大塚ひかり訳『源氏物語』2016-09-10

2016-09-10 當山日出夫

私は、大学は文学部国文科の出身なので……『源氏物語』ぐらいは原文で読むべきものと思っていた。原文といっても、岩波古典大系などの校注本になる。それでも、変体仮名の原文(写本・版本)であっても、文字を追うことはできる。

だが、ここにきて、現代語訳で読むのも、一つの選択肢かなと思うようになってきた。

源氏物語の現代語訳といえば、古くは、与謝野晶子があり、谷崎潤一郎が有名である。谷崎訳などは、この訳ならむしろ原文で読んだ方がわかりやすいという評価もあったかと記憶している。それから、私が若いときに出たものとしては、円地文子訳がある。さらに、瀬戸内寂聴訳もある。

近年になって、林望が訳している。

『謹訳源氏物語』
http://www.shodensha.co.jp/genji/

それから、最近では、中野幸一訳がある。
『正訳 源氏物語 本文対照』
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=18_61&products_id=100506

ここでとりあげてみたいのは、

大塚ひかり全訳.『源氏物語』(ちくま文庫).筑摩書房.2008
http://www.chikumashobo.co.jp/special/genji/

である。

新潮文庫の近刊で、『本当はひどかった昔の日本』が出た。

大塚ひかり.『本当はひどかった昔の日本-古典文学で知るしたたかな日本人-』(新潮文庫).新潮社.2016 (原著、新潮社.2014)
http://www.shinchosha.co.jp/book/120516/

これを買って、つらつら眺めてみた。解説を書いているのが、清水義範。その解説にいわく……こんな意味のことが書いてある……自分はこれまで、各種の現代語訳で読んできたが、どれも途中でとまってしまっていた。ところが、大塚ひかり訳で読むと、全部読むことができた、と。

清水義範がそこまで褒めるなら読んでみる価値があるかなと思って買って読んでみることにした。すると、これが面白い。

いろいろ特徴はあるが、時によっては、原文につかってある語句を訳さずに、そのまま ” ” でしめしている。ところどころ注釈的な部分が入れてあったりする。なによりも最大の特徴は、「ひかりナビ」として、数ページおきぐらいに、解説が記してあることである。その物語の読みどころとか、現代のまでの研究の背景とか、時代的な解説とか、書いてある。このところだけ読んでも充分に面白いぐらいである。また、不必要に敬語をつかっていない(あえてはぶいてある)のも、読みやすくなっている一因であろう。

最初に書いたように、文学部国文科というところで『源氏物語』を読んだ経験があると、ストレートに読むということが実はない。すでに、概説書・研究書・注釈で、その箇所の概要を知ったうえで、では原文ではどうなっているのかを確認しながら読む、このような読み方になってしまう。つまり、書物として、『源氏物語』をストレートに読むということがないのである。

そうはいっても、『源氏物語』は、全ページを繰ったことはある。ただ、それが、順番にではない。物語の重要な箇所から読んでいく、その時の授業で取り上げられたような箇所に目をとおす、という具合にして、とにかくページだけはめくったことがある。

まだ、コーパスの無い時代である。『源氏物語大成』の索引を引いて、原文にあたって、それを、さらに現在の校注本で確認して、という作業を何度かやったこともある。このようなこと、私ぐらいの世代で、国文学・国語学を勉強した人間なら経験していることと思う。

ところで、大塚ひかり訳『源氏物語』である。これは面白いので、この本で『源氏物語』を読んでみるかな、という気になっている。まだ、読んだのは「夕顔」までであるが、これなら、「須磨源氏」(=『源氏物語』を読んでいって、「須磨」の巻ぐらいで挫折してしまうこと)にならずに、最後までいけるかなと思っている。

もちろん、原文(校注本)でも読めるのだが、現代語訳の解釈をたのしみながら、原文をイメージしながらの読書というのも、これはこれで一つの読書の楽しみであると思う。いや、そのように思う年になったという方が正解かもしれない。若い頃なら、こんな現代語訳なんかは馬鹿にして読まなかったにちがいない。

まさに、ある程度年をとってからの読書の楽しみとして、現代語訳『源氏物語』があるといってよいだろう。ただ、そうはいっても、『平家物語』とか『今昔物語集』は、原文でと思っているのだが。

余計なことを書いておけば、『源氏物語』の成立論として、三段階論は知っている。古くは、武田宗俊、近年では、大野晋が提唱した考え。あるいは、村上征勝もこの立場にたっている。この意味では、紫上系の物語だけひろい読みしていってもいい。かつて、私は、そのような読み方をしていた。だが、今回は、律儀に、「桐壺」から順番に読んでみることにするつもりでいる。