西川武臣『ペリー来航』2016-06-30

2016-06-30 當山日出夫

西川武臣.『ペリー来航-日本・琉球をゆるがした412日間-』(中公新書).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/06/102380.html

ペリーがどのような航路をたどって日本にやってきたかについては、このブログでも、すでにふれている。

やまもも書斎記 2016年6月11日
ペリーはどうやって日本に来たのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/11/8108879

これを書いたときには、この本が出ることを知らなかった。さっそく読んでみた。やはり、ペリーは、大西洋から喜望峰をまわってインド洋に出て、インド・中国を経て、日本にやってきている。具体的な寄港地としては……セイロン島・シンガポール・マカオ・琉球・小笠原、などになる。

では、ペリーのひきいた「東インド艦隊」とは、どのような目的のものであったのか。

「一八三五年に中国・日本・東南アジアの海域を活動範囲に、自国の権益と自国民の保護を目的に設立された艦隊である。」(p.15)

当時の国際情勢はどうであったかというと、

「日本にロシアやイギリス船が来航するようになった頃、アメリカ商船も東アジアでの活動を始めていた。(中略)商船の目的は中国との貿易で、アラスカなどで捕獲したアザラシやラッコの毛皮を満載した船は、アフリカやインドでも交易を続け、中国に至った。帰り船は中国で茶を中心に、生糸・絹織物・陶器などを購入しアメリカに運んだ。」(p.7)

このような状況のもと、

「(ペリーは)最終的に「今のところ、日本および琉球にはイギリスの手が及んでおらず、この地域でのアメリカが自由にできる港を、早急に確保すべきである」と主張した。」(p.29)

ペリーの日本来航は、しかるべくしてやって来たということになるのだろう。

この本は、ペリー来航をめぐる様々なことが書いてあるが、やはり重要なのは、琉球との関係であろう。

「翌五四年七月一一日には琉米修交条約が結ばれ、アメリカ合衆国は琉球と最初に近代的な条約を結んだ国となった。」(p.24)

このこと、アメリカと琉球との関係については、私の知見の範囲では、通常の日本史で出てこないことのように思われる。だが、琉球の歴史……かつては、独立した王国であり、中国(清)の冊封体制にあると同時に、日本の薩摩藩の支配下で幕藩体制のもとにあった……そして、明治維新後、日本の領土の一部に組み込まれていった、このような歴史のなかにおいて、条約を締結する、つまり、アメリカにとっては、パートナーであった(たとえ不平等条約であろうとも)ことの意味は、ないがしろにできない。

それから重要な意味をもっていたのが、小笠原である。

「実は小笠原諸島もアメリカの支配下に置く計画があった。(中略)近い将来、太平洋を航行する捕鯨船の寄港地や日本を経由して、カリフォルニアから中国にいた得蒸気船航路が確立された際、小笠原諸島は貯炭地として利用できるというのがその理由であった。」(pp.37-38)

このペリー来航は、まったくの突然のことだったのかというとそうでもないようだ。幕府は、『別段風説書』などによって、事前に情報を得ていたらしい。教科書に書いてあるように、1853年にいきなり黒船が出現して仰天したということでもないようである。

それはともかくとしても、ペリー来航に際しての日本の世間の様子が面白い。黒船見物に大勢おしかけている。そして、それに対して幕府が禁令をだす。ワシントン生誕の祝砲のこと、また、日本でおこなわれた乗組員の葬儀のこと、写真撮影のこと、汽車のこと、電信機のこと、など、明治の文明開化につらなるいろんなことがあって、これはこれで興味深い。もちろん、吉田松陰の事件もある。

この時代(ペリーが日本にやってきた時代)、それは、アメリカが、東回りで中国から日本をめざしたと同時に、西海岸から太平洋をわたって日本をめざす、まさにそのような時代であったことになる。

だいたい、以上が、私がこの本を読んで感じ取ったところであるが、さらにいうならば、それは、日本の幕末・維新の時代が、まさに、アメリカ南北戦争とほぼ同時代のできごとであり、これは『風と共に去りぬ』の時代でもあるといってよいであろうか。これについては、おって考えてみたい。