歩く速度の文章2016-08-14

2016-08-14 當山日出夫

柳田国男の『雪国の春』を読んでいる。

柳田国男.『雪国の春-柳田国男が歩いた東北-』(角川ソフィア文庫).角川書店.2011
http://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g201108000861/

日本は四季のある国であるという。これは、これである意味正しいいえるのかもしれないが、それを簡単に肯定してはいけない、そのような感じをあたえてくれる本である。日本列島の北から南まで、季節のおとづれは一様ではない。そんな当たり前のことを確認しておく必要がある。

このようなこと、私などは非常に強く感じる。というのも、育ちは京都(宇治市)、大学から東京、そして今は奈良市に住んでいる。このような生活環境のなかで生きてきていると、日本の歴史とか文学とかを勉強するとき、ある意味、非常に有利である。自分の住んでいる(住んだことのある)地域の歴史をたどれば、そのまま、ほとんど日本の歴史になってしまう。まさに、万葉人から、王朝貴族、そして、近代の東京の人間にいたるまでの歴史そして季節感というもののなかで暮らしてきている。

だからこそ、そうではない地域に住んでいる人たちの環境への想像力というもおのが必要になってくるのだろうと、思う。

このような自分に対する自戒の意味を込めて、ある時、学生に課題として書く文章に、自分の故郷が日本史のなかでどのように登場するのか書いてみなさい、というような課題を与えたことがある。

出不精の人間である。旅行するのはあまり好きではない。学会が、東京であるときに出かけるぐらいしか、家を空けることはない。

せめて、柳田国男の本でも読んで、一昔前の日本列島の人びとの暮らしに、思いをはせてみるのも夏の時間の使い方かもしれないと思っている。特に、柳田国男の文章など読むと、時間の流れが違ってくるような感覚がする。なんというか、ゆったりとしている。それは、その文章のせいなのかもしれない。その文章の速度を具体的にいえば、旅といえば、歩いて旅をした時代の時間の流れ方である。今のような列車や自動車による移動ではない。柳田の時代にすでに鉄道はあったろう。だが、著者のものを見る目は、鉄道に乗っている速度ではない。むろん、今のように縦横に自動車で行けるという時代のものでもない。旅といえば、ある場所から次の場所まで歩いていく、そのようなものであった時代のものを見る目の速度である。

柳田国男が日本民俗学という学問をつくりあげるにあたって、試行錯誤しながら書いた文章は、今の観点から読み直してみると、そこで時間の流れがとまってしまったような印象をうける。そのような時代があり、そのような生活をしていた人がいて、それを、そのような目で観察していた人がいた……という学問のあり方の歴史のようなものに、思いをはせてみるのも、時として必要なことではないかと思っている。