半藤一利『日露戦争史』全三巻2016-09-08

2016-09-08 當山日出夫

これまで、半藤一利『日露戦争史』(三巻)について書いてきたので、ここでまとめての感想など、いささか。

やまもも書斎記
半藤一利『日露戦争史 1』 2016年8月21日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/21/8157105

半藤一利『日露戦争史 2』 2016年8月26日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163037

半藤一利『日露戦争史 3』 2016年9月6日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/06/8171280

三巻目も、例によってあとがきの方から読んだ。

「そしていま、とにもかくにも、エピローグまでたどりついたとき、自分では意識していなかったが、わたくしは心身ともにへとへとであったようである。終わった喜びどころか、困憊というのか、〈終〉とかいて鉛筆を原稿用紙の上において、窓の外にひろがる冬の抜けるような蒼空をながめながら、しばしポカーンとしていた。そのあとも二、三日は字を一字もかく気が起こらず、檻のなかの熊のようにうろうろとその辺を歩きまわっていた。」(pp.411-412)

これは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を評した後に、書かれていることばである。筆者(半藤一利)は、司馬遼太郎にある対談でこう語ったという。

「ならば司馬さん、『坂の上の雲』をもう一章か二章、”日露戦争後の日本”をかかなければいけなかった。でないと、あの小説は完結したことにならないないんじゃないですか」と、わたくしはせまった。これに司馬さんは苦笑を返すばかりで、一言も答えようとしなかったことを覚えている。」(pp.410-411)

日露戦争の歴史を語った後に、その後の日本のあり方を語る、これは、誰しもが思うことであろう。だが、司馬遼太郎はそれをしなかった。そして、半藤一利もそれをしなかった。いや、できなかった。それほど、日露戦争を語ることの重みとでもいうべきものがあるのだろう。たぶん、これは、実際には、それをなした(日露戦争の歴史を語った)人間にしか分からない感覚なのかもしれない。

読者としては、司馬遼太郎『坂の上の雲』もこの『日露戦争史』(三巻)も、なんだか終わりがあっけないような印象がある。で、その後の日本はどうなったのか、こう思ってしまう。だが、司馬遼太郎も半藤一利も、それをしていない。いや、できなかった。

そういえば、NHKドラマ『坂の上の雲』も、日本海海戦の後は、せいぜい講和条約をめぐっての日比谷焼き討ち騒動を描いたぐらいで、おわりは意外とあっけなく、「え、これで終わりか」というような終わり方だった。まあ、秋山好古の最晩年の一コマを描いてはいたのだが。

たぶん、これ(日露戦争をふくめた近代史全般)は、歴史家の仕事であって、文学、あるいは、歴史探偵の仕事の領域を超えたことになる、と理解していいだろうか。そして、その歴史家としては、加藤陽子などが、まず思い浮かぶところなのであるが。

加藤陽子.『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/120496/

たぶん、歴史学の立場から史料に即して歴史を叙述するのと、物語として歴史を語ることの差異なのかもしれない、と思ったりする。どちらがすぐれているかという議論ではなく、発想の違い、立場の違い、歴史を見る観点の違い、語り方の違い、という総合的なものとして、それはあるのだろう。

そのなかで著者が選んだのが「歴史探偵」という立場で語るということ。これは、基本的に既存の歴史書・史料をふまえたうえで、それを整理して、自分なりに咀嚼したうえで、語っていると理解する。狭義の歴史学研究書ではない。しかし、歴史小説でもない。基本的にフィクションはない。また、史料が確かでなくわからなくて想像で述べるしかない場面は、それと断ったうえで記述してある。

その歴史探偵の視点の置き方は、基本的に次の二つ。

第一に、「民草」の視点からを忘れないこと。庶民でも、国民でもない、市民でもない、「民草」の語を著者はつかっている。おそらくは、この語に込められた意味を感じ取ってこそ、この本を読んだことになるのだろうと思う。

第二に、昭和戦前、太平洋戦争の時点から振り返って、かつての日露戦争を見るという視点である。なぜ、日本は太平洋戦争、あるいは、大東亜戦争に、つきすすんでいったのか、それを批判的に考える視点を常にもっていることである。

この二点による「歴史探偵」の物語が、この『日露戦争史』三巻ということになる。

ともあれ、日露戦争を語るという大きな仕事の一つとして半藤一利『日露戦争』三巻は、今後も読まれていくべき本であると思う。すくなくとも、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)だけにまかせるのではなく、また、別の視点から日論戦争を描いたものとして、貴重な仕事になるにちがいない。

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