石母田正『平家物語』 ― 2016-09-15
2016-09-15 當山日出夫
石母田正.『平家物語』(岩波新書).岩波書店.1957
古本で買った。緑表紙の岩波新書である。今は、もう売っていない。
この本を最初に読んだのは、国文科の学生のときだったろうか。ある授業で紹介されていたのを覚えている。そこで言及されていたのは、
「見るべき程の事は見つ」
という、知盛のことばであった。壇ノ浦でこれが最期というときのことば。なぜか、このことばは印象に残っている。平家の栄華、源平の争乱、そのすべてを体験してきて、最後に身を海に投じようというときに言っている。この世の中で、見るにあたいするほどのすべてのものごを見尽くした……散文的に言ってしまえば、このような意味になろう。ここは、現代語訳してしまったのでは、原文の持っているきっぱりとした覚悟のようなものが伝わってこない。
この箇所、現代のテキストで確認してみると、『岩波文庫本』では、第4巻の212ページ「内侍所都入」にある。
特に、中世文学を専門にしたということもないのであるが、(実際にやってきたのは、それとはほど遠いコンピュータ文字のことなどである)、この「見るべき程の事は見つ」の言葉だけは、妙に印象に残っていた。そろそろ、自分もそういう年なのかなあと思ったりりもするのだが、これまでにいったい自分はどれほどのことを見てきたのだろうか、これからどれほどのことを見ることができるのだろうか、という思いが時折去来するようになってきている。
ふと思い立って、ネットで本を探して注文してみた次第である。探せば昔の本がどこかにあるのかもしれないが、とてもそんな気にはなれない。便利な時代になったものである。ほとんど手数料・送料だけで、家にいながら古本が手にはいるようになってきている。
たしかに、今の時点で、石母田正の本は古くなっているのか、という気はしないでもない。特に、この本、歴史学者である石母田正が、『平家物語』について書いているというところがうりの本だと思う。石母田正の賞味期限がきれてしまえば、ある意味で、この本も古くなってしまう宿命なのであろう。(歴史学は専門というわけではないので、現在の石母田正の評価がどうなっているのか、よく分からないのだが。)
ところで、この『平家物語』(石母田正)を再読してみて、「運命」ということが気になってしかたがない。最初にあげた「見るべき程の事は見つ」の言葉も、「第一章 運命について」のはじめの方で言及・引用されている。
「むすび―平家物語とその時代」で、筆者は次のように書いている。
「近代人のように歴史の必然をでなく、歴史を運命という観念でとらえていた時代の作品にたいして、それが時代を一面的にしか表現しなかったということを証明してみせたところで、どれほどの意味もあるまい。」(p.203)。
また、『平家物語』の作者にあったのは……「物語精神」であるという(p.46)。この「物語精神」は、それ以前の王朝物語にも、また、同時代の西行や定家にないものであるともある。
現在の平家物語の研究の現状にはうとい。しかし、あえてその故であろうか、久しぶりに、『平家物語』(石母田正)を再読してみて、新鮮な感じがしている。無論、歴史学研究者として述べている部分には、ちょっと今の観点からはどうかな、というところもある。特に、琵琶法師を社会の下層に位置づけているあたり。おそらく今の解釈であれば、むしろ、身分秩序の範囲外にあった自由な人間となるのではなかろうか。
このような点があるとしても、『平家物語』を「運命」の物語、それを、作者はどう描いているか、このような視点から『平家物語』の魅力にせまった本として、まだ、この本は読む価値があると思う。いや、中世文学研究者ではないから、このような自由な読み方が許されるのかもしれない。
ともあれ、この『平家物語』(石母田正)を読んで、じっくりと『平家物語』を読んでみたくなった。
『源氏物語』もそうであるが、『平家物語』も、全部ページをめくっていることはあるのだが、順番に読んだことのない本なのである(正直に言ってしまえば)。そろそろ、研究のためというよりも、読書のたのしみのために『平家物語』を読んでみるべきときになってきたのか、という感慨である。
そして、「運命」ということについて、考えてみたくなっている。
石母田正.『平家物語』(岩波新書).岩波書店.1957
古本で買った。緑表紙の岩波新書である。今は、もう売っていない。
この本を最初に読んだのは、国文科の学生のときだったろうか。ある授業で紹介されていたのを覚えている。そこで言及されていたのは、
「見るべき程の事は見つ」
という、知盛のことばであった。壇ノ浦でこれが最期というときのことば。なぜか、このことばは印象に残っている。平家の栄華、源平の争乱、そのすべてを体験してきて、最後に身を海に投じようというときに言っている。この世の中で、見るにあたいするほどのすべてのものごを見尽くした……散文的に言ってしまえば、このような意味になろう。ここは、現代語訳してしまったのでは、原文の持っているきっぱりとした覚悟のようなものが伝わってこない。
この箇所、現代のテキストで確認してみると、『岩波文庫本』では、第4巻の212ページ「内侍所都入」にある。
特に、中世文学を専門にしたということもないのであるが、(実際にやってきたのは、それとはほど遠いコンピュータ文字のことなどである)、この「見るべき程の事は見つ」の言葉だけは、妙に印象に残っていた。そろそろ、自分もそういう年なのかなあと思ったりりもするのだが、これまでにいったい自分はどれほどのことを見てきたのだろうか、これからどれほどのことを見ることができるのだろうか、という思いが時折去来するようになってきている。
ふと思い立って、ネットで本を探して注文してみた次第である。探せば昔の本がどこかにあるのかもしれないが、とてもそんな気にはなれない。便利な時代になったものである。ほとんど手数料・送料だけで、家にいながら古本が手にはいるようになってきている。
たしかに、今の時点で、石母田正の本は古くなっているのか、という気はしないでもない。特に、この本、歴史学者である石母田正が、『平家物語』について書いているというところがうりの本だと思う。石母田正の賞味期限がきれてしまえば、ある意味で、この本も古くなってしまう宿命なのであろう。(歴史学は専門というわけではないので、現在の石母田正の評価がどうなっているのか、よく分からないのだが。)
ところで、この『平家物語』(石母田正)を再読してみて、「運命」ということが気になってしかたがない。最初にあげた「見るべき程の事は見つ」の言葉も、「第一章 運命について」のはじめの方で言及・引用されている。
「むすび―平家物語とその時代」で、筆者は次のように書いている。
「近代人のように歴史の必然をでなく、歴史を運命という観念でとらえていた時代の作品にたいして、それが時代を一面的にしか表現しなかったということを証明してみせたところで、どれほどの意味もあるまい。」(p.203)。
また、『平家物語』の作者にあったのは……「物語精神」であるという(p.46)。この「物語精神」は、それ以前の王朝物語にも、また、同時代の西行や定家にないものであるともある。
現在の平家物語の研究の現状にはうとい。しかし、あえてその故であろうか、久しぶりに、『平家物語』(石母田正)を再読してみて、新鮮な感じがしている。無論、歴史学研究者として述べている部分には、ちょっと今の観点からはどうかな、というところもある。特に、琵琶法師を社会の下層に位置づけているあたり。おそらく今の解釈であれば、むしろ、身分秩序の範囲外にあった自由な人間となるのではなかろうか。
このような点があるとしても、『平家物語』を「運命」の物語、それを、作者はどう描いているか、このような視点から『平家物語』の魅力にせまった本として、まだ、この本は読む価値があると思う。いや、中世文学研究者ではないから、このような自由な読み方が許されるのかもしれない。
ともあれ、この『平家物語』(石母田正)を読んで、じっくりと『平家物語』を読んでみたくなった。
『源氏物語』もそうであるが、『平家物語』も、全部ページをめくっていることはあるのだが、順番に読んだことのない本なのである(正直に言ってしまえば)。そろそろ、研究のためというよりも、読書のたのしみのために『平家物語』を読んでみるべきときになってきたのか、という感慨である。
そして、「運命」ということについて、考えてみたくなっている。
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