柳田国男『雪国の春』2016-08-13

2016-08-13 當山日出夫

天皇の話しになったところで、ちょっと長谷部恭男から離れてみる。(これはこれとして、本をきちんと読んでみるつもりであるが。)

柳田国男.『雪国の春-柳田国男が歩いた東北-』(角川ソフィア文庫).角川学芸出版.2011
http://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g201108000861/

以前は、というよりも、私の学生のころの話になるのだが、柳田国男の主な著作は、角川文庫でかなりのものが出ていた。学生のときに、『定本柳田国男集』(筑摩書房)は、そろえて買ってもっていた。とはいえ、読むのには、手軽な文庫本がいい。そうこうしているうちに、新しく『柳田国男全集』は刊行になる一方で、文庫本で手軽に読めるということではなくなってしまった。ちくま文庫の文庫版の『柳田国男全集』も今では、なくなってしまっている。

やはり、柳田国男とか、折口信夫とかは、「全集」で完備していることも大事だが、その一方で、手軽に読める文庫版があった方がいい。柳田・折口の仕事は、まだまだ生きていて、これからのことを考えるうえで、常に参照しなければならないものを多くもっていると思う。

そんななか、角川ソフィア文庫のシリーズで、いくつかの柳田国男の著作が読めるようになっているのは、うれしい。『雪国の春』もその一冊。これには、「清光館哀史」が収録されている。「清光館哀史」については、また、別に書きたいと思っている。

ここで、『雪国の春』を手にして、読み始めて、ふと目にとまったのは、次のところ。その「自序」にこのようにある。

「ただこういう大切なまた込み入った問題を、気軽な紀行風に取り扱ったということは批難があろうが、どんなに書斎の中の仕事にしてみたくても、この方面には本というものが乏しく、たまにはあっても高い所から見たようなものばかりである。だから自分たちは出でて実験についたので、それが不幸にして空想のように聞こえるならば、まったく文章が未熟なためか、もしくは日本の文章が、まだこの類の著作には適していなためである。」(p.4)

このような、自分の研究に対する自覚というか反省が、今の学問にあるだろうか、と思って読んだ。ここから、二つの点を考えてみたくなる。

第一には、自らの学問の方法論への反省と自覚である。日本民俗学は、柳田国男にはじまる、といってよいであろう。その学問領域をつくっていくということの、方法論への自らいだいている疑問、これは、きわめて重要なポイントである。これは、柳田国男、あるいは、日本民俗学という学問を理解するうえで、常に、その方法論への反省がともなっている。

これをわすれて、ただ過去からの学問の継承としての民俗学には、それはそれとして、学問的意味があるのであろうが、なにかしら研究としての魅力はとぼしいように感じている。

第二には、やはり「ことば」というものへの自覚である。新しい学問領域を開拓するにあたっては、新しい文章が必要である、という認識。これは、今では、おそらく、ほとんどの学問研究の分野から、すたれてしまったことではないだろうか。

ある意味では、現代日本語の文章というものが、それなり発達をとげてきた、ということもあるだろう。あるいは、現代の研究者で、その論文の「文体」にどれほどのこだわりがあるかとなると、とぼしいといわざるをえないのではないか。それでも、文学、文芸評論、哲学などの領域では、それなりに独特の文体を駆使する人がいないではない。しかし、大勢としては、現代日本語の「研究の文体」というものは、もはや透明ななにかになってしまっているかのごとくである。

何かを語るためには、何かの思想を構築するためには、それなりの文体が必要である……といっても、その自覚が、もはやほとんど消え去ってしまっているといってもよいであろう。

ここで、研究とは、思想とは、文学とは……日本語の文体である、このような原点にたちかえって考えてみる必要を感じる。

以上二点、久しぶりに柳田国男の本を手にとって読み始めてみたところの感想である。