松沢裕作『自由民権運動』2016-07-08

2016-07-08 當山日出夫

松沢裕作.『自由民権運動-〈デモクラシー〉の夢と挫折-』(岩波新書).岩波書店.2016
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/X/4316090.html

私の読後感をいえば、自由民権運動に限った話しというよりも、むしろ、近世から近代にいたるまでの社会の基本的構造の変化の歴史、というように理解した。

まず、著者は、明治以前(江戸時代)の社会をつぎのようにしるす。

「「士農工商」が、三角形のヒエラルヒーでイメージされるとすれば、筆者のいう身分制とは、人間が、いくつかの「袋」にまとめられ、その「袋」の積み重ねによって一つの社会ができあがっているというようなイメージである。」(p.24)

そして、明治維新は、かつての「袋」のような身分制を破壊したあとのポスト身分制を模索することになる。

「身分制社会において、政治は統治者たる武士身分の職業であった。百姓や町人はこれにかかわらない。民撰議員設立建白書が主張するのは、身分制社会の解体後において、統治の正統性は社会の構成員一人ひとりの政治参加によって支えられなければならないという原理である。民撰議員設立建白書は、ポスト身分制社会の原理を提示したマニフェストであった。」(p.41)

明治11年の、郡区町村編制法・地方税規則・府県会規則、について、

「三新法はそうした「袋」をやぶり、府県の住民全体に共通の利害を議論する場として、府県住民の代表である府県会議員があつまる府県会を設置した。」(p.141)

そして、

「そして移行期が終わり、近代社会の形が定まったとき、自由民権運動は終わる。一八八四(明治一七)年秋、展望を失った自由党が解党し、秩父の農民の解放幻想が軍隊の投入によって打ち砕かれたとき、自由民権運動は終わった。」(p.204)

だいたい以上が、ポスト身分社会をむかえての自由明家運動の概要ということになるのだろう。

ところで、この本も、また歴史の産物である。このことについては、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年7月6日
呉座勇一『一揆の原理』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/06/8126224

「おわりに」のつぎのような箇所。

東日本大震災後の反原発デモ、特定秘密保護法反対運動、安保法制反対運動、このような社会の動きをうけて本書も書かれている。

「しかし、そうした運動にかかわる人びとの議論のなかで、なんとも後味の悪い応酬を、主としてネット上で目にすることが一再ならずあった。運動のなかには、運動内部でしか通用しない論理をふりかざし、運動内部と外部を切断してしまうような言辞を吐く人びとがいるように思われた。本来、そうした運動にシンパシーを持っていてもいいような人びとを遠ざけ、むしろ運動の潜勢力を失わせているように見えた。そうした現在進行形の運動のあり方が、自由民権運動の敗走の過程と重なって見えなかった、といったら嘘になる。」(p.215)

それは、たとえば、本書の次のような記述にも反映されていると思う。

「激しい言葉で政府を批判する弁士、悪役としての警官、両者の激突と会場の混乱。聴衆にとって演説会は一種の痛快な見世物であり、参加者は必ずしもそこで説かれる政治構想の理屈を理解していたわけではなかったのである。」(p.91)

このような記述を、先の安全保障法制反対における、国会前デモの風景に重ね合わせて読んでしまうとしても、それは、それで、現代の読者としてのこの本の読み方であると思う。

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