高取正男・橋本峰雄『宗教以前』2016-09-20

2016-09-20 當山日出夫

高取正男・橋本峰雄.『宗教以前』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2010 (原著、日本放送出版協会.1968)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093011/

かなり以前にNHK(日本放送出版協会)から出ていて、文庫本(ちくま学芸文庫)になったもの。なぜか手にとることのなかった本であるが、文庫本で読んでみた。

共著なので、視点・論点が錯綜しているかなと感じるところがちょっとあるけれど、これはいい本だと思う。広く読まれるべきだろう。特に、柳田国男の祖霊信仰についての批判の部分、それから、国家と宗教についての考察。

ここでは、この本の柳田国男批判のところをみておきたい。柳田国男の祖霊論、『先祖の話』は、周知のことと思うので、もうくりかえさないでおく。これについて、この本は、次のように批判している。

「柳田氏のこのような意見は、もはや民俗の客観的な解明であるよりも、明治の家父長制をよしとする、官僚的な保守主義者の個人的心情の表明であり、しかもこのような心情が『先祖の話』を内容的にも支配していると考えられるのである。」(p.187)

「柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する――あるいは、還元できることを期待する。」(p.187)

「アニミズムに立つ柳田氏の祖霊と神において、それを存在論的意味での実在、アニマとみなしているのは、あくまで「家」の先祖と神までが本来であって、村の氏神や中央からの勧進神などは、社会習慣、心理的願望、政治的教化などが後次的に作り出したものとみなしている感がある。はたして日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問であろう。」(p.190)

民俗学、宗教学を専門にしているというわけではないので、この柳田国男批判の是非を判断することはさしひかえておきたいのだが、上記に引用した箇所を読むかぎり、なるほどという感じがしてならない。日本の宗教観を祖霊信仰だけから導き出すのは、やや無理があるとすべきであろう。

かつての日本の宗教がどうであったかも重要だが、それよりも、これからどうなるかも気になるところである。この点については、この本には次のようにある。

「祖先崇拝はたんに血縁のそれに限定されずにより普遍化されて、結局は「三界万霊」の供養のようなものとなり、したがってたとえば各家の仏壇も、その中心は先祖の位牌よも普遍的実在としての仏であるという、名前どおりのものになるかも知れない。むろん、先祖崇拝が存続するとしてである。死者の霊魂が個性を持ち続けると考えるか、融合単一化すると考えるかは、これからの日本人の死生観がきめることである。」(pp.196-197)

この『宗教以前』は、ちょっと古い刊行の本ではあるが、言っていることは、現在の日本の宗教(特に仏教)のかかえている問題を、みごとに指摘しているといえるのではないだろうか。

毎年、八月のお盆の時期になると、テレビのニュースでも各地の墓参りの様子が報道されたり、各種の民俗行事の報道があったりしている。たとえば、京都の大文字送り火、これなど祖霊信仰の現代版であろう。と同時に、京都の夏の一つのイベントにもなっている。これが今後どうなるかは、各自の、そして、社会全体としての、「内省」にかかっているのかもしれないと思う。

ここで「内省」と書いたが、この言葉は、文庫本の解説(「繊細の精神」安満利麿)で、次のように言及されている。

「「内省」とは、今ある自己のあり方を振り返ることである。」(p.268)

として、民俗採訪、そして、読書にときおよんでいる。昔の本を読み、また、残された民俗行事に接することによって、自ら省みる必要がある。それが、未来の自分のあり方をきめていくのである。また、祖霊信仰についてどう考えるかは、日本の文化・歴史を、どう考えるかということにも、ふかくつながっていくことでもある。

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