荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』2016-06-15

2016-06-15 當山日出夫

荒木優太.『これからのエリック・ホッファーのために-在野研究者の生と心得-』.東京書籍.2016
http://www.tokyo-shoseki.co.jp/books/80975/

この本は、もとはインターネットの連載記事である。

En-Soph
http://www.en-soph.org/

在野研究のススメ
http://www.en-soph.org/archives/cat_1136595.html

本のサブタイトルにある「在野研究者」とは、大学とかの研究機関に所属しないで、研究活動をする研究者のこと。その事例研究とでも言おうか。

エリック・ホッファー(1902-1983)とは、アメリカの在野研究者。沖仲仕などの仕事をしながら論文・著作をあらわした。

エリック・ホッファー(中本義彦訳).『エリック・ホッファー自伝』.作品社.2002
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/4735.html

エリック・ホッファー(田中淳訳).『波止場日記-労働と思索-』.みすず書房.2014
http://www.msz.co.jp/book/detail/08374.html

この本であつかっている研究者は、すべて故人としてある。名前をしめせば……

三浦つとむ(哲学・言語学)
谷川健一(民俗学)
相沢忠洋(考古学)
野村隈畔(哲学)
原田大六(考古学)
高群逸枝(女性史学)
吉野祐子(民俗学)
大槻憲二(精神分析)
森銑三(書誌学・人物研究)
平岩米吉(動物学)
赤松啓介(民俗学)
小阪修平(哲学)
三沢勝衛(地理学)
小室直樹(社会科学)
南方熊楠(民俗学・博物学・粘菌研究)
橋本梧郎(植物学)

はっきりいって、知らない名前もあったりするのだが……最初に出てくる三浦つとむ、この人の著作は読んでいる。本棚を探せば、まだどこかにあるはずである。

たぶん、私の世代なら名前ぐらいは知っているだろう。直接、三浦つとむの著作を読まないまでも、『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)で名前ぐらい見たことがあるはずである。

吉本隆明.『吉本隆明全集』第8巻.晶文社.2015
http://www.yoshimototakaaki.com/dai8kan.html

かくいう私も、『言語にとって美とはなにか』で名前を知って読んだ。まだ、私が学生のころである。そのころは、三浦つとむの本は、普通に書店で買えた。この人が、すぐれた言語学の研究者であるという認識はもっていたが、それほど深く傾倒することはなかった。やはり、在野の人であったせいかもしれない。だが、ガリ版切りで生計をたてていたということまでは、この本を読むまでは知らなかった。あるいは覚えていなかった。

それから、高群逸枝……『火の国の女の日記』(たしか講談社文庫)を読んだのは学生のときだった。それから、『娘巡礼記』(たしか朝日選書)も読んだりした。(高群逸枝のことについては、また別に書いてみたい。)

森銑三、ここに名前が出てくるので、ああそうか、このひとも在野のひとであったのだなと、あらためて感じいったりである。

ところで、重要なことは、ここにあげられた在野研究者もそうなのであるが、著者(荒木優太)自身が、在野のひとである。どこかの大学につとめているというわけではない。その立場で、在野に身をおきながら研究にうちこむときの、こころがまえとか、注意点とか、危惧すべき点とか、書いてある。

だからといって、その答えがひとつにまとめて、解答として書いてあるという本ではない。むしろ、この本のいわんとするところを端的にあらわしているのは、本の帯の

「勉強なんか勝手にやれ。やって、やって、やりまくれ!」

であろう。

著者は、「あとがき」でこう記している、

「私はことあるごとに大学教授から、研究者になりたいのなら教師になるしかない、と言われていた。研究職とは同時に教職である。(中略)/なにが嫌だったのか。いろいろあるのだろうが、おそらく一番大きかったのが、研究者イコール教師であるという自明の認識を押しつける、その無自覚な鈍感さに私は耐えられなかったのだ。」(p.250)

すでに言われていることではあるが……この本は、これから大学院にすすんで学問の世界で生きていきたいと思っているような若い学生が、まず読んでみるべきだろう。研究者として大学に籍をおく専任の教員ではなくても、研究はできるのだ、ということを教えてくれる。また、在野には、在野に向いた研究分野があることも。

そして、そういえば……私の師匠(国語学)も、在野のひとであったのである。すでに亡くなってひさしいが。ふと、そんなことを思ってみたりもする。

『夫婦善哉』あれこれ2016-06-16

2016-06-16 當山日出夫

『夫婦善哉』について、思いつくまま書いてみたい。

NHKの土曜日『トットてれび』を見ている。森繁久弥がでてくる(吉田鋼太郎)。この時代の、つまり、テレビの草創期の森繁久弥といえば、たぶん、『夫婦善哉』(映画)かなと思って見ていたりした。

では、『夫婦善哉』といって、ひとは何をまず思い浮かべるだろうか。ふと、小説を読んでおくべきだと思って、読んでみることにした。

(1)織田作之助の小説『夫婦善哉』(初出は、昭和15年。)
小田作之助.『夫婦善哉』(岩波文庫).岩波書店.2013
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/31/9/3118520.html

(2)これは、映画『夫婦善哉』で有名になった作品であると認識している。森繁久彌・淡島千景、豊田四郎監督、昭和30年(1955年)。

(3)NHKのドラマ『夫婦善哉』も最近のものとしてある。森山未來・尾野真千子、平成25年(2013年)。
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=meotozenzai

(4)石川さゆりの歌っている『夫婦善哉』も思いうかぶところである。昭和62年(1987年)。

私の場合、(2)の映画(1955)は見ていない。

(1)については、岩波文庫で読んだ。読んでみての感想としては……

まず、大阪の小説だな、という印象。大阪を舞台にした小説といえば、『細雪』(谷崎潤一郎)を思い浮かべるが、この作品は、それとは違う大阪を描いている。もっと庶民的な猥雑な世界である。

ただ、私個人にしてみれば、あまり大阪の街にはなじみがない。知っている街といえば、京都と東京ぐらいである。

戦前の大阪の街の風俗とはこんなものだったのか……と、いろいろと興味をひかれるところがある作品である。とはいえ、小説として面白いかどうかとなると、正直いってあまり面白いとは思わなかった。

それよりも、今の私にとっては、先年放送した、(3)のNHK版『夫婦善哉』のドラマのイメージが強すぎるので、「ああ、あのシーンは、もとの小説では、こんふうに書いてあったのか」と逆の方向で、納得するようなところが多い。ドラマの中での食事シーンや、いとなんでいる店のシーンは、印象的な場面が多かったが、それがどのように原作の小説で出てくるかも興味深い。

このドラマ、気にいって、録画して見て、たしか2~3回は繰り返して見た記憶がある。

それから、(4)の石川さゆりの『夫婦善哉』の歌である。これは、私のお気に入り。そんなに多く石川さゆりのCDを持っているというわけではないが、持っている中では一番気にいっている曲といっていいのではないだろうか。

石川さゆり『夫婦善哉』たぶん、時期的なことを考えれば、(2)の映画版『夫婦善哉』のイメージがもとになっているのだろうと推測する。しかし、そのようなこととは独立して、歌として聞いていて、非常にいい。石川さゆりの歌の特徴は、その情感表現のたくみさと、それと同時に、わかりやすさにあると思っている。

たぶん、『夫婦善哉』というのは、日本の大衆文化のなかで、今後も生き続けていくものであるにちがいない。

世界をまるごと分かりたい2016-06-17

2016-06-17 當山日出夫

今回は、この本について書いてみたい。

戸田山和久.『科学哲学の冒険-サイエンスの目的と方法をさぐる-』(NHKブックス).日本放送出版協会.2005
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910222005.html

この本については、このブログでかなり以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2008年6月8日
科学について思うこと:『論文の教室』と『科学哲学の冒険』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/08/3568333

今回この本を読みなおしてみようと思った理由は、『歴史を哲学する』(野家啓一)の本を読んだからである。歴史的事実とは何か、あたりまえのこととして、事実を認定することはむずかしい。

やまもも書斎記 2016年5月23日
『歴史学ってなんだ?』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/23/8094500

さて、現在、この本をよみなおして感じることは、基本的に三つある。

第一には、すでに、2008年のときに述べたことの確認である。論文を書くときには、事実と意見を区別する必要がある。しかし、その事実とはなんであるか、確定的にいうことはむずかしい。これは、学生に作文を教えるなかで問題となる。(この点については、ここではもうくりかえさない。)

第二には、上にのべた点をうけてのことであるが、歴史哲学における事実の認定の問題である。『歴史を哲学する』(野家啓一)を読んで、歴史は物語である……という趣旨の主張に、私がさほど違和感をいだかずに読みすすめることができのは、おそらく、以前に、『科学哲学の冒険』(戸田山和久)を読んでいたせいだろう。

物質は原子からなる、このような自明とも思われるようなことであっても、それを事実として認定することは、科学哲学上の大問題である。科学的実在論を主張するのは、なかなか困難であることが、この本を読むと理解できる。

たぶん、高校生ぐらいまでの知識(歴史・科学について)で、自明の事実とされるものであっても、それを、歴史哲学・科学哲学の分野の課題として、確実にいいきることは、なかなか困難なことである。社会構成主義は、きわめて手強い。

この論点については、また、あらためて考えてみたい。

第三には、(これが今回、ここで特にいいたいことであるが)なぜ勉強するのか、その基本姿勢についてである。勉強するときの心構えととでもいおうか。これは、すでに書いた……『文学』(岩波書店)休刊について書いたこととも、関連する。

やまもも書斎記 2016年6月12日
『文学』休刊に思うこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/12/8109505

このとき、私は、現在にいたるまでの勉強する姿勢の変化とでもいうべきことについて書いておいた。『文学』を継続的に読むような勉強のスタイルが消えてなくなってしまったのであると。

これは、文学研究という文科系のこととして書いたのであったが、今回『科学哲学の冒険』を読んで、理系でもそのようなことがあるのかと、思った次第である。たぶん、この本の本来の趣旨からすれば脇道にはいって書いたとおもわれる、つぎのような箇所。

「(この本を書いた動機として)、もう半分は、若い人から「世界をまるごと分かりたい」という気持ちが失われてきているし、社会全体からもそういう活動に払う敬意がなくなってきているってこと。大学で教えていると、最近ものすごく痛感する。」(p.242)

「むしろ理系の学生に顕著な傾向だよね。教えていると、え、この世の仕組みをもっとよく分かりたいから科学を勉強しているんじゃないのって言いたくなることがけっこうあるよ。」(p.242)

「問題は、そうして入ってくる理数系学生の気持ち、というか知的動機づけの問題なんだよね。」(p.242)

今回、このような箇所に、ふかく同意するところがあった。やはり理系でもそうなのか、という思いである。しかも、この本が書かれたのは、今から10年以上もまえである(2005年の刊行)。

「世界をまるごとわかる」……だいそれた望みかもしれない。しかし、若い時に勉強する動機というか、原動力としては、このような感覚は大事である。

私の若いころ、学生のころのことをいえば、哲学を勉強していたということではなかったが(所属していたのは文学部の国文科)、文学作品、哲学書などを読むときの感覚として、いま自分が読んでいるこの小さな本をとおして、その向こう側に、この世の世界のすべてがひろがっている、そこに通じている道にいま、自分はたっている……このような感覚をもっていた。そのように、自分の若いころのことを思い出す。

もちろん、学生のころに、そんなこと(世界をまるごとわかる)が可能であろうはずはない。しかし、どのような基本姿勢が根底にあって勉強にのぞんでいるか、本を読んでいるか……年をとってふりかえってみると、このような姿勢の価値とでもいうべきものがわかってくる。

たとえば、文学研究でいえば……一首の歌について、その三十一文字のなかに、世界が凝縮された宇宙がある、というような感覚である。

ところで、そういえば、かつては理系の分野では、『科学朝日』という雑誌があった。この雑誌も、かなり以前に休刊になってしまっている。世の中全体の理系離れなどということがいわれたような記憶があるが、実は、問題の根底には深いものがあったのだなと、いまさら考えてみたりしている。

科学であろうが、歴史であろうが、文学であろうが……何を勉強しているにせよ、世界をまるごとわかりたい、この一冊の書物のなかに世の中の真実のすべてがつまっている……このような感覚が、特に若いひとたちのなかから消えていってしまっていといってよいであろうか。このような状況のなかでは、もはや『文学』(岩波書店)が生きのびるのは、むずかしいことであるといわざるをえない。

そして、このようなことが、現在いわれている人文学の危機的状況の根底にある問題なのだと、私は思う。さらにいわせてもらえれば、私とて、まだ、世界をまるごとわかりたい、という気持ちを捨て去ったわけではない。まだ、こころの奥底になにがしかは残っていると感じる。埋み火のように。若いころのようにはいかないかもしれないが。

文献リストでサブタイトルの書き方2016-06-18

2016-06-18 當山日出夫

学生に論文・レポートの書き方を教える。そのなかで、文献リストの書き方も教えることになる。

論文において、参考文献リストは重要である。

第一に、これまでの、その研究テーマについての研究史を示すものになっていないといけない。(これがあまりに膨大になる、逆に、あまりにも乏しいものは、研究テーマとして再考した方がいい。)

第二に、そのリストは、研究の背景をしめすと同時に、論文それ自体とあいまって、今後の展望・発展をあらわすものである。卒業論文などの場合、たいていの学生ならば、それで研究は終わりで、そこから先は無いのが普通。しかし、論文である以上は、その先の研究の展望がしめせないといけない。

ところで、この参考文献リストの書き方が難しい。いろんな研究分野でいろんな方式がある。文学部のなかでも、日本文学、日本史のような分野と、心理学の分野とでは、大きくスタイルが違っている。統一的なルールを、これだ、といってしめすことはできない。

これについては、またあらためて整理してみたいが、今回、確認しておきたいのは、サブタイトル(副題)の書き方である。

たとえば、宮崎市定の『科挙』という中公新書の本がある。東洋史・中国文学のみならず、日本文学・日本史などの勉強をする学生にとっては、必読の本であるといってよい。この本、サブタイトルに「中国の試験地獄」とある。さて、これをどう表記するか。

(1)『科挙-中国の試験地獄-』 全角ハイフンまたはダッシュで前後をはさんでしめす。

(2)『科挙――中国の試験地獄』 全角のダッシュの二つでしめす。

(3)『科挙:中国の試験地獄』 コロン「:」でしめす。

私は、このうち、(1)と(3)を教えることにしている。(2)は言及しない。

その理由は、全角ダッシュ「―」がわからない学生がいるからである。半角のハイフンを二つ書いて「--」、それを書いたつもりになってしまう学生が出てくる。まず、半角・全角の区別ができるかどうかが問題なのだが、ともあれ、「―」を確実に入力できないといけない。(コンピュータ文字について、全角・半角の区別がわからないという学生は、意外と多い。)

普通の学生のコンピュータ技能、というか、ワープロの使い方として、キーボードの右端にあるテンキーの角にある「-(マイナス)」から、入力・変換できればよいとしておく。(それでも、これを半角記号で書いている学生も多いのだが。)

そして、何よりも重要なことは……サブタイトルの書き方は、原本の再現ではない、ということである。原本にどう書いてあろうとかまわない。それが、タイトルがあって、サブタイトルがついていることを、一定の書式でしめす、これが重要である、といっている。つまり、書き換えてかまわない、いや、書き換えないといけないのである。

参考文献リストを書くとき、絶対に書き換えてはならない箇所もあれば、書き手の意図にしたがって、一定のルールで書き換えないといけない箇所もある。その区別がある、このようなルールがあるという認識を、まず教えなければならない。

ちなみに、以前にとりあげた『カラー版書物史への扉』では、上記のうち、(2)の方式で書いてある。

やまもも書斎記(2016-05-31):宮下志朗『カラー版書物の歴史への扉』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/31/8099280

文献リストの書き方は、何年教えていても、難しいと感じる。

斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』2016-06-19

2016-06-19 當山日出夫

新聞の本の広告を見ていたら、斉藤洋の『ルドルフとイッパイアッテナ』が文庫本ででるらしい。で、見てみると、映画化もされるとある。

我が家には、このシリーズ4冊(あるいは5冊)ある。

斉藤洋・杉浦範茂.『ルドルフとイッパイアッテナ』.講談社.1987
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061335059

斉藤洋・杉浦範茂.『ルドルフ ともだち ひとりだち』.講談社.1988
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061335097

斉藤洋・杉浦範茂.『ルドルフといくねこ くるねこ』.講談社.2002
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061335219

斉藤洋・杉浦範茂.『ルドルフとスノーホワイト』.講談社.2012
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061335226

それから、NHK版。これは、テレビで放送されていた時も、見ていた。

斉藤洋・堀口忠彦.『ルドルフとイッパイアッテナ』(NHKテレビ母と子のテレビ絵本).講談社.1990
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784063018110

たしか、はじめはNHKのテレビ絵本の番組で知った。まだ、子供が小さかったころのことである。一緒にテレビを見ていた。ナレーションは、毒蝮三太夫。それから、単行本を買ってきた。そろそろ、子供が自分で読めるかなというころになってからのこと。そして、続編の「ともだち ひとりだち」を買った。その次の「いくねこ くるねこ」になると、自分が読むために買ったように覚えている。最近の「スノーホワイト」になると、もう、完全に自分のためである。このときになれば、子供はもう大学生を終わっている。

我が家の本棚には、これ(ルドルフ)以外にも、斉藤洋の本は買ってある。そろえるというほどではないが、本屋さんでみつけると買うようにしてきた。それほど熱心というわけではないが、まあ、ファンのひとりと思ってもらってもいいだろう。「ルドルフ」シリーズのほかには「白狐魔記」シリーズなど好きである。

何が斉藤洋の魅力か……特に「ルドルフ」についてみれば、それは、主人公が成長していくことにあると、私は思っている。いわば、「教養小説」なのである。

多くの童話・児童文学は、主人公(その多くは子供である)を、子供の世界のなかに描き、その世界から出ることがない。しかし、いずれ、子供は成長していく。子供の世界から、外の世界へ、大人の世界へと、出て行かなければならない(はずである)。だが、たいての童話・児童文学の作品は、子供の世界の自己完結的な世界のなかにとどまるものが多い。

孤児(猫)となったルドルフは、いつまでも子猫のままではいない。飼い猫か、野良猫かの、自らのアイデンティティに悩みながら、大人の猫の世界にむかって、徐々にではあるが、生長していく。そして、大人の世界は、美しい正義の世界とは限らない。

最初は子供のために買っていた「童話・児童文学」を、面白いので、親の自分が自分で読むために買ってしまうということは、私の場合、ほかにもある。

たとえば、はやみねかおる……である。我が家には、「青い鳥文庫」(講談社)のシリーズでそろっている。決して、講談社文庫版になってから買ったのではない。これから先は、ミステリ談義になる。これぐらいにしておく。

もとにもどって、『ルドルフとイッパイアッテナ』は、現代日本における、最高にすぐれた「教養小説」であると、私はつよくすすめておきたい。

中島みゆき「36時間」2016-06-20

2016-06-20 當山日出夫

このところ、毎晩、聴いている曲がある。中島みゆき「36時間」である。

寝るとき、Walkmanをもっていくことにしている。以前は、Kindleをもっていっていた。それより以前は、紙の本であった。これも最近では、Kindleで本を読むよりも、Walkmanで音楽を聴いていることの方が多くなってきている。

最近のお気に入りは、中島みゆきのアルバム『組曲』(2015)。特に、その冒頭におかれた「36時間」がいい。一日が「24時間」ではなく「36時間」と歌ったこの曲、一日の最後に、じっくりと聴くと気分がやすまる。

中島みゆきのCDのほとんどは持っているつもりでいる。基本的に好きなのは、1980年代のころ。孤独な悲しみを歌った曲の数々が好きである。そのようなCDを、(実際には、WalkmanにFLACでコピーしたものであるが)を、自分の部屋で一休みするようなときには、よく聴いている。しかし、自動車のなかでは、あまり聴かない。(運転しながら聴くには、向いていないと感じる。)

最近、といっても、ここ10年ぐらい、あまりいいCD(アルバム)が出ないなあと思っていた。(このあたり、人による好みの違いはあるだろうが。)ここしばらくのロック調のものは、あまり聴いていない。(持ってはいるのだが。)

去年(2015)発売になったアルバム『組曲』……ひさびさにしっとりと落ち着いた感じの曲調の作品を中心に構成してある。どの曲もいいと思うのだが、特に「36時間」が気に入っている。一日のおわり、今日も一日が終わったなと寝るときになって、じっくりと聴く。

歌の世界で語ってくるほどに、「おいつめられた」生活をおくっているとは思ってもいないのだが、それでも、このように語りかけられると、つい耳をかたむけたくなってしまうというのは、やはり、今の生活にどこか、落ち着きのないところがあるせいかもしれない。そんな思いをかみしめながら、毎晩、寝る前に「36時間」を聴くのである。

70年代、ギターの弾き語りでデビューした中島みゆき、その成熟したすがたがここにあると私は思う。

JADS(2016年次大会)と古写真2016-06-21

2016-06-21 當山日出夫

今年もJADS(アート・ドキュメンテーション学会)の年次大会が終わった。
2016年6月11日・12日 奈良国立博物館

JADSブログ
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20160318/1458261422

シンポジウムのテーマは、「文化財と写真~現物と複製 その境界を越えて~」

若いころから、写真は好きな方である。いまでも、(無事に作動するかどうかは不安であるが)ニコンのF2・F3・FE2・FA、と持っている。これらの機材で、子供の小さいころの写真などとっていた。(まだ、デジタルカメラなど登場する前のことである。)

ところで、写真がデジタルになって、大きく変わったなと感じることがある。プリントアウトしない……昔でいえば、印画紙に焼き付けない……写真が増えてきたということである。ディスプレイ(パソコンであったり、スマホであったり)で見るだけのものでおわってしまう。写真とは、紙の上にプリントしたモノである、という感覚がもう通用しない時代になってきたのである。

シンポジウムの中で、登壇者のひとり(写真史の専門家)が、「写真とは何ですか」との質問に対して「手にもつことのできるもの」と答えていたのが印象的だった。逆にいえば、今では、手にもつことのできない、いうならばデジタルのデータだけの写真が増えてきた、ということになる。

さて、私の写真であるが……上述のように、マニュアルフォーカスのフィルムカメラはよくつかった。つまり、オートフォーカスになってからの機種は買っていない。しかし、デジタルカメラの時代になってから、デジタル一眼レフなど買ったりはしている。(その当時、いろいろ考えてオリンパスにしたのだが。)

でも、はっきりいって、デジタルになって写真をとることが、面白くなくなってきた、という印象をまぬがれることはできない。どうしてだろう。これはやはり、モノとしての写真ではなくなってしまったせいだろうか。

シンポジウムで出てきたことだが……古写真の文化財指定ということがある。東京国立博物館の持っている、壬申検査(明治5年)のときの文化財調査の記録写真が、今では、重文指定になっている。

これは、e国宝のホームページで見られる。

e国宝
http://www.emuseum.jp/top?d_lang=ja

このなかの、「歴史資料」に「壬申検査関係写真」としてある。

かつての時代の最先端にあった写真というものが、100年以上の時間を経て、それ自体がこんどは文化財になっていく……考えてみれば、数奇なめぐりあわせである。

さて、話かわって、大学の授業の中で、私は、古写真についてふれることがある。基本は次のふたつ。

第一に、古写真というものがあって(主に幕末・明治初期に撮影された写真)それが、「デジタルアーカイブ」として見られるようになっていることの紹介。

第二に、古写真には、どう考えても、すくなくとも個々のコンテンツには、著作権はないはず。その著作権のないコンテンツを、デジタル化して、インターネットで公開するとき、いろんな方針がある。「無料で自由につかえる」「申請が必要である」「有料である」など。このことについては、また、後ほど考えてみることにしたい。

ともあれ、古写真として何が写っているか、これも興味深い。誰が何をとっているか。この点についていえば、シンポジウムのなかでの次のような発言……「明治になって、勝った側が、負けた側を写している」……ナルホドと思った次第である。

この意味で、まず、私の脳裏にうかんだのは、戊申戦争で負けた会津若松城の写真。国立公文書館のホームページで、自由に見られる。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M0000000000001126738

古い写真から、いろいろ考えさせられるものである。

『日本近代随筆選』2016-06-22

2016-06-22 當山日出夫

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選1-出会いの時-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選2-大地の声-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選3-思い出の扉-』(岩波文庫).岩波書店.2016
https://www.iwanami.co.jp/book/b243810.html

岩波文庫で出ているので、とりあえず買ってみるかと思って買ってみた本であるのだが……これは、あたり、だったと思っている。

全三巻。『一 出会いの時』『二 大地の声』『三 思い出の扉』……たぶん、このシリーズを買わなければ、「無常ということ」(小林秀雄)の文章を再読してみるということもなかったかもしれない。

やや長くなるが、第一巻の解説(千葉俊二)から引用してみる。

「若いころは小説や評論ばかり読んでいて、随筆の面白さにはなかなか気づかされないというのが、大方の読書の最大公約数ではないだろうか。ある程度の歳を重ねて、自分の経験してきた人生と照らし合わせて読みながら、心の底から共感し得る内容や、ほんのささやかなことだけれど、これまで気づくこともなかったようなことに眼を向けさせられ、新たな認識を与えられて、人生の滋味といったようなものに触れたとき、どんな短い文章であっても、しみじみいいなあと思うし、面白いと感じさせられる。これは読む側ばかりの問題でもなく、書き手側についても同じことがいえる。」(p.326)

こういうことばに共感するようになったというのも、たぶん私自身が歳をとってきたということなのだろうと思う。これも、悪いことではないのであろう。ただ、私の場合、小説や評論を読むというよりは、日本語学関係の専門書・論文などを読んできたのだが。そして、私の場合、この歳になって、文学・歴史・哲学、といった人文学の基本的な本を読んでおきたくなっている。

第一巻の冒頭においてある作品は、『サフラン』(森鴎外)である。次のような文からはじまる。

「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりでない。すべての物にある。」(p.10)

今では知らないものがあれば、コンピュータを起動して、ググってしまう。「サフラン」が知らないことばだったら、検索してしまうだろう。どんな植物なのか、そして、画像まですぐに出てきてしまう。名前だけが、記憶の底にのこるという時代ではなくなってしまっているのかもしれない。

第二巻の『鐘の声』(永井荷風)。

「住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声が聞こえてくることがある。」(p.10)

今のインターネットは、YouTubeに接続すれば、音声付きの映像も見られる。しかし、実際に自分の耳で聞く鐘の声は、またちがっている。

インターネットのおかげ、随分と便利にはなった。しかし、知的に、また、情緒的に、豊かになったとはいえないのでないのかもしれない。この随筆集を読むと、そう思わざるをえない。

第三巻には、『城の崎にて』(志賀直哉)がはいっている。

ところで、これは、「随筆」なのであろうか。私の認識では、「小説」だと思っていたのだが。この論点については、また、次にあらためて考えてみたい。

志賀直哉『城の崎にて』は小説か随筆か2016-06-23

2016-06-23 當山日出夫

安藤宏.『「私」をつくる-近代小説の試み-』(岩波新書).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/4315720/

この本は、日本の近代小説における「私」(第一人称)のふるまい方をめぐる論考である。内容については、すでにWEB上にいろんなレビュー等があるので、くりかえさない。

すでにこのブログで書いたこととの関連で気になったことを一つだけ。

『城の崎にて』(志賀直哉)……この作品が、岩波文庫『日本近代随筆選』第三巻(思い出の扉)に収録されている。これは、はたして妥当なことなのであろうか。私の認識では、『城の崎にて』は、「小説」だと思っていた。

『日本近代随筆選』第三巻の解説にはつぎのようにある(長谷川郁夫)、

「随筆に記されるのは、いつの場合もこころの真実である。しかし、思い出には記憶違いもあれば、誇張もある。リアリティ尊重の究極のかたちが随筆だろうと理解しても、それが「作品」となる以上、そこには読ませる技術、読者を喜ばせる技術が必要とされる。(中略)ときにはフィクショナルな要素が、あるときには多分に加味される。」(p.346)

そして、吉田健一にふれた箇所をうけて

「随筆は虚実のあわい、その妙を味わうべきものとも考えられるのである。/などと記せば、本集に志賀直哉の心境小説の代表作とされる「城の崎にて」を収めた意図も、おおよそのところ推察されることと思う。」(p.347)

ここでいっていることは、私の理解では、「随筆」にはウソを書いてもかまわない。フィクションであってもよい。要はその文章の巧さをどう表現するかにある、ということである、と読める。

一方、『城の崎にて』について、安藤宏は、『「私」をつくる』で、次のように書いている。

「かつてある留学生にこの小説を薦めてみたところ、興味深く読んだけれども、これは「小説」ではなくエッセイなのではないか? という質問を受けたことがある。決してそのようなことはない、『城の崎にて』は発表当時から理想的な「小説」として高く評価されてきたのだ、と、とりあえずは答えてみたものの、実はエッセイではないという理由をうまく説明できず、その時の歯がゆさが「小説」における共同性について考えるきっかけにもなったのだった。/エッセイと「小説」とを区分するポイントは、やはりこの場合も「自分」が小説家であり、『城の崎にて』のできあがるプロセスが平行して示されている、という設定にかかっているように思われる。」(p.159)

「つまり「それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」という執筆の現在までもが含まれている。特に右の「なるだけは」という文言には、結果的に助かったけれども、実は人生それ自体、この三年間のモラトリアムとはたしてどこが違うのか、という「現在」の認識がぬり込められている。温泉保養の挿話の背後には、一人の小説家が数年間かけて死生観を変容させていくプロセスが、いわば「もう一つの物語」として示されているわけである。」(pp.159-160)

安藤宏の見解としては、書いてあることが「事実」かどうかは、たいした重要性はない、それよりも、どのような「自分」をどのように書いているのか、その「自分」のふるまい方にあるのだ、といっているように理解される。

たしかに『城の崎にて』は、「随筆」としても「小説」としても読める作品である、としかいいようがないのかもしれない。だが、しいていえば、私としては、「小説」であるといっておきたい。

以下、私見である。それは、作中の「自分」の描き方である。これは、第三者視点(神の視点)から見た「自分」であると、私には読める。限りなく素朴な実在論的な意味での自分にちかい「自分」もあれば、逆に、第三者視点(神の視点)を経由したうえで描き出される「自分」もある。この意味でいうならば、『城の崎にて』の「自分」は、「自分」とは書いてあるものの、第三者視点(神の視点)を経由して眺めた「自分」である。私には、そのように読める。

したがって、『城の崎にて』の「自分」が、読者との「共同性」をおびたものとして、ふるまってもおかしくはない。「共同性」を描こうとするならば、「読者」と「作者」の両方を、同時に俯瞰する視点が必要になるからである。

つまり、次のようにまとめることができる。

「随筆」と「小説」を分けるものは、事実か虚構かではない。「自分」をどのような視点から見るかである。「作者」イコール「自分」であるのが「随筆」。そうではなく、「自分」を第三人称視点(神の視点)から見たものとして描くのが「小説」。一人称視点の小説というものもありうるが、そのとき描かれる「自分」は、それが「私小説」であったとしても、「作者」からではなく、第三人称視点(神の視点)を経由したものでなければならない。

この意味では、『日本近代随筆選』に『城の崎にて』がはいっているのは、それなりの判断があってのことにせよ、多少の問題がないわけではない。

とりあえず以上のように考えてみた。さらに考えてみたい。

電子書籍からの引用はどう示すか2016-06-24

2016-06-24 當山日出夫

電子書籍について思うことを書いてみる。

電子書籍の利便性については、いろんなところでいろんなひとが述べている。ここでくりかえすまでのこともないだろう。ここでは、私が困っていることについてしるしておきたい。

それは、「引用」と「典拠」のしめしかたである。

論文やレポートを書く。そのときに、引用・出典ということが重要になる。これは、紙の本についてであれば問題はない。さまざまな流儀があるとはいえ、これまでの各研究分野における、習慣というか、伝統的なスタイル、とでもいうべきものがある。

これが、電子書籍になるとどうか。

引用はできる。PCで見ているにせよ、Kindleなどの専用デバイスで見ているにせよ、とにかく、内容を書き写す(コピー)することは、紙の本と同様である。

では、次に、この出典を注記しようとしたとき、どうすればいいか。このときになって、はたと困ってしまうのである。ページが書けないのである。

いうまでもないことだが、電子書籍には「ページ」の物理的概念がない。本文のデータがあって、それをディスプレイに表示する。そのとき、文字の大きさにあわせて、ディスプレイの表示文字数は変化する。リフローするのである。引用して、その典拠・出典としての、どの本の何ページと、確定的に指示できないのである。

これは、論文・レポートを書くとき、致命的に困ることだと思うのだが、はたして、ひとはどう思っているのだろうか。

たとえば、私のKindleには、「角川インターネット講座」(全15巻、合本版)がいれてある。(安かったから買ったのだが、今、確認してみると、値段があがっている。買ったときの値段を確認してみると、2700円だった。)

ともあれ、この本から何か引用しようとしたとき、本文をディスプレイ表示を見ながら書き写すのはいいとしても、その典拠・出典を書かねばならなくなったとき、困ってしまう。ページ番号が書けないのである。これでは、引用することができない。これでは、私が書く文章……論文とまではいわなくても、このようなブログに引用することもできない(少なくとも、典拠を明示して書こうとするならば。)

引用できないということは、学生の勉強につかえない、少なくとも、論文やレポートを書くときの参考文献としては利用できない、ということになる。論文やレポートでは、引用した箇所については、かならずその典拠をしめさなければならない。これは、アカデミックな世界における決まったルールである。そして、しめされた典拠にしたがって、その論は検証できなければならない。

電子書籍の利便性について語られることは多いが、上記のような問題点については、あまり言及されることがないように見ている。はたして、この問題、どのように考えればいいのだろうか。