志賀直哉『城の崎にて』は小説か随筆か2016-06-23

2016-06-23 當山日出夫

安藤宏.『「私」をつくる-近代小説の試み-』(岩波新書).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/4315720/

この本は、日本の近代小説における「私」(第一人称)のふるまい方をめぐる論考である。内容については、すでにWEB上にいろんなレビュー等があるので、くりかえさない。

すでにこのブログで書いたこととの関連で気になったことを一つだけ。

『城の崎にて』(志賀直哉)……この作品が、岩波文庫『日本近代随筆選』第三巻(思い出の扉)に収録されている。これは、はたして妥当なことなのであろうか。私の認識では、『城の崎にて』は、「小説」だと思っていた。

『日本近代随筆選』第三巻の解説にはつぎのようにある(長谷川郁夫)、

「随筆に記されるのは、いつの場合もこころの真実である。しかし、思い出には記憶違いもあれば、誇張もある。リアリティ尊重の究極のかたちが随筆だろうと理解しても、それが「作品」となる以上、そこには読ませる技術、読者を喜ばせる技術が必要とされる。(中略)ときにはフィクショナルな要素が、あるときには多分に加味される。」(p.346)

そして、吉田健一にふれた箇所をうけて

「随筆は虚実のあわい、その妙を味わうべきものとも考えられるのである。/などと記せば、本集に志賀直哉の心境小説の代表作とされる「城の崎にて」を収めた意図も、おおよそのところ推察されることと思う。」(p.347)

ここでいっていることは、私の理解では、「随筆」にはウソを書いてもかまわない。フィクションであってもよい。要はその文章の巧さをどう表現するかにある、ということである、と読める。

一方、『城の崎にて』について、安藤宏は、『「私」をつくる』で、次のように書いている。

「かつてある留学生にこの小説を薦めてみたところ、興味深く読んだけれども、これは「小説」ではなくエッセイなのではないか? という質問を受けたことがある。決してそのようなことはない、『城の崎にて』は発表当時から理想的な「小説」として高く評価されてきたのだ、と、とりあえずは答えてみたものの、実はエッセイではないという理由をうまく説明できず、その時の歯がゆさが「小説」における共同性について考えるきっかけにもなったのだった。/エッセイと「小説」とを区分するポイントは、やはりこの場合も「自分」が小説家であり、『城の崎にて』のできあがるプロセスが平行して示されている、という設定にかかっているように思われる。」(p.159)

「つまり「それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」という執筆の現在までもが含まれている。特に右の「なるだけは」という文言には、結果的に助かったけれども、実は人生それ自体、この三年間のモラトリアムとはたしてどこが違うのか、という「現在」の認識がぬり込められている。温泉保養の挿話の背後には、一人の小説家が数年間かけて死生観を変容させていくプロセスが、いわば「もう一つの物語」として示されているわけである。」(pp.159-160)

安藤宏の見解としては、書いてあることが「事実」かどうかは、たいした重要性はない、それよりも、どのような「自分」をどのように書いているのか、その「自分」のふるまい方にあるのだ、といっているように理解される。

たしかに『城の崎にて』は、「随筆」としても「小説」としても読める作品である、としかいいようがないのかもしれない。だが、しいていえば、私としては、「小説」であるといっておきたい。

以下、私見である。それは、作中の「自分」の描き方である。これは、第三者視点(神の視点)から見た「自分」であると、私には読める。限りなく素朴な実在論的な意味での自分にちかい「自分」もあれば、逆に、第三者視点(神の視点)を経由したうえで描き出される「自分」もある。この意味でいうならば、『城の崎にて』の「自分」は、「自分」とは書いてあるものの、第三者視点(神の視点)を経由して眺めた「自分」である。私には、そのように読める。

したがって、『城の崎にて』の「自分」が、読者との「共同性」をおびたものとして、ふるまってもおかしくはない。「共同性」を描こうとするならば、「読者」と「作者」の両方を、同時に俯瞰する視点が必要になるからである。

つまり、次のようにまとめることができる。

「随筆」と「小説」を分けるものは、事実か虚構かではない。「自分」をどのような視点から見るかである。「作者」イコール「自分」であるのが「随筆」。そうではなく、「自分」を第三人称視点(神の視点)から見たものとして描くのが「小説」。一人称視点の小説というものもありうるが、そのとき描かれる「自分」は、それが「私小説」であったとしても、「作者」からではなく、第三人称視点(神の視点)を経由したものでなければならない。

この意味では、『日本近代随筆選』に『城の崎にて』がはいっているのは、それなりの判断があってのことにせよ、多少の問題がないわけではない。

とりあえず以上のように考えてみた。さらに考えてみたい。