芥川龍之介『羅生門』の結末2016-08-17

2016-08-17 當山日出夫

『なつかしの高校国語』にもどってみる。この本、『羅生門』(芥川龍之介)からはじまっている。確認してみると、凡例では、『現代国語1 二訂版』(1979-1981)、とある。

筑摩書房(編).『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2011
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093783/

ここで問題にしてみたいのはその最後である。

「下人の行方は、だれも知らない。」

これは改作後のもの。一般には、この形で流布している。普通の文庫本や、もちろん、くだんの筑摩の国語教科書も、この文章になっている。だが、ここの初出の文章は、

「下人は、既に、雨を冒して、京都の町で強盗を働きにいそぎつゝあつた。」

である。(この箇所、『なつかしの高校国語』による。p.49)

今、確認する余裕がないのだが、私の持っている『芥川龍之介全集』(岩波書店版)は、初出主義にしたがって、改作前のかたちで本文となっていたと覚えている。注に、この箇所が、後に改作されて、現在、普通に見るような形になったとあったと記してあった、と記憶している。

この改作の件、『なつかしの高校国語』でも載っているのは、教師用の解説のところ。生徒が読む本文のところは、通常のテキストのままである。

ところで、この『羅生門』の末尾の改作の件、私は、高校生の時から知っている。学校の授業で、『羅生門』をならったという記憶はないのだが(それとは別に読んでいたのかもしれない)、最後のところの改作の件については、何かの授業のときに、ある先生が話をしているのを聞いて覚えている。後に、自分で芥川龍之介全集などを見て、それを再確認したということになる。

今、高校の国語教育というところからはへだたった場所にいる人間としては、この作品『羅生門』がどのように教えられているのか、知るすべはない。

だが、もし、自分が、高校の教師だったら、ここをどう教えるだろうかとは考えてみるところである。国語教育において、文学をどのように教えるか、これは大きな課題である。そう簡単に答えのある問題ではないであろう。だからこそ、この問いは、学校教育にたずさわる人間だけではなく、文学とか、教育とかに、関心のある人間にとって、重要な課題になるはずである。

ここでは、二つの問題があるだろう。

第一に、教科書のテキストは安定したものである、という思い込みのようなものをどう考えるか。大学教育(高等教育)においては、テキストの異文をあつかうというのは、むしろ当たり前のことかもしれない。異文をふくめてテキストと考える立場をとりうる。

しかし、高等学校(中等教育)において、教科書に載っているテキストが、安定したものではないと、どう教えるべきなのだろうか。無論、教科書に掲載するにあたって、表記(常用漢字など)の配慮はあるだろう。だが、テキストそのものに、異同があることは、教育として、教えるべきことなのだろうか。ここは、教科書にのっているテキストを絶対のものとして、あつかうしかないのか。

これは、テキスト至上主義につながる。

第二に、とりあえずテキストを安定したものとしてあつかうとしても、そこから、読者がどのような想像力を駆使して、作品を読んでいくか、という課題がある。テキストどおりに書いてあることを、(教科書編纂者の意図にしたがって、教師の指示通りに)読み取っていくのが文学の読み方、ということになるのであろうか。

特に、この『羅生門』のラスト(改作後)は、読者の想像力にゆだねられている箇所である。それをどのように読むのが、正しい読解、文学の理解といえるのだろうか。ここから、生徒に何を読み取らせればよいのであろうか。

あるいは、ここが改作されていることを明らかにしたうえで、作者(芥川龍之介)が何を語ろうとしたのか、そこを読み解いていくべきかもしれない。だが、これは、高校教育のレベルをこえる課題かもしれない。

以上の二点が、国語教育という観点で考えてみた課題である。だが、これは、教科書にのっているテキストだからといって、国語教育だけにかかわる問題ではない。現代の一般の読者にとっても、問いかけられなければならない課題でもあるだろう。

芥川龍之介の作品など、学校の教科書に載っているか、あるいは、学生のときに文庫本で読むぐらい……これが、おおかたの読者の実際かもしれない。だが、文学が文学として生き残るためには、一般の読者こそが重要である。

文学とは、高校生、大学生のときにだけ読むものではないと思う。むしろ、そこから自由になって、大人になってから、味わうべきものとして生き残るなにかががあるのなら、それこそが文学であるといえるだろう。そして、この意味では、『羅生門』のラストの改作問題は、現代のわれわれに投げかけられた、そして、おそらくは未解決の、文学の課題であると思う次第である。