加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』松岡洋右のこと ― 2016-07-10
2016-07-10 當山日出夫
つづきである。
やまもも書斎記 2016年07月09日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772
加藤陽子.『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫).新潮社.2016(原著は、朝日出版社.2009)
http://www.shinchosha.co.jp/book/120496/
この本の歴史を描いた部分については、すでにいろんな方面からコメントがあると思うので、読んで私の興味関心からちょっと気になった点をすこし。松岡洋右についての記述で、興味深いところがあった。これについて書いてみたい。二ヶ所ある。
第一は、つぎの箇所。
「三三年三月、日本は国際連盟を脱退しますが、連盟の議場で日本の全権の松岡洋右が、いったいなにを議論していたかというと、ポーツマス条約で日本がロシアから獲得した権益はこれこれであり、中国側が日本に認めた権益の内容はこれこれであるから、満州の権益をめぐっては中国側がまちがっていて、日本側が正しいのだ、という議論だったのです。」(p.176)
これは、日露戦争について語った箇所である。国際連盟脱退のとき、松岡洋右の演説の様子などは、映像などで目にする機会が多いのだが、いったい何をいっていたのか、この箇所は、明らかにしてくれている。だから、日本は正しかったのだ、と私はいうつもりはない。しかし、満州事変の背景として、日露戦争からときおこす、このような歴史の射程のおきかたは、勉強になるところである。
そして、これは、日本近代史において、あまりに専門分化がすすんでしまった結果として、今では、むしろ見えにくくなっている点かとも思う。高校生にはなすというスタイルだからこそ、このような視点を持ち得たのかもしれない。
第二は、対支二十一ヵ条要求についての箇所。
松岡は、次のような手紙を書いている。一九年七月。
「いわゆる二十一ヵ条要求は論弁を費やすほど不利なり。(中略)他人も強盗を働けることありとて自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは畢竟窮余の辞なり。」(p.267)
これを加藤陽子は、「そもそも山東問題は二十一ヵ条要求と分離して論ずることなどできない。日本側が弁明するのは無駄なことだ。日本の弁明は、しょせん、泥棒したのは自分だけではないといって自分の罪を免責しようとする弁明にすぎず説得的ではない。」(p.267)と解説している。
後年、連盟脱退のときとは違って、ここでは至極冷静に日本の国益を見ている松岡洋右がある。
ところで、この論理、日本の近代史、特に、戦争責任をめぐってよく目にする論法である。悪いのは、日本だけではない。欧米列強だって、アジアを植民地にしていたではないか、云々。
この論理に対して、松岡洋右自身がかつて、悪いものは悪いとみとめるしかないと冷静に分析していたのは、印象的である。そして、いうまでもないが、現在の日本は、この時点で松岡洋右がしめした冷静さを保っているとはいいがたいといえるであろう。いわく、東京裁判におけるパル判決には……という論法である。
これについては、また、改めて書くことにする。
なお、対支二十一ヵ条要求については、松本健一も、失策であったと判断している。
松本健一.『日本の失敗-「第二の開国」と「大東亜戦争」-』(岩波現代文庫).岩波書店.2006(原著 東洋経済新報社.1998)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-603134-3
以上の二ヶ所が、『それでも……』で、松岡洋右について、気になったところである。やはり、松岡洋右という人物は、日本近代史を論じるとき、注意してみなければならないひとりであると思われる。
ここは、加藤陽子著の『松岡洋右』が読みたいのであるといっておく。
つづきである。
やまもも書斎記 2016年07月09日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772
加藤陽子.『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫).新潮社.2016(原著は、朝日出版社.2009)
http://www.shinchosha.co.jp/book/120496/
この本の歴史を描いた部分については、すでにいろんな方面からコメントがあると思うので、読んで私の興味関心からちょっと気になった点をすこし。松岡洋右についての記述で、興味深いところがあった。これについて書いてみたい。二ヶ所ある。
第一は、つぎの箇所。
「三三年三月、日本は国際連盟を脱退しますが、連盟の議場で日本の全権の松岡洋右が、いったいなにを議論していたかというと、ポーツマス条約で日本がロシアから獲得した権益はこれこれであり、中国側が日本に認めた権益の内容はこれこれであるから、満州の権益をめぐっては中国側がまちがっていて、日本側が正しいのだ、という議論だったのです。」(p.176)
これは、日露戦争について語った箇所である。国際連盟脱退のとき、松岡洋右の演説の様子などは、映像などで目にする機会が多いのだが、いったい何をいっていたのか、この箇所は、明らかにしてくれている。だから、日本は正しかったのだ、と私はいうつもりはない。しかし、満州事変の背景として、日露戦争からときおこす、このような歴史の射程のおきかたは、勉強になるところである。
そして、これは、日本近代史において、あまりに専門分化がすすんでしまった結果として、今では、むしろ見えにくくなっている点かとも思う。高校生にはなすというスタイルだからこそ、このような視点を持ち得たのかもしれない。
第二は、対支二十一ヵ条要求についての箇所。
松岡は、次のような手紙を書いている。一九年七月。
「いわゆる二十一ヵ条要求は論弁を費やすほど不利なり。(中略)他人も強盗を働けることありとて自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは畢竟窮余の辞なり。」(p.267)
これを加藤陽子は、「そもそも山東問題は二十一ヵ条要求と分離して論ずることなどできない。日本側が弁明するのは無駄なことだ。日本の弁明は、しょせん、泥棒したのは自分だけではないといって自分の罪を免責しようとする弁明にすぎず説得的ではない。」(p.267)と解説している。
後年、連盟脱退のときとは違って、ここでは至極冷静に日本の国益を見ている松岡洋右がある。
ところで、この論理、日本の近代史、特に、戦争責任をめぐってよく目にする論法である。悪いのは、日本だけではない。欧米列強だって、アジアを植民地にしていたではないか、云々。
この論理に対して、松岡洋右自身がかつて、悪いものは悪いとみとめるしかないと冷静に分析していたのは、印象的である。そして、いうまでもないが、現在の日本は、この時点で松岡洋右がしめした冷静さを保っているとはいいがたいといえるであろう。いわく、東京裁判におけるパル判決には……という論法である。
これについては、また、改めて書くことにする。
なお、対支二十一ヵ条要求については、松本健一も、失策であったと判断している。
松本健一.『日本の失敗-「第二の開国」と「大東亜戦争」-』(岩波現代文庫).岩波書店.2006(原著 東洋経済新報社.1998)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-603134-3
以上の二ヶ所が、『それでも……』で、松岡洋右について、気になったところである。やはり、松岡洋右という人物は、日本近代史を論じるとき、注意してみなければならないひとりであると思われる。
ここは、加藤陽子著の『松岡洋右』が読みたいのであるといっておく。
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