「商品」として流通するものである。
・自分は、それを商品として買う「消費者」である(図書館での利用をふくめて)。
このことの確認である。つまり、消費者がいなくなれば、その商品は売れなくなる、これは当たり前のことである。そして、重要なポイントは、自分もその顧客・消費者の一人である、という認識である。商品が売れるためには、まずその消費者が存在しなければならない。
自分が買わなくなった商品なら、それが市場から姿を消してもおかしくはない。いや、当たり前である。自分が行かない、買わないお店が、つぶれて廃業したとしても、それは当然のこととするのが、今の社会のあり方であろう。
需要と供給……これは、ニワトリとタマゴのようなものであろう。だが、これから「供給」(雑誌)をいくら工夫しても、需要(消費者・読者)が、増えるということは、たぶんないだろう。少なくとも、日本文学関連の分野については、と思う。
ところで、私は、昔は(学生のころからしばらく)、『文学』を定期購読していた。大学の生協の書店で、ずっと買っていた。三田の文学部国文科の学生のころのことである。そして、だいたいは読んでいた。そんなに丁寧に読むということはなかったけれど、ざっと目を通すぐらいのことはしていた。ちなみにいえば、『国文学』も買っていた。
それが、買わなくなってしまってしまっている。その理由は、次の三つだろうか。
第一に、大学院にすすんで、自分の専門は「国語学・日本語学」と決めるようになったので、文学全般にわたる雑誌に、それほど必要性を感じなくなった、ということがある。学会として、国語学会(現在の日本語学会)、訓点語学会には所属していた。これは、今でも続けている。「文学」から「国語学・日本語学」へ専門的にシフトしていったということである。
第二に、図書館で読めると判断したからである。文学部というようなところで教えていえれば、『文学』ぐらいはおいてある。強いて、自分で買って持っておくほどのこともない。
第三に、内容がつまらないと感じるようになったからである。特に、近年のことであるが、月刊から隔月刊になって以降は、あまり読む気がしなくなった。たまに、特集で興味のあるときは買ったりしたが。
これら三つの事柄は、同時におこったことではなく、別途、時間をかけて徐々にあったことではある。しかし、総合的に考えて、このような三つの理由で、『文学』を定期購読することは止めてしまった。つまり、消費者であることをやめたのである。だが、今になって思うことは……ずっと買い続けていればよかった、そして、毎月、ざっとでも目を通すようにしておけばよかった、という悔恨である。(いや、逆にいえば、そのような雑誌であってほしかったという「願望」というべきである。)
これは、自分の勉強のあり方について考えることにもなる。あまりに、専門領域……国語学・日本語学のなかでも、訓点語・文字・表記、そしてそれから私の場合には、コンピュータの文字について……に、とじこもらずに、ひろくいろんな文章・論文を読んでおくべきであった。
今になって、そのような生活をおくってみたい、このようなブログで『文学』というカテゴリを作って毎月の号の感想を記す、こんなこともいいかな……と思ったところで、その『文学』がなくなってしまうことになっている。
けれども、もし、私が定期購読者を続けたところで、かつてのような月刊の『文学』が存続したとも思えない。だが、そうはいっても、いささか残念な思いがあることも事実である。
そして、これを、別の観点からはこのようにいうこともできよう……『文学』を毎月ひととおり読み続けるような勉強のあり方が、もはやすたれてしまったこと、このことが基本にある。文学部での勉強のスタイルというか、生き方のようなものが、変化してしまったのである。
そのようなスタイルの勉強が変容してしまったこと、『文学』がつまらなくなってしまったこと、『国文学』などが終わりになったしまったことなどは、関連する一連のできごとだと思う。
いうなれば、いまでは、『文学』という商品の供給を必要とするような、消費者がいなくなってしまったのである。
このことについては、後ほど続けて書いてみたい。
付記
なお、この文章は、松本功(ひつじ書房)のFacebookでの発言に触発されて書いたところのあることを、書き添えておきたい。誤解してのことかもしれないが。
追記 2016-06-19
この文章のつづきは、
「世界をまるごと分かりたい」(2016ー06ー17) として書いてある。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/17/8113547
最近のコメント